第7話 自縄自縛の約束

 日付は変わり、月曜日。

 毛布を敷き布団にして惰眠を貪る夢乃を放置して、すみれは家を出た。徒歩二十分、市内中心部にある雑居ビル二階の一画にきららウォーターの支店がある。

「おはよう、市河さん」

 出社したすみれを一番に迎えたのは支倉だった。

「おはようございます」

 最低限の挨拶に留めて、視線を合わせないようにデスクに座る。支店長と支倉が談笑する中、すみれは夢乃との契約のことを思い出していた。


 ――完璧な支倉遙香の欠点を暴く。

 勢いで夢乃と契約をしたものの、彼女がどういった手段を講じるのかまったく分からない。違法行為はするなと一応は釘を刺したものの、あまりに降って湧いた話だ。当座をしのぐための口からでまかせである可能性すらある。

「市河さん、備品リストの発注はやっておいたから」

「え?」

 支倉は告げると、「確認しておいて」と資料一式をすみれのデスクに積んだ。支店で必要な備品リストの作成はすみれの担当だ。

「ですが」

 言いかけたところで察した支倉は、ぺろりと小さく舌を出した。

「ホテルに居てもやることないでしょ? ひとりだと仕事が捗っちゃって」

 すみれの能力では三日かかる仕事を、支倉はプライベートの時間を使って終えていた。仕事に対する意識の持ちようがまるで違っているらしい。

「はあ、ありがとうございます」

 申し訳程度に感謝を告げたものの、出社した途端にすみれの仕事がなくなってしまった。備品リストをゆっくり作って時間を潰そうと思っていたすみれは手持ちぶさただ。仕事をするフリもラクではない。

「後は営業エリアの検討なんだけど簡単な地図を作ってみたの。今日はこの地図の通り巡回するつもり」

 手渡された住宅地図には、支社を中心とした三つのエリアが蛍光ペンで縁取られている。住宅地など需要が予想される場所が丁寧にマーキングされ、どの程度の売り上げが見込めるかといった具体的な数字まで付されている。

「この地図は?」

「カネのなる木。いや、宝の地図ってヤツだよ」

 支倉に代わって、支店長が大して面白くもない冗談を飛ばす。それを笑顔でかわして、支倉はすみれの前で地図にいくつか赤く丸を付けた。

「地域住民の性格とか購買傾向はデータだけじゃ分からないの。だから実際に回ってみて、方針を決める。そのための仮の地図ね」

「これで仮ですか……」

 この仮地図を作るのに、すみれなら少なく見積もっても一週間はかかるだろう。そんなものを業務外の空き時間でこなすなんて芸当は、すみれには当然できるはずもない。

「なるべく完璧にしておきたくてね」

 支倉遙香はどこまでも完璧だった。見せつける気など本人にはないのだろうが、それでもすみれは苦しんでしまう。自分勝手に比較して自分勝手に苦しむ。夢乃が言った通り、人間は愚かな生き物なのかもしれない。

「じゃ行こっか、市河さん」

「行くってどちらへ……」

 支倉は納車したばかりの社用車の鍵をぶら下げていた。

「観光……じゃなくて、お仕事ね」


 支倉の運転で、彼女が描いた仮地図の通りに市内近郊をドライブする。車窓を流れるのは、大学進学と共に松山を離れたすみれには七年ぶりの景色だった。さしもの田舎も七年おけば少しは変化があるらしい。

「この街って暮らしやすそうだね」

 ぼんやりと外の景色を見ていたすみれは適当に相づちを打つ。余計な詮索をされないよう、嘘をついた。

「そうですね」

「どのくらい住んでた?」

 陰鬱な空気を出しているのに話しかけてくる支倉がただただ煩わしかった。それでも上司だから無視する訳にもいかない。

「高卒までです。大学は都内でしたから」

「じゃあ七年ぶりなんだね。街はどう、変わってる?」

 すみれは助手席の窓ガラスにこめかみを押しつけた。

「変わったり、変わらなかったりです」

「この街は好き?」

 鼻歌交じりにハンドルを切る支倉に、すみれは短くため息をついて答えた。すみれの放つ陰鬱な空気は、支倉には一切効果がないらしい。

「嫌いです」

「そっか。なら早く片付けて帰らなきゃね、東京に」

 その言葉にただならぬ意志を感じて、すみれはその日初めて支倉の顔を見た。笑っているとも真剣とも取れない、ニュートラルな無表情の横顔。彼女はそれだけでも――むしろ無表情すらも美しい。

「……ずるい」

「何か言った?」

「いえ、なんでもありません」

 口を突いて出てしまった言葉を揉み消し、すみれは街をぼんやり見つめる仕事に戻った。今のところ支倉に欠点は見当たらない。ならばとすみれは、脳裏に支倉の姿を想い描いた。

 すみれには昔から救いようのないクセがあった。自身を苛立たせる女を妄想の中で陵辱するというものだ。妄想世界で目も当てられないほどの陵辱の限りを尽くして敵を貶め、溜飲を下げる。脳内と紙上で行う復讐だ。

