イェイイェイ田中

日向日影

イェイイェイ田中

 当たり前だが、太陽というものは人間の気持ちを理解してくれはしない。こんな日にも、いつもと変わらない秋の柔らかで涼しさを帯びた朝日が教室を照らしている。グラウンドで朝練をする陸上部の掛け声と相まって、今日がいつもの日と何も変わらないかのような雰囲気を演出していた。ただ、この時間のわりには人が多い教室と、それとは裏腹の静寂が、この朝が彼らにとって特別なものであることを表していた。

「俺、こんな時間に教室来たの初めてだよ」

いつも始業寸前か先生が出席を確認する頃に静かに教室に入って来るカズヤが、首元まで延びた襟足をいじりながら話を切り出した。その言葉に教室にいる皆がカズヤの方を見返す。おしゃべりでスカートを校則よりも短く履いてよく先生に睨まれているナルミが続けた。

「確かにカズヤこんな時間に来ないよね。絶対来てくれると思ったけど、ありがとうね」

 今回のことをクラスにLINEで回したのもナルミだった。こういう時彼女は行動力があって、彼女が号令をかけると不思議とクラスがまとまるものだった。アキトが空手部で全国大会に出場することが決まった時に、みんなで寄せ書きを書くということを言い出したのもナルミだった。

「それにしても田中がなぁ」

放送部のタカユキがあくびをして、机に顔を伏せながら一言つぶやく。深夜までネットの配信にコメントをしていたので、眠いのも仕方がない。それはスカートの裾の右側を椅子と自分の脚で挟んでいるのも気づかずにうとうとしているアキエも同じなのだが、この二人は互いのハンドルネームも知らないし、ネットの配信を見ていたと公言すると周りにからかわれるのではないだろうかとそれを口にすることはなかった。ガラガラと音が鳴る。ドアの奥から他のクラスの生徒と思われる話し声が聞こえてきた、その声を割るように教室へと入ってくる足音が響いた。

「お、いいじゃん。さすが華道部」

「ほんとだ、かわいい」

「別に。枝切っただけだし、これくらいなら誰がやっても変わらないよ」

カズヤとナルミの声に首を傾げながらエリナが花瓶に入った花束を持って入ってくる。彼女はこぼさないようにバランスを取りながら教室を進んだ。途中吹奏楽部の朝練を終えたアルトとカナエとミスズが「おはよー」と言いながら、エリナの進む道を邪魔しないように自分の席につく。エリナは窓側、最後尾、誰も座っていない席にその花瓶を置いた。やはり華道部だからか見栄えも気になるのであろう。少し花や花瓶の角度を動かしたあと、

「よし」

と一言呟いてその三つ前にある自分の席に戻った。自然と教室にいる全員がその花を見つめた。

「田中、元気なやつなのにな。なんでこんなことになっちゃったんだろうね。いいやつは早く、って本当なんだな。今でも思い出すよ、あいつの笑顔とピース」

演劇部のユウジは、まるでそれも演劇であるかのように涙声を教室中に響き渡らせた。

「カズヤは、結構田中と絡んでたじゃん。なんか知らないの」

「いや、俺も学校でしか会ってないし、あいつ最近LINEもやってなかったからさ」

「ケンゴくんとミサさんって、中学校一緒だったんでしょ」

「確かに一緒だったけど、そんなに喋ってたわけじゃないけどなぁ。でも、前も言ったかもしれないけど、あんなに元気になったのは高校来てからだよ」

クラスで一番勉強ができるケンゴが、ナルミのその問いにスマートフォンをいじる手を一瞬止めて答えた。

「ミサさんはどうかな」

「ミサかぁ。あいつも一緒じゃないかな」

そう話していると、ちょうどミサが陸上部の朝練を終えて教室に入ってきた。

「おはよう。やっぱり今日はみんな早いね」

「おはよー、ミサさん。アツヒロは見た」

「アツヒロくん、グランドにはいたよ」

「さっきナルミと話してたんだけど、ミサって中学校の頃の田中覚えてるの」

「あ、おはようケンゴ。そうだね、いたような気がしたけど、覚えてないな。高校来てからみたいにイェイイェイ言ってなかったしなぁ」

「田中と言えばイェイイェイだもんね。あれ面白かったよなぁ。確かカズヤとかアツヒロとかと喋ってる時に出てきたんだっけ」

「あー、ケンゴは見てなかったんだっけ。そうそう、アツヒロがそれに超ウケててさ。で、それから田中の定番ギャグになったんだよね」

「俺も好きだったわあれ」

「でも、もう見れないね」

 いつの間にか目を覚ましていたアキエがスカートを直しながら、アキトの同意にかぶせるかのように一言そう呟いた。その瞬間クラスはまるで指揮者がタクトを止めたかのように静まり返り、もう陸上部の朝練も行われていないため、教室にはドアの外の生徒の声と足音のみが響いていた。その中に、明らかに他とはリズムが違う小走りの足音が混ざっていた。クラスの誰もがその音に振り向くと、ドアが開きいつものように汗を拭きながら着替えたばかりの制服のYシャツをパタパタさせながらアツヒロが入ってきた。

