第3話 叶うべくもない約束
夢乃は傷だらけだった。顔や体ばかりか、黙して語ることのない心までも。
真白く、体毛ひとつないやせ細った体に浮かぶ痛々しい傷跡は、虐待を受けている少女のようにさえ思えてくる。
「何があったの……?」
「この件はおしまいだと言ったはずだよ」
「おしまいになんてできるか!」
すみれは叫び、手枷を壊そうと懸命にもがく。だが金属が擦れるジャラジャラという音が鳴るばかりで拘束が緩む気配はない。
「とにかく手錠を外しなさい! 私をどうする気!?」
「だから言っているじゃないか。キミは奴隷だ、ボクの夢を叶えると約束したら解放してあげると。過去の罪を帳消しにしてあげるのは温情だよ?」
「何が温情よ! アンタのやってることは立派な犯罪よ!?」
「そうだね」と笑われ、すみれは凍りついた。冷たいフローリングに落ちた腰はまるで言うことを利かない。恐怖だ。一糸まとわぬ姿で近づく夢乃を避けることもできず、顎を持ち上げられる。爛れた顔が目の前に現れた。
変色しているのに、爛れているのに。夢乃の表情は七年前と同じ、薄氷のように美しく、そして近寄りがたいものだった。
「現段階でも傷害罪と強制わいせつ罪には問えるだろう。せいぜい執行猶予3年というところかな。できればこれ以上、手荒な真似はしたくない」
すみれの顔を夢乃の指が這う。冷たい指は以前よりも細くなったように感じられる。かさついてひび割れた指のささくれが、すみれの頬に小さな牙を立てる。
「ボクはキミを犯しに来たんじゃない。キミに助けてもらいに来たんだ。分かってくれるかい」
「この状況で!?」
「ツッコミが冴えているね。それでこそボクの親友のすみれだ」
すみれが必死に叫ぶたびに、夢乃は手を叩いて楽しんでいる。このまま押し問答を続けても何の解決にもならない。とはいえ、解決する方法がない訳ではない。むしろ、ハッキリと提示されている。
「しょうがないから聞くけど、アンタの夢をどうやって叶えればいいのよ!?」
テーブル代わりの段ボール箱に腰掛けて、夢乃は今にも折れそうな足を組んだ。思案でもするように頬杖をついて、事もなげに告げる。
「マンガを描いてアニメ化させればいい。そして主演声優にボクを使ってくれ。キミなら簡単にできるさ」
「んなことできるかーッ!」
「ならば一生、奴隷だね」
にこやかに笑って、夢乃は着ていたモッズコートのベルトを引き抜いた。モスグリーンの合皮を鞭のようにしならせ、すみれの目の前に垂れさせる。
「知っているかい、すみれ。合皮の鞭は天然革より跡が残りやすいんだ。だから躾のなってない奴隷にマーキングをする場合は合皮を使う。ほら、触ってごらん」
すみれの指先に合皮のベルトが滑り込む。本能的に握って奪ってしまおうとしたが、不安定な体勢ではそれも敵わない。
「いや、やめてよ……!」
「キミにご主人様は居るのかい? もしくはそれ未満でもいい、キミの裸を見る可能性のある者は?」
「居ないわよ!? なんなのアンタのその趣味は!? SM!?」
「語る必要はないな!」
言い切ると同時に、しなったベルトがフローリングを叩く。がらんどうのリビングに空気を引き裂く音がした。皮膚に当たっていればどうなるか。結果は目の前の女体を見れば明らかだ。
どうにかして、命乞いをしなければいけない。
「お願い、待って! アンタが座ってる段ボール箱を開けて!」
「……これかい?」
腰を上げた夢乃は、モッズコートのポケットに入れたカッターナイフで封を切った。あのナイフが別の用途に使われないことをすみれは祈るばかりだった。
「ああ、これは画材か。なんだ、今でも描いているんじゃないか」
