第8話 オトナの約束
目元を覆う巨大なゴーグルを付けたまま、夢乃は口角を釣り上げた。爛れた顔にSF的なガジェットを付けた全裸の少女という外見は、失われて久しいすみれの創作意欲を妙にかき立てる。
「なによそれ」
「キミともあろうものが知らないとはね。これは現実に見切りを付けた人間が辿り着くフロンティアであり、ディストピアへの片道切符だよ」
詩的が過ぎて何も伝わってこなかった。何をする装置なのかも見当が付かない。
「好きにして」
これ以上詮索しても時間の無駄だ。玄関先で「前が見えない」とうろうろする夢乃を無視して、すみれは画材一式を取り出した。真新しいクロッキー帳は、以前夢乃の姿を書き殴ったものだ。新しいページを開き、頭の中に広がる陵辱の光景を鉛筆に込め、走らせた。
「帰宅するなりお絵かきか、夢へ向かっているようで素晴らしいね」
感心感心と頷く夢乃の言葉がすみれの耳に届くことはない。
何故なら、すみれは驚異的な集中力を発揮していたからだ。元より脳内イメージの出力には相当の精神力を要するため、周りを振り返る余裕すらないという方が正しい。夢乃が何を言おうが踊ろうが性器を丸出しにして狂おうが、すみれの意識が向くことはない。
呼吸も瞬きも忘れ歯を食いしばり、首を動かすことすらなく右手を動かす。このため絵を描き終わるころにはすみれはいつも満身創痍になる。この日、すみれが一通りの復讐を終えた頃には、時刻は22時を回っていた。
「復讐は終わったかい」
夢乃の覇気のない声がようやく耳に届き、すみれは顔を上げた。知らぬ間に段ボール箱テーブルの向かいに居た夢乃は、羞恥心どこ吹く風とばかりにM字開脚をしている。何もかもが丸見えだった。
「汚い穴見せてんじゃないわよ」
「キミの絵のモデルになっていたつもりだったんだがね」
クロッキー帳には、目の前の夢乃とまったく同じ構図で陵辱される支倉の姿があった。夢乃はずっと目の前でポーズを取っていたのかもしれない。そう考えた途端、すみれの頭は痛んだ。
「しかし、キミのクセは本当に救いようがないな。復讐したければ面と向かって行動すればいいだろうに」
「私はあなたみたいな社会不適合者じゃないの。平和で穏便に、誰も傷つけることなく復讐する方法を知っているだけよ」
「5時間ぶっ続け休みなしで書くことがかい? 体が保たないと思うけれどね」
珍しく心配したような口ぶりだった。すみれは鼻で笑って告げる。
「マンガ家なんて一日中描いてるわよ。この程度で息切れ起こすようじゃ一生掛かってもなれないわ」
「そうか」と微笑んで、夢乃はクロッキー帳を一瞥した。
「見たところ、ひどい目に遭っているうちのひとりはキミの上司のようだ。で、こちらの彼女は誰だい?」
ふわふわした長いウェーブヘアの支倉の隣で、同様に犯されている黒いストレートの少女を夢乃が指さした。昼間の空港からホテルへ向かうときのことをすみれは思い出す。確か名前は――
「支倉の従姉妹の詩織とか何とか、そんな名前。たまたま用事があったかどうだか知らないけど社用車で迎えになんて行くなよ、恋人だとしてもあり得ないわ」
「なるほど、従姉妹ね」
夢乃は意味ありげに呟いて、クロッキーをまじまじと観察した。
「二人とも上手く描けているね。体のバランスもだし、腕も足も複雑骨折したような違和感はない。ただ」
絵を褒められるのは嬉しいが、言葉を濁されると腹が立つ。
「なによ、言いたいことがあるなら言いなさいよ」
「キミは、この二人の内面を描けていない」
「私の目に狂いがあるとでも言いたいの? アーティスト気取りも大概にして。だいたいアンタに何が分かるのよ」
「確かに、今のキミには分からないことだろう。だから本意ではないが、教えてあげようと思う」
「はあ?」
聞き返したところで不意を突かれ、夢乃に押し倒された。布団に倒れたすみれの顔面を塞ぐように、夢乃の股間が押し付けられる。
「アンタ気でも狂ったのか!?」
「声優に……役者になると決めてから、ボクは正気を捨てたんだよ」
すみれの唇に、夢乃のそれが押し当てられた。必死にもがこうにも避けられず、いつの間にやらすみれの手首は銀の手錠に絡め取られていた。
「何すんのよアンタ!?」
華奢な体のどこにこれだけの力が眠っているのか。それほどの力ですみれを布団に押さえつけ、夢乃は爛れた頬を歪ませた。
「キミに、ふたりの真実を教えてあげようと思ってね。口で言うより行動で示した方が早いだろうから」
「どういう――ちょっと!?」
言うが早いか、すみれはタイトスカートをまくし上げられた。色濃いストッキングはハサミで穴を開けられ、下着を晒されてしまう
「こんなことしてタダで済むと思ってるんでしょうね!?」
気が動転して泣き叫ぶすみれの唇を夢乃が塞いだ。それも、自分自身の唇によって。
それがキスであることにすみれが気付くまで、大した時間は掛からなかった。レモンの味どころか血の味がするファーストキスだった。
「分かったかい? これがあの二人の関係だ」
にべもなく告げた夢乃の顔に、すみれは唾を吐きかけた。