「アツヒロくんおはよう。もうみんな揃ってるよ」

「ああ、うん」

即座にナルミが先ほどよりも高い声で話しかける。こいつ相変わらずわかりやすいなとクラスの多くが苦笑いしながらその様子を見ていた。アツヒロは、彼がいつも自慢する、自分と同じ背番号である7番をつけたヨーロッパサッカーの選手のユニフォームを模ったストラップをぶらぶらさせながらスマホをいじりつつ、ケンゴの隣の席へと向かっていた。サッカー部のレギュラーであり、学業もよく、見た目も爽やかな彼が歩くと、教室の空気が彼を中心に締まっていくような感じさえあった。席が近づいたところでケンゴが声をかける。

「アツヒロ、覚えてる。田中のイェイイェイ」

「イェイイェイがどうしたのよ」

「お前あれを初めて見てすごい笑ってたんだって」

「ああ、だって面白いじゃん。両手でピースしながら『イェイイェイ』だぜ。みんなも笑ってたじゃん。あいつ本当に面白かったよな」

「そうだよな、みんなの前で田中がイェイイェイやった時思い出すわ。あの時、カンナが吹き出してさ、びっくりしたよ。カンナってしゃべんないからさ。でもあれで、みんな仲良くなれたよな」

そうケンゴが言うと、今日も文庫本を読みながら黙っていた文芸部のカンナが、少し恐縮しつつうなづいていた。

「田中って、ムードメーカーだったよなぁ」

アルトが急に口を開いた。その言葉に、クラス全体がなんとなく同意するような頷きや表情を見せた。

「みんなあいつのことで、笑ってたもんね。それなのに、なんでだろうね」

ユウジの声には嗚咽が混じっていた。それに釣られて、クラスの何人かも涙を流した。何も言わず、天井や窓の外、机に置かれた花瓶をただ見つめ、田中のことを思い出すかのように物思いにふけるものもいた。やがてナルミが花瓶の方を向き、手を合わせると他のクラスメイトも声を潜め、同じように花瓶と、本来そこに座るはずの同級生のために手を合わせるのだった。


 邪魔そうに彼を避けて階段を駆け上がる他のクラスの生徒の靴が見えて、シンジは自分が下を向いていることに気づき顔をあげた。階段を上がりきればそこには教室がある。シンジは、自分の心臓の鼓動が高鳴っているのが階段のせいではないことを理解していた。昨日先生に言われたことを思い出しながら階段を登り切る。今日は行かないわけにはいかない。ドアの前に立つと、教室が妙に静かであることに気づいた。背中越しの他のクラスの生徒が走って教室に向かう足音、そして隣の教室からは楽しげな話声が聞こえる。きっと、クラスメイトも今日は緊張しているのだろう。今日は大切な日だ。昨日も泣いていたシンジは、早くみんなに会ってすっきりしたいとも思っていた。シンジは一呼吸置いてからドアを静かに開けた。その先に広がっていた光景をシンジは理解することができなかった。自分以外全員揃ったクラスメイトが、花瓶の置いている机に向かって手を合わせていた。少しの間があって、その机が誰の机なのかシンジが気づいた時、耳のいいカナエがこちらを向き、シンジの方を指さして叫んだ。

「あ、田中のユーレイ来た」

その言葉にクラスの全員がシンジの方を向き、先程まで花瓶にしていたと同じように、黙ったままシンジに手を合わせていた。シンジは、その姿を反射的に視野に入れないよう、目線を自分の席に置かれている花瓶に移したが、実際にはシンジはその映像を受け入れられていなかった。顔は青ざめていて、体は少し震えていた。まるでそれを全く気にしないかのようにナルミが、

「なむぅー」

と口角をかわいらいく上げた笑顔で拝みだすと、一瞬の間があったのち、クラスがシンジを一人残して笑いに包まれた。

「ウケる、なむぅーってなんだよ」

「でも、そうだよな、田中は幽霊なんだし」

「うわぁ、化けて出たぁ」

「なんまいだー、なんまいだー」


田中ってなんか幽霊みたいだよね

もっと楽しそうにしなよ

キモい

笑えよキモナカ

やばいキモナカってウケるね、最中みたい


クラスメイトから断続的に投げられる言葉が、彼らが過去にシンジの腹を殴ったり、カバンに食べかけのパンを入れたりしながら言ってきた言葉を想起させながらシンジの脳にやってくる。シンジは、今起きていることをやっと理解し、担任の先生とアツヒロから「クラスのみんなが、お前に謝りたいって言うから、来てくれないか」と電話とメールで言われ、了解した金曜日のこと、そして二週間前に学校に行かなくなった、その前にクラスメイトにされていたことを思い出しながら、声も出せず、ただ震えていた。

「いぇーいいぇい」

中学が同じであったということで入学して最初の頃は仲良くしたこともあったケンゴが、その言葉を口にした。それを聴いた時、シンジは喉のあたりに吐くことも吸うこともできずに詰まった息と胃から上がってきた吐瀉物が鎖骨のあたりでぶつかるような感覚に包まれ下を向いた。


