第10話 約束の約束
「……河さん。市河さん」
デスクで眠っていたすみれは、支倉に揺り起こされた。
「大丈夫?」
「……すみません、少し眠っていたみたいです」
12月4日。火曜日。
今夜は寝かせないとばかりに執拗に繰り返された夢乃からの復讐で、すみれはほとんど眠ることができなかった。睡眠不足に行為による体力の消耗、そしてイヤな仕事のトリプルパンチで出社早々眠りこけてしまっていた。
「支店長、今日も外回り行ってきます。市河さん借りますね」
「行っといで~」と支店長のやる気のない返事に送り出され、すみれは支倉の助手席に収まることになった。
「すみません、今日は私が運転を……」
「気を遣わなくても大丈夫。私、車の運転好きだから」
苦笑した支倉に、すみれは社交辞令レベルの気配りすらやめた。あまりの眠気に正常な判断力さえ失っているという方が正しい。
「だから助手席で休んでていいよ。昨日見回りした分の反映は終わってるから」
「え……」
寝不足と疲労とストレスで仕事にならない。自身の状態を察したような支倉の物言いに、すみれは驚いた。サイドミラーに映った顔は、化粧では覆い隠せないくらいにくたびれているように見えた。
「……お見通しなんですね、支倉さんは」
こんな言葉しか出てこないことが悔しい。何故なら支倉がすみれを連れ出した理由に察しが付いたからだ。
「何のこと?」
「オフィスで寝るくらいなら、助手席の方がいいですから」
居眠りを支店長に見つかって咎められるくらいなら、支店長の居ない社用車の助手席で眠っている方がいい。すみれの分の仕事は、支倉がほとんど終わらせているから大丈夫。完璧な支倉なら、それくらいしてのけるだろう。
「バレてたか~」
車を走らせながら、支倉は柔らかく笑った。
「直帰ってことにして早退しちゃう? 口裏合わせとくから」
どこまでも配慮が行き届いている。
すみれは支倉の完璧さを認めざるを得なかった。完璧な女に負けた。負けるべくして負けた。そんな念が、すみれの脳裏に鮮明に像を結んでいた陵辱の光景は霧散した。
「いえ、家には……」
夢乃の待つ家には帰りたくない。早退したところで仮想と現実の夢乃が五感めがけて復讐してくるだけだ。
「じゃあ、無理しない程度に。ツラかったら休んでてね、社交辞令とかじゃないから」
「……すみません」
完璧な気遣いを前にしては、もう謝るより他はなかった。海よりも大きいと認めざるを得ない支倉の優しさが、すみれにとってはあまりにも痛かった。
「それと」
言って、支倉は近くの駐車場で車を止めた。後部座席の鞄から絆創膏を取り出し、すみれの首筋に貼り付ける。
「これは隠しておいた方がいいね」
「なんですか……?」
なぜ首筋に絆創膏を貼り付けられたのか。首筋にケガなどしただろうか、とすみれは朦朧とする意識の中で振り返る。何かにぶつけた訳でも、夢乃に切られた訳でもない。
「あ……」
思い出して、すみれの背筋は冷えた。犯人は夢乃だ。すみれのあちこちを触るだけでは飽き足らず、夢乃はキスの雨を降らせた。であれば当然、その跡が残る。首元に指を入れて恐る恐るブラウスの下を覗くと予想通りだ。
無数のキスマーク――赤い鬱血の跡が残っている。それもおそらく全身に。
「最悪……」
「大丈夫、支店長は気付いてないみたいだったから」
そういう問題ではない気もする。支店長はお盛んだったから寝不足だなんて思わないだろうが、支倉にはほとんど筒抜けなのだ。
「いえ、これは……そういうものでは……」
「そっか。じゃあ忘れるね」
努めてにこやかに振る舞う支倉には、何の悪意も感じられなかった。都合よく忘れることはなくとも、誰にも喋らないという意思は感じられる。
この女になら、少しくらい心を許しても平気なのかもしれない。
「……この間のお金、ありがとうございました」
「うん。あれで足りた?」
あの三万円は夢乃に持って行かれた。それも支倉の弱点を暴くという最悪の用途で。己の敗北を痛感した今となっては、弁解の余地もないくらいだ。
「……はい。それで少し、相談したいことが」
「相談!?」
支倉は急に車を止めた。思いきり前のめりになって、ダッシュボードに額をぶつける。目が覚めるほど痛い。
なんとか体を起こしたすみれは、突然支倉に肩を掴まれた。彼女の瞳はキラキラ輝いている。嫌な予感がした。
「何でも言って! 市河さんの相談なら、どんなことでも聞くよ!」
*
かくして、すみれは近くの喫茶店へ入った。昼前だというのにケーキセットを頼む支倉を見ながら、すみれは普段は飲まないブラックを啜る。コーヒーのカフェインには、眠気覚ましの効果は少ない。すみれはそれを、数々の原稿修羅場を越えてきた実績から知っている。
「それでそれで、相談っていうのは何かな!?」
やけに楽しそうな支倉を前にして、すみれは尻込みした。業務外のプライベートのことを相談してもよいものかと思う。だが、こんなことを相談できる人間は他にいない。すみれが相談をできる人間など夢乃くらいのものだ。
