第6話 完璧な約束
二つの駅のうちで栄えている方――松山市駅近くの喫茶店で、大きなスーツケースを携えた支倉と合流した。
「ありがとう市河さん。来てくれなかったらどうしようって思ってたの」
「いえ、近くですから」
人好きのする笑顔だと評判の支倉の営業トークをぼんやり聞き流しながら、すみれは空になったガムシロップの容器を弄んでいた。
支倉遙香。すみれの勤務先、ウォーターサーバーの代理店『きららウォーター』の上司で一歳違いの26歳。昨年、過去に類を見ない営業成績を叩き出したと評価され、異例のスピード出世を成し遂げた若手の有力株だ。
「大丈夫?」
「支店の業務ですか?」
「ううん、そっちじゃなくて急な辞令のこととか、一ヶ月後にまた引っ越すこととか。錯綜しててごめんね。うちの人事部ってとにかくいい加減で……」
あなたのことを心配している。そんな表情を浮かべた支倉は、慈しみ深い女神のように憂いを込めたため息をついた。
支倉は優しさの権化だ。誰彼構わず優しさを振りまき、いつもにこにこ笑っている。支倉のそうした在り方を営業マンとしての
支倉遙香は完璧だ。少なくともすみれにはそう見えた。
同じ女性であるすみれから見ても美しい容貌。若くして一部局を率いるほどの才能と能力。そして面倒見がよく穏やかな性格。女性として、仕事人として、そして人間として三拍子揃ってしまっている。
神様は不公平だ。お気に入りの支倉には二物を与えるどころか大盤振る舞いするほどなのに、凡百の人間には才能のひとつもロクに与えてくれない。周囲の期待を背負って成果を出し続ける支倉と比べて、すみれはなにひとつ満足にこなせない。
「さすがに市河さんに悪いから、一週間ほどこっちに出張することにしたの。部長曰く、私が出張して本社業務に穴が空くと人事部が責任を取らされるみたい」
「社内政治ってサッパリだよねえ」と苦笑して、支倉は続けた。
「だから、困ったことあったら相談してね。私は市河さんの味方だから」
津波のように押し寄せる支倉の優しさと自己嫌悪の想いで、すみれは相づちを打つことで精一杯だった。
「大丈夫です」
素っ気ない対応をしてしまったからだろう、支倉は「そう」と一言告げて、カフェオレを含んだ。薬指には細い指輪が光っている。
「支倉さんは構わないのですか?」
「構う? 何が?」
「いえ、お相手が」
支倉が指輪をしてきた時、池袋の本社オフィスは静かな騒ぎになった。支倉のような完璧な女性が選ぶ人間なのだから、相当にエリートな男性なのだろうと社内で噂になっていたのだ。
支倉は愛おしそうに指輪を撫でて微笑んだ。
「ああ、うん。大丈夫だよ」
「……幸せなんですね」
口を突いて出た言葉が支倉への祝福だったのか、それとも強烈な僻みだったのか、すみれにはもう分からなかった。
「まあ、ね」
ほんのり頬を朱に染めて、支倉は視線を逸らした。こういういじらしい態度をとるところまで含めて完璧な女性だ。不躾で無愛想なすみれでは背伸びしても逆立ちしても敵わない。
「じゃ、そろそろ出ようか。支店がどこにあるか確認しておかないと明日迷子になっちゃいそうだし」
「そうですね――あ」
支倉から少し遅れて財布を取り出したところで、すみれは思い出した。先ほど有り金を全部抜かれたところだ。
「どうかした?」
「すみません、持ち合わせがなくて……」
「そうだよね。経費精算もまだのはずだし、来月にはまた引っ越しだもんね……」
告げると、支倉は紙幣を三枚、テーブルに置いた。三万円。奇しくも夢乃に持ち出されたのと同じ。
「これじゃ足りないだろうけど、何かあったら使って?」
確かに、お財布事情は心許ない。引っ越しと賃貸の初期費用で貯金は吹き飛んだし、来月にはまた引っ越しがある。だとしても――
「いえ、頂けません」
この女の――支倉の施しを受け取ることなどできるはずもない。他人とお金を貸し借りすることへの気負いではない。支倉を気配りの行き届いた完璧な女性だと認めなければならなくなることへの屈辱だ。
だが、突き返そうとするすみれの手を掴んで支倉は告げる。
「今回の件は私も責任を感じているの。もっと人事部に顔が利いていれば、市河さんがこんな目に遭わずに済んだはずだから」
あくまで迷惑料だと言い張る支倉に根負けして、すみれの財布は潤った。その代償として、三万円分の強烈な敗北感と自己嫌悪の念が心に積み重なった。
「それじゃあ、また明日ね」
「お気をつけて」
キャリーケースを引く支倉の背中を見送ったすみれは、不意に肩を叩かれた。首だけ回して振り向くと、頬に何者かの細い指が食い込む。こんなくだらないイタズラをする者はひとりしかいない。
「ひっかかった、ひっかかった」
