第2話 長すぎた約束
「……免許証見せて」
香椎夢乃を名乗る人物が登場して恐るべき顔を見せても、すみれはどこか冷静だった。というより、醒めていた。リムの細いメガネと同じ、曇りなき眼で親友の真贋を確かめるべく手を伸ばす。
「疑り深いところも変わっていないね。それに冷静だ」
つべこべ言うなとばかりに右手を催促すべく突き出す。観念したのか、女性はポケットから取り出した小さな財布を恭しく手に置いた。
財布の中身はほぼ空だ。僅かな小銭と数枚の紙幣だけ。地元銀行のキャッシュカードとコンビニのポイントカードの奥に証拠があった。
氏名:香椎夢乃。
そしてアザのない綺麗な顔。
「念のため聞くわ。生年月日は?」
「仮にボクが偽物だとして、自分の免許証を暗記していないなんて考えられるかな」
芝居がかった鼻につく態度だが、彼女の言うことはもっともだ。すみれは財布を投げ返し、サングラスで覆われた奥へ睨みを利かせる。
「なら私について調べてきたことを話して」
「疑り深いな」とくつくつ笑って、彼女は朗々と語り出した。
「キミは白河すみれ、平成5年10月10日生まれの天秤座、A型。理由は知らないが故郷に戻ってきたばかり。それも、この一週間のうちにだ。起居する805号室にカーテンが掛かっていないのは、仕事が忙しくてカーテンを買いに行く時間もなかった、というところかな」
「その通り。探偵を雇えば一時間も掛からず調べ上げられることね」
「キミは本当に変わらないな」
「そうね」
すみれの強ばった表情は、わずかに緩んだ。数回会った程度の顔見知りでは分からないほどの微々たる変化だが、モッズコートの女――香椎夢乃にはそれだけで充分に伝わったらしい。
「疑いは晴れたかな」
「ええ。鼻に付くし、興ざめ。忘れたくても忘れられない三文芝居よ」
「昔からキミは、ボクにだけ手厳しいね」
すみれはエントランスのロックを開き、自動ドアの中に消えた。
「積もる話もあるでしょう、うちで聞くわ」
モッズコートをはためかせ、夢乃は悠々とエレベーターホールへ歩いていった。
*
「何もなくて悪いけど、適当に座っていてくれる?」
2DKの各部屋には所狭しと段ボールが積み上げられていた。身の回りの日常品、必要最低限のものは封を切られているが残りは手つかず。「テトリスのようだ」という夢乃の表現はあながち間違いではない。
「それで、どんな話から聞かせてくれるのかしら」
使い捨てカップのインスタントコーヒーをふたつ、テーブル代わりの段ボールの上に並べる。キッチンの奥でウォーターサーバーがごぽりと音を立て、
「七年間ロクに連絡を取らなかった人間の所を尋ねてきた訳は?」
スティックシュガーとミルクを混ぜていると、夢乃は苦々しげに笑った。
「楽しそうだね、すみれ」
質問には答えず、茶化してごまかす。この香椎夢乃という女は、ほとんど音信不通だった七年の歳月が経っても何も変わらない。必定、すみれの反応も同じになる。
「あなたと居ても楽しくないわ。付いてくるから構っているだけ」
「そうだったね」
あざけるように鼻で笑うと、夢乃はブラックコーヒーを啜って告げた。
「夢を叶えようとしていたんだ、東京で」
すみれは顔を上げた。
「覚えているかい? あれは高3だったかな」
忘れられるはずもない。あの時、3枚しかない手札を切ってまで夢乃が宣言した夢のことだ。大人たちへ反抗したくて決めためちゃくちゃな進路が原因で、すみれは夢乃と距離を置かざるを得なかったのだから。
「ふざけた約束をしてしまったものよね、お互い」
「ふざけているつもりはなかったと分かっただろう?」
夢乃は茶色のテーブルに、色褪せた紙片を添えた。『なんでも言うこと聞く券』と拙い字で書かれたチケットの発行日は平成10年4月1日。有効期限は『死が二人を分かつまで』。そして右端に小さく、三枚目であることを示す#3とある。
「ただ、ボクは挫折した。夢は叶わなくなったんだ」
夢乃が見せた弱気な姿に、すみれの視線は紙コップに落ちていた。黒と白がまだらな渦を描いて、混ざり合わずに回っている。
「何があったの」
尋ねても夢乃は答えなかった。同時に、聞きだそうとしても詮無いことだとすみれは思い出す。彼女はあれほど雄弁なくせに本音を語らない。無理強いしても頑として口を割らないのだ。
「顔見せて」
「さては美女と野獣に影響されたかい? それとも、ガウェイン卿とその妻ラグネルか」
「いいから」
肩をすくめると、夢乃はフードを取ってマスクとサングラスを外した。LED照明の白い灯火に照らされたそれは、夕暮れの仄明かりの中よりもより醜悪なものだった。
