第9話 おひめさまの約束
なぜ人間は眠っているときに夢を見るのか。一説によれば、一晩で百回近く見ているとされる夢だが、肝心な「なぜ夢を見るのか」という疑問には、いまだ明確な答えが出されていない。
明確な答えがないからこそ脳科学者や精神科医、そして神秘主義者やオカルティストがこぞって夢を利用する。夢を紐解き深層心理や未来の運勢、もしくは前世のカルマを探ったり、または明晰夢を見られる方法を試したり。そうした情報は世間にありふれていて、求めさえすれば「夢とは何か」を知ることができる。
求めよ、さすれば与えられん。
多くの中高生がそうであるように、すみれもまた夢を知ることを求めた。自分探しの一環だ。夢を分析して前世や来世に一喜一憂し、占いや診断の結果に振り回されて生きてきた。
だが、夢占いは当たらない。当たっているような気がするだけ。自分がバーナム効果に褒めそやされていただけだと気付いたすみれは、夢占いも夢日記を付けることをやめた。すみれは将来の夢ばかりか、眠りの中で見る夢すら捨てたのだ。
以来、すみれの見る夢は独創性を失い、過去の出来事を再生するだけの壊れたプレーヤーになった。
「すみれちゃんは、わたしのおひめさまだから!」
少女が、すみれに背中を向けて仁王立ちしていた。少女の向こうにはさんざんちょっかいをかけてくる悪ガキが三人。「すみれの事が好きだから、構ってほしくてちょっかいをかけてくるのよ」。泣き喚いていたすみれに母親がかけた言葉をそのまま突きつけたら、逆上されて突き飛ばされた時のこと。
悪ガキ達が砂場遊び用のプラスコップを構えても、少女はすみれを守るとばかりに立ちはだかっていた。スコップで叩かれたら痛い。そんなことは五歳の少女でも知っているはずなのに。
「だいじょうぶだよ、わたしがいるよ」
悪ガキを追い払い、少女はすみれの両頬を挟む。顔と顔を付き合わされ、涙でぼやけた視界に彼女の顔が浮かんだ。真白い肌の可愛らしい少女。子どもの頃からインドア派で人付き合いが苦手だったすみれの唯一の友達。
「うえええええん……!」
すみれは恥も外聞もなく大声で泣いた。母親のように、すみれが泣き止むまで撫でてくれる少女が居たから安心して泣けたのだ。
少女の名は香椎夢乃。
その面影はもうない。
*
お腹が痛かった。より正確に言えば下腹部、両足の付け根、そして股間。最悪の形で初めてを奪われ、気絶するように眠ってしまっていたらしい。
手錠は外れていた。リビングに敷いた布団から起き上がり、薄暗い部屋を見渡す。スマホで辺りを照らしても、見えるのは段ボールの山と脱ぎ散らかされたすみれの衣服。そしてモッズコートだけ。
「……殺す」
モッズコートのポケットを漁り、カッターナイフを取り出した。息を潜め、冷たいフローリングを素足で踏みしめる。歩く度に股間が痛むが、構っている場合ではなかった。
2DK間取りの一室は夢乃の部屋となっている。閉ざされた扉の隙間から、光が洩れている。ドアノブを静かに回し、ゆっくりと扉を開く。そこには、大きなPCモニタを見つめる、傷だらけの夢乃の背中があった。
――この女を殺す。
限界まで刃を出したカッターを両手で構え、すみれは室内に足を踏み入れた。だが、すみれの足はそこで止まった。
「なんで、その絵を……」
PCモニタに映った少女の姿が、すみれにとってはあまりにも強烈なものだったのだ。
「ああ、起こしてしまったか」
「……何してるのよ、アンタ」
カッターを握る力も気力も失い、すみれはフローリングに腰を落とした。熱っぽく痛む腰が冷やされ、感覚が鈍くなる。
「これはモデリングだよ。二次元のイラストを、360度どこからでも見える三次元の体にすることを言う」
「それくらい知ってるわよ。その元絵の話をしてんの、私は……」
すみれのタッチで描かれた少女は、世界ですみれにしか描けない。当然だ、インターネット上にも投稿先の編集部にも、それどころか学校の卒業アルバムや文集の中にも姿のない、どこにも発表していない秘蔵っ子だから。
「見させてもらったよ、キミのリビドーの根源をね」
すみれの心臓が今にも飛び出そうなくらい早鐘を打った。
「キミはずいぶん、この子にご執心だったんだね。まさか段ボール一箱まるごとこの子の絵が詰まっているとは想像だにしなかったよ。これがうちの子というヤツかな?」
インターネット上の一次創作界隈では、作者の考えたオリジナルキャラクターをうちの子と呼ぶ文化がある。作者にとってキャラクターは子どものような存在だから、このような表現が定着したのだろう。
