第11話 おうじさまの約束
すみれを乗せた社用車は道後駅前の駐車場に停まった。痛んだアスファルトにかかとを取られながらしばらく歩くと、見覚えのある女性の姿があった。
「お待たせ」
「いえ、今来たところです。こんにちは、市河さん。村瀬です」
「……どうも」
なぜ支倉の従姉妹が同行するのかすみれには分からない。根っからの人見知りであることもあって、すみれは二人の出方を注視する。二人して視線を交わし合ったかと思うと、支倉はすみれに向き直る。
「左手出して、しおちゃん」
「は?」
しおちゃんと呼ばれた従姉妹がまとう空気が一瞬で崩れた。射貫くような鋭い眼光が支倉へと向けられている。「いいから」と告げた支倉の言葉で、彼女は観念したように左手を怠そうに持ち上げる。
「こういう関係なの、私たち」
「あ……」
すみれは二人の薬指を見てすべてを把握した。夢乃が言った通り、支倉遙香の婚約者は村瀬詩織。これが破壊したいとさえ思っていた完璧な女の正体だった。
「会社の人に言っちゃっていいの?」
「遅かれ早かれ言うつもりではあったから。ごまかすのも大変だったしね」
「ま、ハルがそれでいいなら」
先ほどまでのしおらしい態度が嘘だったように、婚約者の村瀬は態度を変えた。以前までの姿は、他人を欺くための仮面だ。すみれはやはり、彼女の内面すら見通せていなかったらしい。
「……おめでとうございます」
何を言ったらいいのか分からず、とりあえず祝っておくことにする。あまりの自体に混乱するすみれに支倉は苦笑を返した。
「ごめんなさい、突然こんなこと言われても困っちゃうよね」
「ええ、まあ……」
言い淀むすみれを無視して、村瀬は支倉にだけ視線を合わせて告げる。
「いいから行こ。温泉行くんでしょ」
「は?」
今度はすみれが聞き返す番だった。
「市河さんも来るでしょ、温泉。軽く寝られる場所もあるって聞いたよ」
そうなのか、とすみれは素直に感心してしまった。道後温泉は松山有数の観光地だが、大抵の観光地がそうであるように地元民はほとんど寄りつかない。知らなかった故郷の事実をすみれは四半世紀生きて初めて知った。
「いや、でも私は……」
ひとりは上司とは言え、昨日今日知り合った人間も居る。そんな二人に体を見られるのは相当に抵抗がある。すみれの体は今キスマークだらけだから余計にだ。
「いいじゃん、どうせハルの体には敵わないんだし」
すみれのことを露とも知らない村瀬は、完全に勘違いしていた。
敵わないというのは支倉のプロポーションのことで間違いないだろう。男を惹きつけて止まないだろう大きな胸にくびれ、そしてほどよい肉付きの足。幅広く男性受けのする体だが、それは支倉にとって何の意味も成さない。
一方、村瀬の方はすらっとした細身だ。まだどこか幼さが残る顔は小さく、支倉と同じ身長でも彼女の方が高く見える。女性から見て美しいと思える理想の体型だろう。
ちなみにすみれの体型はそのどちらでもない。平凡と言えば聞こえはいいが、ふたつの理想型と比べれば中途半端だ。
「いえ、そういうことではなく……」
「温泉に入らなくても寝るだけならいいんじゃない?」
「……ああ、なるほど」
勘違いしていたのはすみれも同じだった。別に温泉だからと湯船に浸かる必要はない。横になって休めるスペースがあればいいだけなのだ。
「というわけだから、本日のお仕事は一旦おしまいです! 適度にサボって休憩しましょう!」
支倉と村瀬は。登楼がそびえる道後温泉本館へ向けて歩き出した。おそらくすみれを気遣っての行動を断ろうにも、徹夜に近い頭ではまともな判断もできない。すみれはそのまま幽鬼のように、二人の後をついていった。
「やり過ぎでしょ、あのバカ……」
