第19話 走っている人間は、急には止まれない。



 一階は、一番から三番ゲートまで共通の広大なエントランスホールである。(ちなみに四番、五番は「特殊業務用」という用途が判然としない非公開ゲートだ)階段の手すりを伝って一階へ降りたアサキは、火災警報装置が姦しい中、騒然とするホールへと飛び出した。


 平日休日関係なく行き交う人の多いホールの中を走るのは難しく、目の前を横切る人や戸惑ったように立ち止まって周囲を見回している集団にぶつかりかけてはたたらを踏んで進路を変える。人波に阻まれてちらちらとしか確認出来ないが、追っ手と思しき人影がアサキ同様ジグザグに走っているのが視界の端に映っていた。追い込まれていると分かっていても、最寄りの三番側出入り口以外に逃げ出せる場所が無い。


 走るアサキにつられたように、幾人か建物外へと飛び出す者が出始める。本当はもっと、大勢が出入り口に殺到するようなパニックになってくれればと思って火災報知器への細工を仕掛けたが、さすがにそう上手くは行かないようだ。


(葛葉の闇刺――特にあの「狐」は衆目に晒されるのを嫌う。捕まる前に目立ってしまえば勝算はあるはずだが……果たして上手い方法があるか、な?)


「――サク、私の位置は分かるな。来い。出来るだけ目立て。衆目を集めろ」


 携帯端末でサクを呼び出し、手短に命令を下して有無を言わさず切る。だが、相手は本来のマスターも分からぬ暴走ドール。命令に従う保証は何処にも無い。


(それはもう、『他人』を相手にしているのと同じレベルで不確定だ)


 所有ドールではなく、人を。そこまで考えてアサキは笑う。そこがサクというドールの、たまらなく面白い部分なのだ。


 火災警報システムにより出入り口の二重ドアは自動開放状態になっている。ドアに阻まれる事の無かったアサキは、弾丸の如く屋外へ飛び出した。しかし、建物を出て十メートルも走らないうちにアサキは立ち止まる事になる。


「よう、女傑。足の怪我の具合はどうだい?」


 飛び出したアサキの真正面に、長い金髪をなびかせて女が立ちはだかった。


「心配するな。かすり傷だ」


 サクが置かれていた倉庫の奥に立っていた女だ。言われて左足のふくらはぎがじくりと痛んだ。今の今まで忘れていた傷と痛みに、これがアドレナリンの効果かと妙に感心する。


(こいつが、『狐』……)


 夢か幻のような出来事だったが、確かにアサキの眼前で、この女は狐面の男に変化した。噂どおり、常識と言うものを馬鹿にしているとしか思えない存在である。


 背後から、もう一人の闇刺が退路を塞ぐ足音が聞こえた。こちらは恐らく精神操作系の能力者だ。でなければ、数分前の自分の行動に説明がつかない。何をされたのかは分からなかった。だが、あの数分間、何の疑問も無く相手の要求に従っていた事は覚えている。


「そいつは良かった。こっちは結構、痛い思いをしたぜ?」


 悠長げに腕を組み、丈の短いスカートと長い金髪を海風に舞わせながら狐が哂う。獰猛でどこか艶のある、嗜虐的な笑みだ。背後から足音が近づく。狐が自分の気を引いて、背後の男に捕縛させる算段か。振り向いて迎え撃つかと考えて、即座にそれを却下する。操作された時の状況を思い出せば、あの時自分は男に、名刺大の紙を見せられた。何かが書いてあったとは思わない。だが、あの紙に何か仕掛けがあったとすれば、相手の能力は視覚を介する公算が大きい。


(目を閉じて、迎撃。ふん、無理だな……)


 闇刺やCMドールではあるまいに、そんな武芸の達人のような真似は出来ない。だが、無抵抗で捕まるよりは一分一秒でも長く逃げていた方が勝算は高まる。


 思考は一瞬、決断は刹那。


 アサキは左斜め前のアスファルトへと競泳よろしく飛び込んだ。そのまま一回前転して狐の脇をすり抜けようと身を起す。しかし、起す身体のすぐ脇に気配が滑り込んだ。相手の動きに押し流された空気が、そより、とアサキの頬を撫でる。


(さすがに、二度目は無いか)


 極限まで処理速度を上げた神経回路が、時間の流れを緩慢にする。


 研ぎ澄まされた感覚に対して動きの追いつかない眼球が、のろのろと気配の方へと向く。


 間近に見えた相手の服地が、腕のものなのか胴のものなのかすら分からない。


 ココア色のニット地に白いレース柄のプリントが、馬鹿馬鹿しいほど鮮明に網膜に焼き付いた。


 かつん。


 何か薄くて軽いものが、固い地面を叩く音がした。


 ほぼ同時に、身体に数箇所軽い衝撃が走る。上から何かが降っているのだ。


 すぐさま集中豪雨となってアサキと狐の頭上から降り注いだそれは、ざああぁと派手な音を立ててアスファルトに広がる。すぐ脇で鋭い舌打ちと乾いた軽い破裂音が響き、再び間近で空気が動いた。


(ピンポン球…………)


 慣性の法則のままに身体を伸ばし、次の一歩を前へ出す。その足元に、白とオレンジ色のピンポン球がてんでに跳ね回っていた。


 車は急には止まれない、と言うが、走っている人間も急には止まれない。古典力学的な意味でも、生理学的な意味でも。


 着地したはずの足がピンポン球を踏んで滑る。身体の重心がずれて大きく傾いだ。


(こぉんの、ポンコツドール――――っ!!!)


