第5話 三万円分の約束
この地方都市、松山のファッション・ストリートは事実上ふたつしかない。ひとつは郊外にある大型ショッピングモールで、もうひとつは市内中心部を縦横に走る二つのアーケード商店街――双方合わせて大街道・銀天街と呼ばれている。休日ともなればどちらも賑わいを見せるが、賑わいと言っても平日昼間の竹下通りから人口を5割減らしてもお釣りがくるほどのささやかなものだ。
「相変わらず静かでいいね」
「私は嫌いよ、こんな田舎」
ふたつの商店街のうち短い方、銀天街のくすんだタイルを踏みしめてすみれは呟いた。
「懐かしいボヤキだね」と声を弾ませる夢乃は、サングラスにマスク、フードにモッズコートで完全防御を決め込んでいる。曰く、見るからに不審者の身なりでも、下手に露出するより遥かにマシらしい。
「あまり近寄らないでくれる? あなたのお仲間だと思われたくないの」
「困ったな。それではボクが不審者だと疑われてしまうよ」
「疑うまでもなく不審者でしょうが。だいたいどうやって住所を知ったのよ」
振り向きざまに素顔を晒して、夢乃は「ククク」と芝居がかった笑いを見せた。
「このアザに封じられし魔物のチカラを解き放てば造作もないことよ」
「どうせ兄貴に聞いたんでしょ」
「まあ、そうとも言うかな」
忌々しいほどに高笑いする夢乃から急速に熱が失われた。だんまりを決め込むかと思われたところで、静かに続ける。
「聞いたよ、キミの仕事のこと。ついでにご両親のこともね」
「そう」
すみれは短く切って、かかとを鳴らした。
「知らなかったよ。まさか七年前に亡くなっていたとは」
「教えなかったもの、知らなくて当然よ」
「夢を諦めた理由はそれかい?」
心臓を背中から刺された気分だった。
「自分のことは言わないくせに、他人にはずけずけ踏み込むのね」
「ならいいさ。ボクも真意を語らないことにしよう」
告げると、夢乃はポケットから財布を取り出した。すみれは慌てて自身のバッグの中を確認するも、一足遅かった。
「私の財布を奪うなんて、あなたもいよいよ地に堕ちたわね……」
紙幣を抜き取って、夢乃はもはや用済みとばかりに財布を投げ返す。急いで中身を確認するも、抜き取られたのは紙幣のみ。カード類は無事だ。
「ボクはもう地の底まで堕ちている。何とでも言ってくれて構わないよ」
悪びれる様子なく告げる夢乃は「ただし」と条件を出す。
「そうだな、キミが夢を諦めた理由をすべて話してくれるなら、ボクもそれに見合うことをしてあげよう。キミの好きな漫画にあったろう? 等価交換の原則というものだ」
「なにが等価交換よ。あなたが三万円分の情報を持っているとでも言うわけ?」
夢乃は顔を近づけて耳元で囁く。
「三万円分、キミを愛してあげてもいいんだけど?」
「……っ!?」
昨晩の手錠といい今朝の財布といい、不意を突くのは夢乃の得意技だ。動揺を悟られる訳にはいかなかったものの反射的に身構えてしまう。すみれは己の進歩のなさを呪わずには居られなかった。
「その反応は、脈アリだと考えていいのかな?」
すみれは、夢乃の好奇の視線に射貫かれた。目と目が合う、吐息を感じられるほどの距離だ。白と紫、真っ二つに割れた夢乃の顔は左右でアンバランスながら、彼女の言うとおりパーツ単位では整っている。喩えるならばお正月の福笑い。顔の片方だけパーツが上の方に引っ張られているようなもの。
顔の半分は失敗した福笑いだが、もう半分は七年前と変わらない。大きく丸い瞳に切れ長の眉、細く高い鼻にぷっくりした唇。角度によってシャープに、あるいは丸みを帯びて見える顎のライン。横顔と正面顔で与える印象が大きく違う。その印象を紙の上に
「……冗談だよ。このお金はちょっと借りるだけ。キミがアニメ化作家になってボクが声優になれば、責任を持ってきっちり返そう」
「だからそれは」
「無理だなんて言わせない」
二の句を継がせず言葉を重ねると、夢乃は何事もなかったかのように商店街を歩き出した。
「待ちなさ――」
言葉を遮って、すみれのスマホが音を立てた。待つ気はないとばかりに振り向かず手を振る夢乃から視線を移すと、上司の支倉の名前がスマホに表示されている。
「この大変な時に……」
休日の午前中でもお構いなしなのは仕事熱心と言うべきか、配慮がないと言うべきか。
居留守にして夢乃の背中を追うか、電話に出るか。迷った挙げ句、すみれは仕事を選ぶことしかできなかった。なるべく焦りと不機嫌さをこらえ、明るく受け答えすることを意識する。
「はい」
『ごめんね、市河さん。こんな朝早く』
「いえ。お疲れさまです」
なんとか笑顔を取り繕おうと顔面をひくつかせて、電話口へ用件を催促する。
「それでご用件は」
『あー、そのね? ちょっと道に迷っちゃって。松山市駅と松山駅ってもしかして違う駅だったりするのかな?』
「ですね。地元あるあるネタで――」
言い終わるよりも早く、すみれは息を呑んだ。気付いたのだ。
「待ってください、今どちらに……?」
『だからここはどこなのかなって。松山駅? 松山市駅……?』
この大変な時に上司がやってきた。
えらいことになってしまった。
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