 今回のターゲットは支倉遙香。完璧な彼女を、死すら生ぬるいほどの絶望の淵に立たせたい。幸せの象徴である婚約者を目の前で寝取られた上で、輪姦され陵辱される。ある種のテンプレートなシチュエーションを脳裏に描き復讐を始めようとしたところで、支倉のスマホが鳴動した。

「あ、ごめん。ちょっと寄り道してもいいかな?」

「……構いませんが」

 脳裏に描いた陵辱の光景は瞬時に霧散した。あまりに完璧過ぎて脳内復讐すらさせてもらえない。すみれは諦めて瞳を閉じる。社用車は空港への道を走り始めていた。


 社用車が止まったところで、すみれは目を覚ました。仮にも業務中に居眠りしていたことを悟られまいとさも起きていた風を装う。だがそんなすみれの努力を気に留める様子もなく、支倉は運転席を降りた。

「支倉さん……?」

 呼びかけは車内に取り残された。支倉はコンコースに立っていた女性に一言二言話しかけた後、社用車のトランクを開けて女性の荷物を積み込み始める。

 彼女は一体、何者なのだろう。すみれには分からない。

「お待たせ、市河さん」

「はあ……」

 女性についての紹介はなかった。すみれは後部座席に乗り込んだ女性をルームミラー越しに観察する。まだ幼さの残る、気の強そうな瞳の若い女性。肩口あたりでざっくりと切り揃えた黒髪は、若さゆえか艶めいている。

 じっと観察していたら、ルームミラー越しに視線が合ってしまった。すぐさますみれは視線を逸らしたものの、後部座席の女性は動じることなく言った。

「遙香さん、こちらの方は?」

 優しく、物腰の柔らかい声で尋ねられ、すみれは息を呑んだ。

「同僚の市河さんよ」

 告げると、後部座席の女性は「いつも遙香さんがお世話になっています」と紋切り型の丁寧な挨拶を寄越してきた。口ごもりながら返答したすみれに、今度は支倉が謎の女性について告げる。

「この子は従姉妹の詩織ちゃん。たまたまこっちに来る用事があったみたいでね」

「でもいいんですか、遙香さん。私みたいな部外者を会社の車に乗せるなんて?」

 社用車の私物化。それは当然、社則で禁止されている。だが、その程度のことは他の社員も当然のようにやっている。この程度では、完璧な女性の化けの皮を剥がしたことにはならない。むしろ融通の利く柔軟な人間なのだとしか思えない。すみれの知る支倉遙香のイメージが、より完璧に近づいていく。

 あまりに不公平だった。

「社用車の件は、どうしよっか。ね、市河さん」

 支倉は小さく笑って、すみれに目配せをくれた。

「見なかったことにします」

 断ることなどできるはずもない。告発したところでプラスにはならないのだから。


 従姉妹だという詩織を宿泊先だというホテルで下ろし、支倉とすみれは通常業務に戻った。仮の地図を頼りに市内を走り、時折メモを取りながら支倉はハンドルを握っていた。


 結局すみれはその日、丸一日支倉と行動を共にした。結果、支倉が完璧である様をまざまざと見せつけられた。よくできた人間で、仕事もでき、美しい。知れば知るほど、自分との差が大きくなって、惨めさがうず高く積もっていく。

 帰りの路面電車の中で大嫌いな松山市のシンボルを眺めながら、すみれは妄想で幾度となく支倉とその従姉妹を犯した。

 絶対に敵うはずのない相手に勝利するには、こうするより他はない。

 散々犯し尽くした後で強烈な虚しさに襲われると分かっているのに、すみれはそれを辞めることができなかった。

「……クズだな、私」

 夢乃にあんなことを頼んでおいて何を今さら。心の中で独りごちると、すみれは805号室のドアを開けた。途端、服を着るという文化を知らないのかと呆れるほどの、傷だらけの夢乃に迎え入れられた。

「ああ、ちょうどよかったよ。運ぼうと思ったんだけどこの通りでね。ボクの部屋に運んでくれないか?」

 玄関には、見慣れぬ段ボールが積まれている。荷札が張られているところからして、少なくともすみれの関知するものではなかった。

「アンタの部屋なんてないから。というかこれは何よ」

「よくぞ聞いてくれたね。これが、ボクの新しい夢だ」

 慣れた手つきで段ボールの封を切ると、中には見たことのないデジタル機器の化粧箱が緩衝材と共に詰められていた。見るからに新品だ。夢乃はおろか、懐具合が寂しいすみれでも手が届くとは思えない。

「……盗んだの?」

「失礼な。ちゃんと購入したものだよ、昨日のうちに」

「どこにそんなお金が……」

 言いかけて、すみれは自分の財布を調べた。クレジットやキャッシュカードは財布の中に収まっている。

「出所を知る必要はないさ。ただ、キミのお金ではないとだけ教えておこう」

「あっそ」

「聞かないのかい?」

「詮索しても答えないんでしょ? そうやってミステリアスな女でも気取ってればいいわ」

 夢乃は意味ありげな含み笑いを浮かべた。ニマニマした口元が癪に障る。

「カネの出所は教えないが、これが何かは教えてあげよう」

 化粧箱を箱から取り出し、夢乃はデジタル機器を頭に被った。飯盒はんごうにも似た機器が、夢乃の目元を覆っている。

「バーチャルリアリティ。VR機器という文明の利器だよ」

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