「……プライベートのことなんですが、構いませんか」
「もちろん! って言いたいトコだけど、私もそこまで人生経験ある方じゃないからお役に立てるかどうか分かんないけど」
告げると、支倉は柔らかく微笑んだ。彼女が向けてくる眩しい笑顔が、すみれにはあまりにも痛い。痛いが、言うほかなかった。
「抱かれたことってありますか。……それも女性に」
「へあっ!?」
まるで完璧な女性とは思えないような声をあげて支倉は固まった。無理もないだろう、大して親しくもない上司と部下の関係性でぶっちゃけるにはあまりに話題がディープ過ぎる。
「ごめん、話が見えないかも」
「説明します」
*
私、市河すみれは、昔からあらぬ疑いをかけられ続ける子どもだった。誰かが泣き出せば「お前のせいだ」と指を刺され、誰かの持ち物がなくなれば「お前がやった」と叫ばれる。それは今にして思えば、おおよそいじめと呼ばれるものに近かった。
なぜなら、私の父親は前科者だった。妻と子どもを食わせるため、契約違反――約束を違えるようなつまらない詐欺に手を染めた犯罪者。結果として私と母親は、望むべくもなく加害者家族になった。加害者家族の立場は悲惨だ。法は被害者とその家族を守るものだが、加害者の家族までは守ってくれない。だから私は、いつも法の下の正義という大義名分をもって正義の第三者に鉄槌を下されてきた。第三者の中には、いや、鉄槌を下すべき立場にないような者ばかりが私達家族をタコ殴りにした。
だが、そんな中。たったひとりだけ私を守ってくれた少女が居た。彼女の名前は香椎夢乃。夢乃がなぜ、他の正義の第三者達のように私を殴らなかったのかは分からない。だが、夢乃は私を守ると約束してくれた。だから私も約束した。
私は絶対、他人との約束を平気で破る、父親のようにはならないと。
以来、私と夢乃、2人の約束は覆せない鉄の掟となった。
*
一部始終を話し終えたところで、支倉はケーキ後のカフェオレを啜った。途中、ケーキを食べながらでも相づちを打っていたので、話しやすかったことは言うまでもない。彼女は聞き上手らしい。
「……正直言うとね、お父様の事情は人事部から聞いてたの。だから今回の人事も、そのことがちょっとは関係しているみたい」
「それは分かっていました。むしろ、よく雇ってくれていると思います」
すみれの力ない独白に、支倉は首を振る。
「ごめんね、市河さんがどんな経験をしてきたか私には分からない。でも、あなたが仕事を頑張っていることは、私が誰よりも知ってるつもり。お父様のことなんて関係なく、ね」
「そうですか」
たった一言の相づちに、様々な感情がこもっていた。いきなり犯罪者扱いすることなく受け止めてくれたことへの感謝の気持ち。仕事内容を評価されてありがたい気持ち。そして、分からないのに分かったフリをするなという気持ち。
すみれの心には、常に猜疑心が混じっている。
「で、本題はなんだっけ」
空気を入れ換えるつもりて手を叩いた支倉だったが、根の深い相談を思い出したのか表情は硬かった。
「ひとりだけ私を守ってくれた女、香椎夢乃の話です。私は彼女に……」
「そうなんだ……」
すみれには、顔の引きつりを必死で押さえている支倉が見てとれた。誰にも疑いの目を向けられずに済むように、人の表情を伺って内面を探り当てるのはすみれの特技だった。ただその特技も「内面を見ていない」と言われてしまったが。
「……結論から言うとね、あるよ。抱かれたこと」
支倉は告白した。すみれは、支倉の意識が一瞬、左手の薬指に向かったことを見逃さなかった。
「その時、どう思いましたか」
すみれの質問に「どうって……」と言い淀んで支倉は頬を染める。それが幸せそうな色ボケした女の顔に見えたが、すみれは彼女の表情にわずかな陰りがあることに気付いた。
「きっと普通の恋愛と同じだよ。その人が好きか嫌いかだけ。私は、その人のことは愛せなかったから」
「ずいぶん前だけどね」と苦笑して、支倉は続ける。
「市河さんのお友達にしてもそうだと思うな。市河さんが好きなら付き合えばいいし、嫌いなら別れればいい。あ、でも好きだからこそ別れるとか、嫌いだからこそ付き合って苦しめるってもあるよね」
「恋愛小説の読み過ぎです」
「ふふ、そうかも」
恋愛脳の支倉が少し面白くて、久しぶりに笑った気がした。
「お友達のことで迷ってたんだね、市河さん」
「……ええ、そうです。どう対処すべきか分からなかったから」
「なら、ちょうどいい人が居るかも」
告げると、支倉はスマホでメッセージを送る。何往復かした後で席を立つ。
「じゃ、ちょっと観光にでも行こっか。行ってみたい所があったから」
「……そんなことしてもいいんですか」
支倉は微笑んだ。
「いいのいいの、仕事もだいたい終わったし。上司命令ってことにしよっか」
「……そうですね」
少しだけ、すみれの胸のつかえが取れた気がした。
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