第4話 暗黙の約束

 まるで愛し合うような、奇妙な夢を見た気がした。


 12月2日 日曜日


 日差しと周囲の目を遮るカーテンがない805号室に、冬のか細い朝日が差し込んでいた。ゆっくりと動く日時計がすみれの瞼まで達した時、すみれの意識は現実に戻ってきた。

「おはよう、すみれ。よく眠れたかい?」

 居るはずのない、懐かしい声だ。先ほどの夢の続きを見ている。そう安堵しかけたところで昨晩の出来事を思い出し、すみれは瞼をこじ開けた。

 見知らぬ天井。もとい、まだ見慣れない仮住まいの天井だ。

「すまない、寝室に運ぼうとしたんだけどボクは非力でね。仕方がないからここに布団を敷かせてもらったよ」

 はっきりしない意識で、すみれは自身がリビングに敷いた布団に寝かされていると理解した。そして、やけにちくちく、ざらざらした感触が全身を覆っていることに気付き悲鳴を上げた。

「なんで私裸なの!?」

「スーツが皺になってはいけないと思ってね」

 毛布で素肌を覆って上体を起こすと、ブラウス一枚羽織っただけの夢乃が顔を覗かせた。夢乃は湯気の上がる紙コップを床に置いて、脱ぎ散らかしたモッズコートを座布団代わりに座っている。

「覚えていないのかい? ボクの恥ずかしいところまですべてキミに捧げたのに」

「すべて捧げたって……まさか!?」

 状況を整理する。自分は裸で。半裸の夢乃は珍しく感傷的にコーヒーを啜っていて。外ではスズメがチュンチュン鳴いていて。

「綺麗だったよ、すみ――ぎゃあ!?」

 言い終わるより早く、手元のクロッキー帳で夢乃の顔面を叩いていた。

「あんなこと言ってたくせに、結局私を犯したかっただけじゃない!?」

「誤解だ、ボクは何もしてない! 服を脱がせて一緒に寝たくらいで――」

んじゃない、私と!?」

「そのじゃないから!」

 裸であることも気にせず、すみれはクロッキー帳で夢乃をバシバシ叩いて叩いて叩きまくった。そうでもしないと腹の虫が収まらない上に、あまりの気恥ずかしさで居ても立っても居られなかった。

「キミは昨晩、絵を描いたまま眠ったんだ! キミを寝かせる以外、ボクは何もしていない。天地神明に誓ってもいい!」

 はたと夢乃を叩く手を止めて、すみれはクロッキー帳をめくった。全身に傷を負った美少女のスケッチが数枚、様々な角度とポーズで描かれている。めくる度に線と筆致がよれているのは、睡魔と戦っていたからだろう。途中で寝落ちしてしまったからか、鉛筆の濃い線があらぬ方向へ伸びていた。

「あなたを描くのに熱中していたことは認めるわ。でも、私の寝込みを襲った容疑までは晴れないわよ」

 やれやれとばかりに肩をすくめて、夢乃はわざとらしく口角を上げた。

「心配いらないよ。キミの反応を見られないプレイなんて面白くないからね」

「心配しかないわ……」

 呆れたものの、すみれの体に違和感はなかった。シャワーも歯磨きもせずに眠ってしまったから髪の毛と口内がベタついているのみ。普通なら犯されているはずの秘所も別段普段と変わらない。

「……もういいわ、とっとと荷物まとめて出て行って」

 言い置いて、すみれは風呂場へ向かった。できればシャワーを浴びているうちに荷物をまとめて出て行ってほしい。約束のことなんてすべて忘れてなかったことにして、残り一ヶ月間の田舎暮らしを平和に終わらせたい。


 そんなすみれの希望は、早々に崩れ去った。

「おかえり、すみれ」

「なんでまだ居るのよ……」

 にこやかに微笑む夢乃を前にして、すみれは頭を抱えた。

「出て行ってって言ったじゃない。実家だって歩いてすぐでしょう?」

「七年ぶりに帰ってきた娘が傷だらけになっていたら、両親がショック死してしまうよ」

「親より私の心配をしなさいよ……」

 「それもそうだね」とくつくつ笑って、夢乃はぬるくなったコーヒーを啜った。このままでは彼女のペースに飲まれてしまう。会話の主導権を握るべく、すみれは矢継ぎ早に続けた。

