仮声よ、聖夜に響け

パラダイス農家

第1話 7年越しの約束

「すみれは決めた?」

 白紙の進路調査用紙の上で、市河すみれは0.3ミリ芯のシャープを止めた。

「決まるわけないよね。18年ぽっちで今後の人生のことなんて」

 散々言われてうんざりというトーンで、彼女――香椎かしい夢乃は芝居がかって肩をすくめてみせた。

 大人は突然、態度を変える。『敷かれたレールの上を走ることがよい子の証だ』と強制するくせに、時が過ぎれば『レールは自分で敷くものだ』とよい子も悪い子も突き放す。レールを敷く術を教えず、あまつさえ敷く術を学ぶ機会すら奪ってきたというのに。

「大人は勝手だよ」

 小さく頷いて、すみれはシャープ芯を用紙に押しつけた。コツンという音ともに芯はペン先に落ち込み、出る杭は打たれる。それは、レールから外れようとする者の宿命だ。

「だったらさ、思い切ってすごいこと書いてみようか」

 夢乃はニンマリと笑って、進路調査用紙をすみれの眼前に置く。第一から第三までの進路希望欄には何もない、未来は五里霧中だ。だが彼女の横顔は、差し迫った未来の焦燥感すら楽しんでいるような、危うくも美しい笑顔だった。

「そっちが自分で決めろって言ってきたんだから、決めてやるんだよ。めちゃくちゃな進路をさ」

 夢乃は二人分の進路を書き入れた。迷いのない、綺麗な筆致だ。

「これがボクたちの敷いたレール。大人に文句は言わせない」

「勝手に決めないでよ。私には私の進路があるの」

「友達なら、は破れないよね」

 すみれの反対など臆することなく、夢乃はくしゃくしゃの紙切れを机に叩きつけた。黄ばみ、皺の入った小さな紙片は、幼い日の約束。強烈な懐かしさを放つチケットを見留めて、すみれは言葉を呑み込んだ。

 友達。約束。夢乃の考えは理解した。そして、まだこのチケットがと思っている幼さに呆れもした。

「そんな使い方するのね……」

「いいでしょ。夢はでっかくって言うし。もし叶ったらよくない?」

 進路調査用紙には夢乃の文字でふたつの夢が並んでいた。


 市河すみれ 希望進路:マンガ家

 香椎夢乃  希望進路:声優


 幼馴染みの夢乃の手で、すみれの進路は勝手に決められた。魔力を持つがごとく、絶対的な強制力を持つ子どもの頃の思い出によって。

 だが、すみれにはそれが不思議と魅力的なものに感じられた。


    仮声よ、聖夜に響け


 平成30年12月1日、土曜日。

 ギシギシと不愉快な金属音を立て、路面電車が市内を走る。帰宅ラッシュで混み合うせせこましい車内で、すみれは不意に視線を感じた。学童帽を被った無垢な少女がすみれを見つめている。

「どうかしたの」

「おしろ!」

 少女はやおら指先を車窓に向ける。夕焼けを背景に、街のシンボルである松山城が冬枯れの丘の上に聳えていた。


 愛媛県・松山市。

 四国最大の人口を擁する中核都市――と市民はその存在を誇っているが、その実体は所詮、吹けば飛ぶような地方都市だ。

 それでも松山市民はこの街を愛している。同地を舞台にした文豪、夏目漱石の著作『坊っちゃん』で「田舎だ」「野蛮だ」と散々コケにされながらも、愛することをやめようとしない。小中学生の課題図書に指定して、愛国心を刷り込むほどだ。

「お城は好き?」

「ももかはプリキュアが好き!」

 少女はにっこり笑って、路面電車の停留所に消えていった。遠のいていく少女と松山城を見ながら、すみれは窓に頭を押しつけた。

「……私はこの街が嫌い」


 路面電車を降りて、ライトアップされた花園通りを自宅へ向けて歩く。ライトアップと言えどあくまで飾り程度だ。新宿サザンテラスや六本木のけやき坂を見慣れた者なら、鼻で笑わずには居られないだろう。

「会社方針だから仕方がない、か……」

 よくある話だ。新規販路開拓に伴う営業支店の新設とその人員確保。事務職は現地採用できるとしても、管理職社員はそうはいかない。結果、人事部で出向者選考という名の出来レースが行われ、白羽の矢が立ったのがつい先月。