「その、絵は……」
「分かっているよ、このイラストの少女にはモデルが居るんだろう?」
図星を突かれ、すみれは言葉が出てこなかった。
何故ならそのモデルは――
「キミは、ボクをモデルにこの子を創り上げた。違うかい?」
「ち、違う……!」
あれだけ茶化して笑うばかりだった夢乃が無表情のままだった。これまでも目元は笑っていなかったが、今度ばかりは不気味が過ぎた。絵を無断で見られたことの怒りや恥ずかしさよりも、秘密がバレてしまったことの焦りや恐怖がすみれを支配している。
「そうかな? この前描いた傷だらけのボクの絵と、描き溜めていた少女の絵を比べてみてはどうだろう」
片方に傷だらけの夢乃、もう一方に夢乃の絵を置く。ふたつの絵は構図こそ違うが、タッチに加えて記号的表現がほぼ一致していた。10人に見せれば十中八九、ふたつのイラストは同じ少女のものだと返答が返ってくるだろう。
「キミが絵を書き殴る時は、強烈なストレスと戦っている時だ。上司へ復讐するため筆を走らせてみたりね」
すみれは己のクセを自覚している。脳内復讐として描き出されるのは、すみれにストレスを与えた存在だ。直近だと支倉とその従姉妹、その前は脅されて描いた夢乃の姿。その前は態度が悪かったコンビニの店員。彼女らは皆、無惨に犯された。
「つまりキミは、ボクにストレスを覚えていたということになる。それも相当に強烈な、ね」
「違うの、私は……」
「さすがのボクも傷ついたよ。悪意と敵意に満ちあふれた絵を見て、傷つかない人間は居ないだろう。『誰かを傷つけない復讐の方法を知っている』だなんて欺瞞だ」
厳しい一言だった。夢乃にだけは知られたくなかったうちの子の真相を暴かれ、すみれの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「だから、ボクも復讐することにした。キミの絵を元にして3Dモデルを作る。そして、ボクがこの少女になる」
夢乃の告げた言葉の意味が分からなかった。それを見越してか、夢乃はVR機器をすみれの頭に固定する。なすがままになったすみれは、ゴーグル内のディスプレイに広がる、無限遠の白い仮想空間を眺めることしかできなかった。
「すみれ」
名を呼ばれた方に首を向けた。仮想空間の中に、例の少女が立っていた。
「夢乃……」
可愛らしくデフォルメされた姿でも、親であり作者であるすみれにとって彼女は香椎夢乃だった。
「すみれ」
仮想世界のデフォルメ夢乃の口が動いた。声に合わせて口元が変わる。まるで彼女がその場に居るような気さえしてくる。
「分かったかい? これがバーチャルリアリティだ。これからキミは、この姿の香椎夢乃を、ボクだと思ってもらうことにする」
「どう……して……」
「それが復讐だからだよ」
ゴーグルの中の夢乃に押し倒されたと錯覚した。もちろん、押し倒したのは仮想ではなく現実の夢乃だ。ゴーグルに覆われて見えないのをいいことに、夢乃はすみれの素肌に指先を這わせる。
「んっ……!」
「いい声で鳴くね。こっちの姿の方が燃えるということかな?」
「こ、こんなことやめなさい! 悪趣味よ!」
「悪趣味なのはどちらだろうね。仮想世界のボクに迫られて興奮していながらさ」
耳元で囁かれるだけで、すみれの体が小さく跳ねる。夢乃はもう、すみれの弱点を把握しきっているのかもしれない。
「ボクに恋をしてもらうよ、すみれ。存在しない仮想世界のボクを愛すること。それがキミが受けるべき罰で、ボクがキミに与える復讐だ」
仮想世界の夢乃が顔を近づけると、現実世界ですみれの唇が奪われる。露出した乳房へ仮想世界の夢乃の手が動けば、現実世界ですみれの乳首が摘ままれる。ゴーグルに見せられる光景と現実の感触が寸分違わず同期して絡み合い、何が現実でなにが仮想なのか分からなくなる。
「こんなこと……おかしい……」
「さあ、してほしいことを言ってごらん。キミがずっと描き続けてきた大好きな姿でキミを狂わせてあげよう。キミが二度と約束を破らないと誓うくらい、ボクの愛で染め上げてあげよう」
「私……は……」
理性が快楽を求める本能に切り替わる直前、夢乃は小さく笑った。
「自分の子どもに犯されて喜ぶなんて、キミは救いようのない変態だね」
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