 瞬間、脳内を支配した罵声を、声に出す余裕はさすがに無かった。




***




「あーっ!! この人知ってる! 葛葉の闇刺の人だーっ!!!」


 上空からぶち撒けた大量のピンポン球を追ってアサキの傍らに着地したサクは、咄嗟に警戒して飛び退いた金髪の女を指差して、最大音量で叫んだ。ただでさえ派手な音と足元まで転がってくるピンポン球に驚いて、何事かとこちらへ注意を向けていた人々の視線が、一気に金髪の女とサクに集中する。


「ゲッ!」


 間抜けな悲鳴を上げて女――禾熾がたじろいた。


 その隙に、ピンポン球を踏んですっ転んだアサキを担いで退路を探す。


 視線が合った一瞬、アサキが凄まじい形相でサクをねめつけた。サクは統合制御回路内だけで肩を竦めて舌を出す。「目立て」と言ったのはアサキで、諸々の許す範囲内で最も目立ちそうだったのがこの方法だったのだから仕方ない。


「中だ」


 一言、低く押し殺した声でアサキが命じた。


 了解、とこれも音声出力はせずに呟いて走る。「ヤマさん」と呼ばれていた闇刺が阻もうと動くが、足元の悪さに負けて動きが鈍い。抜群の重心補正処理で平らな地面の上と変らず走るサクに追いつけるはずもなかった。


 先程、倉庫らしき狭い部屋で約一日ぶりに起動した時、サクに入力されていた最優先命令はその場からの脱出だった。統合制御回路がマトモに起動し、情報収集と状況判断、命令下すよりも前に、もっと下層の回路からの命令で、いわば「勝手に」ボディが動いたのである。アイカメラや集音マイクといった入力装置の起動とすらほぼ同時だった事から、下層回路の緊急判断というよりは、恐らく何らかの強制コマンドを入力されたのだろう。ちなみに、下層回路の緊急判断とは人間で言うところの「反射」に近い。反射とは、特定の刺激に対して本人の意識を介さず起こる反応のことで、膝のすぐ下の部分を叩くと脚が跳ね上がるアレだ。


 倉庫を飛び出してからちょうど五分で、強制コマンドは解除された。入力装置や下層回路からの情報を一切加味せず、命令発動からの経過時間だけを条件に解除される類の、単純で、それゆえサクからしてみれば抵抗しようのない、正しく「強制」命令である。命令が解除されるとすぐ、サクはアサキの状況を把握するため引き返した。そして途中で「目立つものを」という命令が来たので、辺りを探し回って運良く見つけたピンポン球の山を持ってきたのだ。


「連中はお前を、ツクヨミへ連れて上がろうとしたようだな」


 未だ騒然としているはずの三番側出入り口から最も離れている、第一ゲート側の階段室に走り込んだサクは、アサキを階段に腰掛けさせて左脚の傷を検分する。黒のタイツが無残に裂け、まだ出血が続いているようだが、幸いそう大きな血管を傷つけている様子はなかった。血に汚れてしまった濃紺のワンピースの裾を了解を得て裂き、包帯代わりにして止血していると、アサキがそんな事を言った。


「はい。理由は僕も聞いていません」


 そう答えて急ごしらえの包帯の端を結ぶ。立ち上がろうとするアサキを制止して、サクはアサキに背を差し出してしゃがみ込んだ。


「出血は酷くないですが、縫わないとすぐ傷が開きそうです。歩かない方が良いと思いますから、負ぶさってください」


「…………随分目立つと思うが」


「血の滴る脚を引き摺って歩く方が目立ちますよ、きっと」


 その渋面が想像できるような声音に、少し笑いながら返事をする。ふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らす音が聞こえ、アサキがサクの背中に身を預けた。


「――それで、アサキさん……」


「このまま第一ゲートからシャトルに乗ってツクヨミへ上がる。出来るだけ早いものに乗りたいが、低軌道ステーション止まりでは話にならん。相手が相手だけに逃げ切れる保証は無いが、此処で退いて得る物はないだろう」


 謝罪や弁明を口にしようとしたサクをぴしゃりと遮り、アサキが指示を出す。


「言う事も訊く事も色々とあるが、すべてはシャトルに乗ってからだ」


「了解」


 その気になれば軌道エレベータ管制や、静止軌道ステーション「アマハラ」の宇宙港にすらその影響力を持つと言われる葛葉である。ツクヨミまで辿り着きたければ、もたもたしている時間はない。アサキを背負ったサクは、二階のシャトル搭乗ゲートを目指して階段を上り始めた。

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ライフ=ライセンス 歌峰由子 @althlod

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