 ちなみに支店出向の選考基準は、その支店地域の出身者。すなわち、田舎がイヤで都会に出てきた田舎者を、地元に戻すということだ。

 ケチ臭いライトアップの下を歩いていると、社用の携帯電話が音を立てた。輪を掛けて億劫だが、液晶画面に表示された上司の名前が呼んでいる。

「はい、市河です」

『お休み中ごめんね、市河さん。支倉です』

「いえ」

 喉元まで出かかった休日出勤という言葉を呑み込んだが、不機嫌さを隠すことまではできなかった。出てきた声はひどく無愛想だ。子どもの頃から何一つ変わらない愛嬌のなさが嫌になる。

 それを察したのか、上司の支倉は曖昧に笑う。こういう時、彼女はだいたい世間話を始める。軽く会話を弾ませて機嫌を取ってから本題へ移る。営業の基本だ。

「ご用件は」

 それが分かっているから、余計な時間を食うまいと急かす。支倉は黙して思案した後に告げた。

『実はね、市河さんの代わりに出向してもいいって人が見つかったの。だから松山支店出向はもう終わり――』

 思わぬ朗報に、すみれは上司の言を遮っていた。

「本当ですか」

『そう……なんだけど、代役が今年いっぱい動けなくてね。営業先の引き継ぎもあるし、あの問題児を何も教えず送り込むのはちょっと……いや、かなり不安で』

 それきり支倉は静かになった。

 上司の支倉は駆け引きが上手い。と言うよりズルい。こちらが飛びつく最高の条件を提示しつつ、情に訴える方法で揺さぶりをかける。だからこの沈黙は、譲歩を引き出すためのものだ。

 支倉とは一歳違いだが、仮にも上司と部下の関係にある。無碍にもできない。

「じゃあ、年内は松山支店に出向、ということですか」

『ごめん、とりあえず年内いっぱい頼めるかな? 後は私がやっておくから』

「……分かりました」

 この憎々しい街から、あと一ヶ月で縁を切れる。一ヶ月間、課された任を全うすれば、ケチ臭いイルミネーションや無駄に広い空、そして時代錯誤な街のシンボルにも別れを告げることができる。

 電話を切って、すみれの足取りは軽くなった。解いて間もない荷物を梱包し直そう。家具を買い揃えるのも辞めよう。そう思い、マンションのオートロックを操作している時、背中から声を投げかけられた。

「市河すみれさん」

 振り向くと、モッズコートを着込んだ人影があった。背格好からして女性だろうが、目深に被ったフードとマスクのせいで顔色は伺えない。

「視線を逸らさないでくれるかな」

 背筋が凍るほどの声色だった。それだけで釘付けにされ、言葉が出なくなる。オートロックを解除してエントランスに逃げ込もうにも、部屋番号を押すことさえできない。

「警察、呼びますよ」

「キミは親友を警察に突き出そうと言うのかね。困ったものだな」

「ふざけないでよ!」

 モッズコートの不審者は、くぐもった声で笑った。不思議と聞き覚えのある声に、すみれは脳内で誰何する。

「……やっぱり、すみれはいい反応をするね。あの時の夢、逆にしておけばよかったかも」

 聞き返す間もなく、不審者はフードを脱いだ。顔を覆っていたサングラスとマスクを外すと、大きなアザが一番に目についた。顔面を上から下、左右に真っ二つに割るように、そこだけ青紫に変色してしまっている。

「ひっ……!」

 腰から崩れ落ちたすみれに、アザの女性はすぐさま顔を覆う。

「結構傷つくね。でもま、しょうがないか。あれからもう七年は経ったんだからさ」

「七年……?」

 すみれの前に屈むと、女性はコートのポケットから定期入れを取り出した。その中にしまい込まれた紙片を抜き出し、すみれに渡す。

「友達なら、は破れないよね」

 差し出された紙片を見て、すみれは息を呑んだ。

「あなたまさか……夢乃……?」

 彼女は顔を覆ったまま、とびきり明るい声で笑った。

「そうだよ。あの日の約束を叶えてくれるかい、すみれ」

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