温泉。更衣室で服を脱いだすみれは、体じゅうのキスマークに気付いて頭を抱えた。支倉に指摘された首筋の内出血跡などかわいいものだ。肩、背中、胸元、腰、太もも。つけた本人の体にあるアザを彷彿とさせるほどに大量の痕跡が残っている。
速やかに――特に同じ更衣室で着替えをしている支倉と村瀬には見られないよう浴衣に着替え、すみれはひとり休憩スペースを訪れた。元は湯あたりした人のためのスペースだったが、利用者が自由に休めるよう開放されていた。
壁際に陣取り、座布団を枕にすみれは横になった。暖房の効いた空間。温泉の熱を利用した床暖房。温かな空気に包まれていると、意識が切れるまでさほど時間は掛からなかった。
大昔の夢を見た。
*
「どうしてゆめのちゃんはすみれとあそんでくれるの?」
父親が実刑を受けて刑務所の中に居た頃。幼稚園の通園バスの中で、隣に座る夢乃にすみれが話しかける。20年前、5歳の記憶。
「あそんじゃだめなの?」
夢乃はきょとんとした顔で首を傾げた。
「でもみんな、すみれとはあそばないよ?」
犯罪加害者家族であるすみれに対する風当たりは、思えばこの頃から強かったのかもしれない。母親から「お父さんはタンシンフニン」と聞かされていたため、自分が逆風の中に居ると気付かなかった。「はんざいしゃ!」と周りの子たちから言われても、その意味を知らなかったために幸せだった。
「すみれははんざいしゃだからあそんじゃだめなんだって」
告げると夢乃はパッと華が咲いたように笑った。
「すみれちゃん、かっこいい!」
「えー。かわいいのほうがいい~」
何度、カッコいいとかわいいを言い合ったか分からない。そのうち、どちらが折れたのかは分からないが、夢乃がこんなことを言い出した。
「かっこいいってどういうのかなあ?」
「かっこいい……」
「かっこいいなあ~。むずかしいもんだいですね~」
二人して、カッコいいとは何かを考え始める。子どもらしい連想ゲームで弾き出した答えはふたり一緒だった。
「わかった! おうじさま!」
「うん! おうじさまはかっこいい!」
結論が出たところで、バスは夢乃の家の前に停まった。バスを降りる時に夢乃は思い出したように宣言した。
「ゆめのね! すみれちゃんのおうじさまになってあげる!」
「えー、へんだよー。おうじさまはおとこのこだよ?」
「ぜったいなるんだもん! ゆめのがおうじさまで、すみれちゃんがおひめさまね!」
いつの時代も、プリンセスは女の子の憧れだ。お姫様という単語が出た途端、すみれは夢乃の宣言を否定する理由がなくなった。現金なものだ。
「おひめさま! なりたい!」
「じゃね、すみれおひめさま!」
「うん! ゆめのおうじさま!」
*
「市河さん、市河さーん?」
ひどく既視感があった。こうして支倉に起こされるのは二度目だ。
「……すみません、眠っていました」
重たい瞼を持ち上げると、支倉と村瀬の姿があった。湯上がりだからか化粧は落ちているが、化粧を落としてもさほど変わらないのは驚異的だ。普段のすみれならすぐに粗を探そうとするが、もう二人の粗は見つかっている。加えて、粗を探したところでもはやなんの意味も成さない。
「社会人って大変だね」
胡座をかいて壁にもたれた村瀬がぼんやり呟く。おそらく、彼女はまだ学生の身分なのだろう。
「それで、あたしに何を話せって?」
「あの子のこと。ほら……」
目配せだけして察したのか、村瀬は納得したように語り始めた。
「あたしね、女の子に告白されたことあるんだよ。高校生の時に」
すみれは、なぜ支倉が彼女を連れて来たのかぼんやりと察した。似たような経験を持つ村瀬の話を聞かせて、相談に乗ろうとしているらしい。
「……はい」