嬉しそうにスケッチブックや落書き帳をめくる夢乃に、すみれは肩を落とした。
「……描けなくなったのよ。もうずっと、何も降りて来ないの」
「スランプというヤツかな」
すみれは小さく頷いた。
「子どもの頃は湧き上がるインスピレーションに任せて好き勝手を描き散らしていたのにね。創造力の泉が涸れるなんて考えたこともなかった」
Bから6Bまでの鉛筆、コピック、水彩絵の具。ケント紙コピー紙自由帳。スケッチ、クロッキー、色紙にミニカンバス。もう必要のないもの。捨てた夢の数々が、夢乃の手で白日の下に晒されていく。
それらをまじまじと検分する夢乃の気を引くべく、すみれは嘘をついた。
「でも、あなたと再会して閃いた。描きたいものができたの」
「新作の構想か。いいね、聞かせてよ」
「あなたの体よ、香椎夢乃。あなたをモデルに絵を描かせて」
元より歪んでいた夢乃の顔が殊更に歪んだ。
「キミは変態だな」
「アンタにだけは言われたくないわ! ともかく、私がアンタの夢を叶えるためには、私がスランプを脱する他ない。あの頃みたいな無限大のインスピレーションを取り戻さないといけないの!」
もっともらしく告げると、夢乃はボサボサの頭を掻いた。そして鉛筆とまっさらのクロッキー帳を手に取り、すみれの前に置く。
「これでいいかい?」
「手錠されて絵は描けないでしょ、だから外して」
「しょうがないお姫様だな」
すみれは心の中で安堵した。嘘はバレていない。その証拠に夢乃は小さな鍵を手錠のあたりに差し込んでいる。これで手錠さえ外せば、後は――
「手錠を外したら、キミは警察に通報する気だろう?」
夢乃に耳元で囁かれて血の気が引いた。何も返す言葉のない沈黙の中、すみれは心音が異常に高鳴る音だけを聞いていた。
「ボクは大抵の嘘は見抜けるんだ、キミの嘘は特にね。それに通報するのなら、今一度状況を俯瞰した方がいいよ」
「俯瞰ですって……?」
「状況1、ここは密室で、被害者と加害者の2人しか存在しない。状況2、ボクはこんな姿だがキミの体には傷ひとつ付いていない。状況3、凶器と思しきベルトにはキミの指紋もベッタリ付いている。状況4、キミはずいぶん年端もいかない美少女の絵を描き溜めているようだ。さて、以上のような状況に居合わせたなら疑われるのはどちらかな?」
「くう……!」
「あはは、その顔は好きだよ。本気で悔しいと感じている時の顔だもの」
ひとしきり笑うと、すみれを拘束する手錠が外れていた。手首をさすり、充電ケーブルに繋がったスマホに目を遣るも、通報するのは躊躇われた。実際、夢乃の言う通りだ。状況を考えるまでもなく、夢乃の姿を一瞥しただけで疑いの目はすみれに向くだろう。
「嘘だと分かっていながら手錠は外すのね」
「だって描くんだろう? こんな醜悪な体でもキミがインスピレーションを得られるのならボクは喜んで差し出すよ、すべてをね」
「ああ、そう」
すみれは吐き捨てるように呟いた。思えば、口喧嘩で夢乃に勝ったことは一度もない。二十数年の中で一度くらい夢乃を言い負かしたことがあったのではないかと脳裏をいくら探れども、思い当たるのは悔しそうにうめく自身の姿ばかりだった。
「ああ、性器は描かないようにしてね。さすがにボクも恥ずかしい」
呆れて声も出なかった。いっそのこと皺の一本まで描写してやろうと思ったが、それこそ警察沙汰になりかねない。すみれは無心で鉛筆を動かし、少女のような四肢と、その表面に走る無数の傷を描き取っていった。
時刻は零時を回り、日曜日になっていた。
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