「ふざけんなこの性犯罪者! もう絶対に許さない! アンタなんてムショの中で滅茶苦茶に犯されてしまえ! 死ね!」
「親切心で行動しているボクに向かってひどい言いぐさだね」
「どこの世界に親切心で犯す人間が居んだよ!?」
夢乃は不気味に笑った。
「居るさ、ここにね」
背筋が凍りついた。この女――香椎夢乃はやると決めたら頑として行動する。チケットを作ることになった日も、進路を定めた日も、どう考えても無理なことだろうと行動してきた。
だから、この女はやる。やると決めたら最後までやってしまう。
「キミはあの二人の内面を見落として、上辺だけを見て救いようのない絵を描いた。まんまと二人の術中にハマってしまったのさ」
「アンタに何がわかんの!?」
「分かるさ、痛いほどね」
夢乃は静かに告げる。そしてすみれの股間に顔を埋め、下着をずらして息を吐いた。何とも言えない感覚と強烈な羞恥心がすみれの中に刻まれる。
「おかしいとは思わなかったのかい? 上司の後を追うようにやってきた従姉妹の存在を。そして何故、わざわざ仕事中に彼女を迎えに行ったのかを。他にも奇妙なことがいくつかあるはずだ」
すみれの脳裏に、昼間の出来事がフラッシュバックする。支倉がすみれの仕事を奪ってまで、相当量の仕事をこなしていた理由は何だったか。
――そっか。なら早く片付けて帰らなきゃね、東京に。
「そう言えば、大量の仕事を一人で片付けていた。今にも東京に帰りたいって感じで……」
「優しい上司のことだ、キミを早く帰らせてあげたいという気持ちもあるのだろう。が、おそらく本音は違う」
「分かってるわよ、男に会いたいからでしょ? 色ボケもいいところで――」
「いや、その必要はなくなったはずだよ。何故なら、彼女の婚約者はもうこの街に居る。そしておそらくボク達と同じように今この瞬間、耽っていることだろう」
訳が分からなかった。支倉は東京に婚約者を残してきている。あの完璧な支倉に、指輪を愛おしそうに撫でさせるほどの男だ。その許に一刻も早く帰るために仕事を必死で片付けているはずだ。
だが、夢乃が話そうとした内容はすみれの想像を絶するものだった。
「キミは、従姉妹さんの薬指を見たかい?」
「それに何の関係が――」
ようやくすみれは、自分が大きな勘違いをしている可能性に気付いた。可能性としては低いと言わざるを得ないだろう。だが、そう考えれば辻褄は合う。むしろその方が自然だとさえ言える。
「まさか、あの二人は……」
「まだ推測に過ぎないが、こういうことだよ」
すみれの体に衝撃が走った。四肢が言うことを聞かなくなるほどの小さな衝撃が連続して、体を跳ねさせる。やっとの思いで衝撃の発生源を垣間見ると、顔を埋めた夢乃と目線が合った。その途端、さらに大きな衝撃が伝わってくる。
水が滴るような音がした。
「あはは。キミの鉄面皮にも、やっぱり綻びはあるんだね」
「アンタ、何して……ッ!」
「それはキミが一番分かっているんじゃないか? 普段からしてないと、ここまで分かりやすく反応はしないものだよ」
「やめ……て……!」
「本当にやめてほしいのかい?」
微笑む夢乃に、すみれは一瞬返事を戸惑ってしまった。
「なら、エスコートしてあげよう。キミがオトナの階段を一足飛びで登れるようにね」
すみれはその日、オトナの階段へ第一歩踏み出した。
それが階段を登ったのか踏み外したのかは、すみれには分からなかった。
*
「ねえ、ハル」
「なに……?」
ダブルベッドで四肢を絡めた合ったまま、今にも寝入りそうな遙香に詩織は尋ねる。
「今日、社用車に乗ってた人。誰だっけ?」
「市河さんのこと……? あの人がどうしたの」
詩織は遙香の胸に顔を埋めた。強く背中を抱き寄せて、素肌同士を密着させる。
「……匂いがした」
「匂い? 臭かったとか?」
「何て言うか、あたし達と同じ匂い。だから注意して」
「注意って……。私が浮気するかもって疑ってる?」
同じく遙香に抱き寄せられ、詩織は彼女のまとう香りに包まれる。瑞々しく甘い桃の匂いが詩織の脳をしびれさせた。
「そうじゃなくて……」
詩織は遙香の上に馬乗りになった。そして唇を奪う。
「……こういうこと、あたし以外の女にされないようにして」
「私が襲われる? ないない、市河さんに限ってそんなこと……」
「分かんないじゃん。あの人、あたし達のことミラー越しに見てたんだよ? それにあの目は絶対、よくないこと考えてる」
「考えすぎだよ、しおちゃん……おやすみ……」
「ねえ聞いてる? ハル? ハール?」
遙香はそのまま眠ってしまった。大学のテスト期間が終わり、久しぶりに時間が取れたからと勢い余って張り切りすぎてしまったかもしれない。詩織は部屋の照明を消した。
だが、あの同乗者――市河すみれのことが瞼を離れない。
「……ハルはあたしが守るから」
詩織は独りごちて、遙香の体温に身を預けることにした。
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