か細い指先を振り払って無言で睨み付けるも、夢乃は動じる様子なく遠くを眺めていた。
「よくできた上司だね。さしずめキミは、彼女に嫉妬しているというところだろう。他人と自分を比べるなんて無意味だというのに愚かなものだよね、人間という生き物は」
あざけるような言い方に、すみれの口は自然に動いていた。
「アンタに何が分かんのよ」
「幼馴染みの考えひとつ見通せないようでは、役者になんてなれないよ」
「一度は諦めたくせによくそんなことが言えるわね」
「なら、ボクの能力を試すかい?」
薄気味悪く口元を緩めて夢乃は告げた。
「キミの上司は一見、完璧な女性だ。自分とはほど遠い、と思わず嫉妬したくなるほどに。ここまではいいね?」
すみれは黙した。それは回答を保留したかったからではなく、その先が純粋に気になったからだ。
「だが、キミは彼女の粗を見つけたい。完璧な彼女が隠している完璧ではない部分を暴けば満足して、溜飲を下げることができる。そうだろう?」
「何をするつもり? 昨日と同じことするなら本当に警察呼ぶわよ」
夢乃は「それは残念」と大げさに肩をすくめてみせた。我ながら恐ろしい幼馴染みを持ってしまったものだとすみれは思う。
「まあ、穏便な手段もないことはない。要は、法に触れることなく彼女の欠点をさらけ出せばいいんだからね」
告げると夢乃は手を差し出してくる。
「3万円で手を打とう。そうすればキミは、彼女と自身を比べて惨めな気持ちにならなくて済む。さっき彼女から貰ったんだし実質無料じゃないか」
「本当に最低ね、アンタ」
「言ったろう? ボクは地の底、最下層の人間だ。失うものなど何もない無敵の人だよ。それにクズなのはキミも同じじゃないか、すみれ」
すみれの奥底に潜む暗澹たる感情を、夢乃はすべて言語化してみせた。
言葉には魔力がある。像を結ばないほどあやふやな感情を明らかにし、規定し、表層心理に刷り込むのだ。惨めさ、嫉妬、クズ。夢乃の挙げた単語が、つかみ所のないすみれのモヤモヤした感情を浮き彫りにする。
「アンタほど堕ちてはいない」
「の割には、握手したくてたまらないように見えるけどね」
支倉の背中が完全に見えなくなったのを確認して、すみれは三万円を夢乃に握らせた。いやにか細く、心まで凍えるほどに冷たい夢乃の指が、この時ばかりは頼もしかった。
「あの人の名前は支倉遙香。私の上司で、アンタの言う通り完璧な女性。粗があるとすれば私生活周り。理由は、婚約を公表してはいないから」
「つまり、婚約者の情報を探ればいい訳だ。なるべく穏便な方法で」
「なるべくじゃなくマストよ。法には触れるな。それ以外は何をしても構わない」
「婚約破棄に追い込んでも?」
指輪を撫でる支倉が脳裏を過ぎった。憎らしいほどに幸せそうなあの顔が壊れたところを想像すると、何故だか胸が高鳴る。
「やれるものならね」
夢乃は笑った。
「契約成立だ。いい笑顔をするようになったね、すみれ」
すみれは、自分が夢乃と同じくらいに気持ち悪く笑っていることに気付いた。
夢乃の言葉が、すみれの表情すら規定していく。
*
支店の場所を確認してホテルへ向かう道すがら、支倉遙香のスマホが鳴動した。相手は他でもない、婚約者相当の人間だ。
「なーに、しおちゃん」
『試験終わったー。いつ帰ってくる?』
「早くて来週かなあ。もうちょっと伸びるかも」
電話の向こう、渋谷区の新居に暮らす婚約者はぶー垂れた。
『えー。試験終わったら温泉旅行だって言ったじゃん』
「仕事だからしょうがないよ」
『あたしと仕事、どっち取るの?』
遙香は頭を抱えた。
「そんな台詞どこで覚えてきたの……」
『子ども扱いしないで。それより今どこ?』
「松山」
『じゃ、あたしもそっち行く』
子ども扱いしないでというクセに、こういうところはいつまでも子どもだ。遙香は大きなため息をついて断りを入れる。
「あのね、私は仕事なの。来ても構ってあげられないよ」
『……ひとりになりたくないって言ってんの。それくらい分かってよ、ハルのバカ』
「はいはい……」
呆れながらも、遙香の声は心なしか弾んでいた。
『それに松山って温泉地のはずだよ。知らない? 道後温泉』
「しおちゃんはものしり博士だねえ」
『またそうやって子ども扱いする~』
「とにかく、来るなら連絡して。迎えに行くから」
『行っていいの?』
「来たいんだよね」
『当たり前じゃん。……大好きなんだもん』
飾らない愛の言葉を囁き合って、遙香はホテルのフロントに予約変更を伝えた。シングルベッドからダブルへ。そして、宿泊者名簿に電話口の婚約者――村瀬詩織の名前を書き入れた。
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