「ひどい顔ね……」
「失礼だな、パーツの美しさには自信があるのだが」
夢乃の顔をより正確に描写するなら、それはアザではなく
「もう充分、スプラッターは堪能しただろう。この件はこれで終わりだ」
「そう」
答えるつもりはない。有無を言わせぬ意思を感じて、すみれは追及をやめた。言いにくいことがあるのだろう、そう思って自身を無理矢理納得させて、まだらなカップに唇を押し当てた。苦く、強烈に甘い。
「では今度はボクの番だ。キミは夢を叶えたのかい」
「夢、ね」
子どもの頃は夢に満ちあふれていた。ケーキ屋さん、お医者さん、先生、そしてお嫁さん。よくある煌びやかな将来の夢をどれも一度は脳裏に描いて、翌日には違う夢を抱いている。三つ子の魂百までと言うくらいだ、女心が移ろいやすいのは子どもの頃からそうだからだろう。
だが、夢見る乙女は生きてはいけない。初潮で女の現実を喉元に突きつけられ、大半の夢見る乙女はここで窒息する。無情な現実は月ごとに心身を襲い、足元を揺らがせ、綻ばせ、壊す。地面がなければ跳べないように、自己がなくては夢になど届かない。
かくして女は――少なくともすみれは夢を捨てて現実を取った。
それからはずっと、無為な現実を過ごしている。
「忘れてしまったわ、夢なんて」
「そうか、ならば思い出させてあげよう」
再びポケットをまさぐって、夢乃は幾重にも折られた紙を差し出した。脇に置いたチケット同様に古ぼけ、しわくちゃになった紙の正体は進路希望用紙だった。二人分の進路が、縮小コピーされて一枚になっている。
「キミの将来の夢はマンガ家だ。チケットを使って約束させたボクたちのレールだよ」
すみれは黙して固まった。そして、夢乃の訴追から逃れるように視線を逸らす。
「だがキミはあの後、ボクに隠れてもう一枚の進路希望用紙を出した。キミは約束を破って夢から逃げたんだ」
「無理だったのよ、あんな夢」
「挑もうともせずにかい?」
すみれの握った紙コップが歪んだ。
「私はあなたとは違う! あなたみたいな才能なんて何もない、ただの平凡な人間よ! ちょっとマンガを書いてチヤホヤされるだけで満足だったの!」
言い切って、すみれはコーヒーを飲み干した。テーブルの上の進路希望用紙をグシャグシャに丸めて段ボールの山に投げつける。かつてそうだったかのように、かさりと音を立てて夢は丸めて捨てられた。
「キミは話を作るのは上手いのに、嘘が下手だね」
激昂したすみれに構うことなく夢乃は続ける。
「ともかく、キミはボクとの約束を破った。チケットの決まり事を無視した訳だ」
『なんでも言うこと聞く券』を裏返して、夢乃は規約を読み上げた。
「約束を破ったら一生奴隷、とあるね。まったく、5歳の子どもが作ったにしてはマセているよ」
「くだらない。そんなもの無効よ、何十年前の約束を持ち出しているんだか」
「いいや、従ってもらう。あの頃のボクたちに申し訳が立たないから」
やおら立ち上がると、夢乃は銀色に光る輪を取り出した。手錠だ。その正体にすみれが気付いた時には遅かった。アイランドキッチンの壁から突き出した手すりに鎖を噛ませて、すみれは両腕を拘束されてしまう。
「なにバカなことしてんのよ! アンタどうかしてんじゃないの!?」
「ボクの言うことを何でも聞くなら手錠を外そう。主人と奴隷じゃなく、今まで通りの対等な立場になってもいい」
「そんなバカな話が――ちょっ!?」
夢乃は目の前でモッズコードのファスナーを下ろした。その下は、艶めかしい素肌だ。鷹揚な紳士じみた言葉遣いのくせに華奢な夢乃の体には、いくつものアザに生傷、ミミズ腫れが浮き出ている。それらひとつひとつが、彼女の歩んできた七年間の異常性を雄弁に語っている。
「アンタ、なにそれ……!?」
さしものすみれも、冷静さを失って尋ねていた。尋ねずにはいられないほどの女体にあらぬ無数の傷が刻まれているのだ。
「言っただろう、ボクの夢は叶わなくなった。叶えたかったのに壊されたんだ」
夢乃は着ている物をすべて取り払って生まれたままの姿になった。凹凸の少ない、華奢で痛々しい体躯。痩せこけてあばらも浮き出て、おおよそ成人女性の体とは思えない。ただ、その肉感の少なさが少女のような危うさを放っていて、すみれの視線は釘付けになる。折れそうな手足に、骨張った腰に、薄い胸に、細い首筋に。そして顔に。
瞳いっぱいに涙を溜めて、夢乃はすみれの眼前に迫った。
「だから叶えてくれ、すみれ。ボクの夢を……声優になるという夢を……キミのチカラで……」
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