「いぇーいいぇい」

「イェーイイェイ」

「イェーイイェイ」

「イェイイェイ、イェイイェイ」

「田中、イェイイェイだよ」

「お前のギャグじゃん、やれよ」

「ほら、イェイイェイ」

「イェイイェイ」


おまえなんか面白いことやれよキモナカ


「イェイイェイ、イェイイェイ」


元気出せよ


「イェイイェイ、イェイイェイ」


サッカーでなんかいいポーズとかないの、やらせようぜ

やだよ、キモナカにサッカーの真似とかさせたくねぇよ


「イェイイェイ、イェイイェイ」


そうだ、お前ピースしろよ

やべぇ、キモい、ウケる


「イェイイェイ、イェイイェイ」


それで何か言わせたらウケんじゃね

ああ、そうだな

おい、何嫌そうな顔してるんだよ

楽しくやろうや、クラスメイトじゃん


「イェイイェイ、イェイイェイ」


よし、楽しそうにさ「イェイイェイ」って言えよ、ピースしたままでさ


「イェイイェイ、イェイイェイ」


それウケる、イェイイェイ言うキモナカはウケるわ


「イェイイェイ、イェイイェイ」


ほら、言えよ


「イェイイェイ、イェイイェイ」

「イェイイェイ、イェイイェイ」

「イェイイェイ、イェイイェイ」


おい

うわあ本当にやったよ、超ウケる


「イェイイェイ、イェイイェイ」

「イェイイェイ、イェイイェイ」


ちょっと、これみんなに見せに行こうぜ


「イェイイェイ、イェイイェイ」


気がつくとクラスメイトは手拍子をしながら繰り返していた。シンジにはカズヤとアツヒロにトイレで腹を蹴られながら強引にやらされて、そのあと教室でもやらされた挙句延々と笑われたり、毎日のようにやらされたりした時の記憶がその言葉と同時にシンジを襲った。「やめて」という言葉は、その手拍子と記憶に押し込まれているかのように口から出ていかなかった。

「イェイイェイ、イェイイェイ」


ヤバい、キモナカウケるね

なんなの、超ダサい、ウケる


「イェイイェイ、イェイイェイ」


よかったじゃん、キモナカ人気者だねー


「イェイイェイ、イェイイェイ」

「イェイイェイ、イェイイェイ」


イェイイェイだってー


「イェイイェイ、イェイイェイ」


お前でもみんなの役に立ってるんだからよかったじゃん


「イェイイェイ、イェイイェイ」

「イェイイェイ、イェイイェイ」

「イェイイェイ、イェイイェイ」


気がつくと、シンジは全速力で階段を下りていた。チャイムが鳴っていることにも、担任の先生が通り過ぎ、彼に声をかけようとしたことにも気づかず、彼は1階へと駆け下りていた。その間にも、彼の体には蹴られたり剣山で刺されたり時の痛み、「全国への練習だ」とアキトに腹や背中を殴られた時に履き出して、一人で延々と拭いた血混じりの吐瀉物の匂い、カズヤが親の病院からもらってきたとか言う内容がわからない薬をカズヤの尿で飲まされた時の味や恐怖が駆け巡っていた。


 教室は、笑顔にあふれていた。

「最高だったね」

ミサのその言葉には充実感がこもっていた。

「私キモナカのこと田中って呼ぶの久しぶりだったから、ほんとうに気持ち悪かった」

おしゃべりなナルミがいつものように話の先鞭をつけると、誰かれなく感想を言い出した。クラスの誰もが、同じ喜びを分け合っていた。楽しかったねと話してる内に、互いにネットの配信で眠れてないことを知り、話が盛り上がっているタカユキとアキエを、先ほどまでイェイイェイの物真似をしながら笑っていたミスズがおやおやといった表情で見つめていた。

「ていうか、やっぱユウジすごいわ。本物みたいだったもん」

「だって、『葬式ごっこだって本気でやったほうが絶対楽しい』っていうからさ、昨日から演技の練習してたんだよ」

ユウジは少し得意げにアルトと会話していた。文化部同士である彼らはわりと仲がよく、一緒に田中を叩いたり無視したりしていた。

「でも、一番は、ねぇ」

「『あそこ母子家庭で母親働いてるから絶対親と来ないし、いけるよ』『僕たちだけで田中くんに謝りたいって演技して言えば先生遅れてくるようにさせられる』とか、当日どんな風にごっこしたらいいかとかも完璧だったもんな」

そう言うとアルトとユウジは、同じ方向を向いた。

「最高の筋書きだったぜ、作家さん」

カンナは、その声に文庫本越しの笑顔を見せた。

「そろそろ先生くるんじゃね。もうチャイム鳴ってから相当経ったし」

アツヒロがそう言うと、エリナがすぐに端の机にかけて、持ってきていた新聞紙で丁寧に花を巻いてかばんに入れ、アキトが花瓶を掃除用具箱に隠した。クラスはすっかりまとまっているというのが、そこからもよく伺えるものだった。その途端、またドアがガラガラと音を立て、担任の教師が教室へ入ってきた。

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