「その子のことは全然なんとも思ってなくてさ。だから、悲しいけどゴメンって言った。ま、その時からハルと付き合ってたのもあるけど」
さらりと条例で引っかかるようなことを言ってのける。完璧だと思っていた支倉の姿は、今日一日ですっかり崩れ落ちていた。
「でも、未だに付き合いはあるよ。学科一緒だから毎日会うし。さすがにもう迫っては来ないけど、今ではいい友達」
「安心した?」とイタズラっぽく村瀬は笑った。すみれと支倉、両方に向けられた言葉だったようで、支倉は小さく安堵の息を吐いた。
「実は私もね、高校時代からずっと思い続けてた女の子に告白したことがあったの。その子からは、恋愛対象として見られないって言われちゃったけどね」
すみれの前で二人は、己の恋愛遍歴を吐露してみせた。プライベートもプライベートなことだ。なぜそんなに大事なことを、彼女達は話してくれるのだろう。
「どうして私に話すんですか……?」
支倉と村瀬は顔を見合わせて笑った。
「そういう相談には乗りたいものじゃない? 女ってさ」
「そんな単純な理屈で……」
「恋バナに理屈なんてないでしょ」
そういうものなのか、とすみれは思う。健全な人生を歩んできたら、彼女らのように考えられるのかもしれない。そう感じた瞬間に、強烈な嫉妬心と自己嫌悪がすみれの心を呑み込みそうになる。
それを阻んだのは支倉だった。
「お友達にはちゃんと伝えた?」
夢乃にはあれだけ狂わされておきながら、まだ何も言っていない。好きだとも嫌いだとも告げていない。
女と女の行為。それだけ切り取ればアブノーマルなものという見方もある。だが少なくともすみれは、夢乃に対して性的な嫌悪を覚えてはいなかった。それも当然だろう、夢乃をモデルに性的な妄想ばかりしていたのだから。
「何を伝えたらいいのか分からなくて」
すみれは夢乃に何を求めているのだろうか。何を求めているから、あるいは何が負い目になって夢乃の復讐を甘んじて受け止めているのか。自分自身のことすら分からなくなる。
「それどころか、私がどうしたいのかも分からなくて……」
すみれの視界が潤んだ。顔を伏せた絶妙のタイミングで、支倉がちゃぶ台の上のティッシュペーパーを取った。どこまでも気が利く女性だ。
「……教えてください、支倉さん。私は、どうすればいいんでしょうか……」
支倉は何か言おうと口を開いて、閉じた。長い間を取って掛ける言葉を考えているであろう支倉を見ていると、他人に気を遣わせてばかりの自身が嫌になる。
「……それを考えるのは市河さんだよ。市河さんがどっちなのかはこの際どうでもいい。だけどお友達はきっと、どうなってもいいって思って想いをぶつけてきてるはず」
「だね。受け容れるも断るも、別の方法を探るのもあんた次第だよ」
「しおちゃん……。市河さんは年上だよ? 「あんた」っていうのはさ……」
「いいじゃん別に。もう会うことないだろうし」
「最近ますます結衣に似てきた……」
「でも嫌いじゃないんでしょ?」と村瀬が微笑み、支倉が赤面する。何とも仲睦まじい様子が鬱陶しくもあり、羨ましくもあった。
――私は……あるいは夢乃は、この二人のような関係になりたいのだろうか。
答えは分からない。考え方を変えなければ、ずっと悩み続けることになってしまうのだろう。
「あ~。ここのところ仕事漬けだしもうひとっ風呂浴びてきちゃおっかな! しおちゃんも行く?」
「ん。市河さんは寝とく?」
村瀬の言葉にハッとして、すみれの口は勝手に動いていた。
「行きます」
すみれの裸を見た支倉と村瀬の顔が引きつったのは、また別の話。
仮声よ、聖夜に響け パラダイス農家 @paradice_nouka
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