「実家がイヤなら他を当たって。泊めてくれる知り合いとか男とか、漫画喫茶とかあるじゃない」

「キミ以外に頼れる人が居ると思うかい? そして、自慢じゃないがボクは無一文だ。荷物だってコートくらいのものだよ」

 唖然とした。開いた口が塞がらないすみれに、夢乃の財布が投げ渡される。

「疑うなら確かめてくるといい。キャッシュカードの暗証番号は1010だ。まあ、千円ぽっちしか入っていないだろうがね」

「アンタ何やってたの……」

 ため息交じりに尋ねてみても、夢乃はコートの上で胡座をかいてにこにこ笑うばかりだ。疎遠になっていた七年の間に何があったのか、答えるつもりは一切ないらしい。

「ともかく、ボクが帰る場所はどこにもないのさ。すなわちここがボクの家ということになるね」

「ならないわよ! 出てけ!」

したはずだけどな?」

 差し出された三枚目のチケット『なんでも言うこと聞く券』に、すみれの表情は固まった。

 チケットの効力は絶大だった。あれだけ出て行けと叫んでいたすみれが、言葉を失ってしまうほどに。

「このチケットを違えることはできない。そういう約束だったはずだよ」

「……何が望み?」

 低く、恨みがましい声で尋ねたすみれの前で、夢乃はチケットを破り捨てた。二度と使用できないように破ってから叶えて欲しいことを宣言する。それがチケットを使用する際のルールだ。

「ボクが声優になる夢を叶えられるよう、キミはボクのすべてをサポートする。これでどうかな?」

 すみれは黙した。そもそも、言い返したところで意味がないことを知っていたからだ。


 ふたりにとってチケットは、それだけ重い。


「……買い物に行くわよ。そんな格好で同居されたら食事が喉を通らない」

「そうかい? キミの視線を感じられるから、裸でも構わないんだけどな」

「私が構うって言ってんの!」

 私服の詰まった段ボール箱を開けて、すみれは適当な衣服を投げつけた。痩せこけていようと、背丈は大して変わらない。夢乃は渋々といった様子で着替えると、座布団代わりにしていたモッズコートを羽織った。

「似合っているかい?」

「全然」

 冷たくあしらって、すみれは洗面台の鏡へ向かった。


 ひとり残された夢乃は、床に落ちたクロッキー帳を大事そうにめくる。

「性器は描くなって言ったのに」

 どこまでも精緻に描き込まれた自分の姿を見て、夢乃は苦笑した。そして、紙上のアザと体のアザを、指でなぞってひとつひとつ対応させていく。

「上手くなったね、すみれ。残酷なくらいに」

 絵師としての成長の軌跡を見てやろう。重い腰を上げて、夢乃は画材が詰まった段ボールを検分した。段ボールの奥底に眠っていた落書き帳に妙に心を惹かれて、表紙をめくる。

「まったく、やっぱりキミは変態じゃないか」

 落書き帳は、少女のあられもない姿でびっしりと満たされていた。ページの裏面まで隙間なく埋め尽くされたイラストの主役は、すべて同じ少女だ。伸びるがままの黒髪を束ねた、小さな胸の少女。

 その姿に妙な胸騒ぎを覚えて、夢乃はただひたすらにページをめくっていた。

 少女、少女、少女。わいせつ・非わいせつの区別なく、描かれているのはすべて同じ黒髪の少女だ。紙の上で悶え、悲しみ、恥じらい、怒り、眠り、惑い、微笑む。

 夢乃は、胸騒ぎの正体に気付いた。

「ああ、これは……」

 最後のページまでめくった時、落書き帳に挟まっていた写真が一葉、ひらりと落ちた。その写真に写っていた人物は他でもない。二十年来の親友として、すみれの一番近くに居た少女。もう失って久しい若さと美しさを武器に、夢に向かって邁進しようとしていた少女。そして、夢乃が最もよく知っている少女。

「ボクはキミの女神ミューズだったという訳か」

 落書き帳を段ボール箱に戻し、夢乃は小さく微笑んだ。

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