第5話 渋滞するココロ

 大川幸雄おおかわゆきおはバックヤードに戻ると、水色の法被を脱いで、部下に後のことを指示して退社した。

 今日は大事な用事があるのだ。

 実に忌々しい用事だが。


 先ほど記念品を渡した千人目の客は、若いカップルだった。なんとも初々しい雰囲気で、今は一番見たくない人種だった。

 胸に広がる黒いものを振り切るように、車に乗ると思い切りドアを閉めた。

 助手席に置いてある封筒を手に取る。中の書類を取り出して最終確認をする。

 離婚届。

 二人の署名も、押印も、記入漏れなどなく、完璧な書類。

 こんなものを自分が手にする日が来るなどと、結婚したときは全く思いもしなかった。だが――。

 ――結愛の足を引っ張らないで!

 一ヶ月前の妻の鋭い叫び声が、耳に蘇る。

 もう、二人は後戻りできないところまで、絶望的に離れてしまったのだ。

 幸雄はエンジンをかけた。


 その頃、大は、クリーニング店の受付の女性の想定外のセリフに困惑していた。

「大変申し訳ございません。集荷の車がトラブルにあいまして、いつもどおりの業務が行えない状態でして。現状では、いつものような翌日のお返しは難しいかと」

 大はおそるおそる小百合を見ると、小百合は落ち着いた様子で返答していた。

「大丈夫です。明日はどのみち来れないと思いますし」

「恐れ入ります」

 店員がほっとしたように頭を下げた。

 大も少しほっとした。


 会計を済ませてクリーニング店を離れたところで、大はマフラーだけで寒そうに震える小百合を見て、ようやく自分がしでかしたミスに気付いた。

「ああっ! ごめんなさい、上着、クリーニングに出しちゃったから、なくなっちゃったっすよね。寒いですよね!」

 小百合は涙目で頭を下げる大を見て、思わず吹き出した。

「いえ、いいんです。私、気付いてたんですけど、言い出せなかったから」

「ほ、本当に重ね重ねご迷惑を……」

「もう、いいですからやめてください。私、なんだか怖い女みたいじゃないですか」

「いやそんな。ああ、本当にすみません」

「もう、もういいですから」

「いや、そんなわけには、その」

 ひたすら頭を下げる大を見て、小百合は困り顔でため息をついた。

 そして、意を決したようにすうっと息を吸って、パンと手を叩いた。

「じゃあこれから、お詫びに私のお買い物とご飯に付き合ってください」

「へっ?」

「さっきもらった千人目記念の景品、ここの商品券と上のレストランのペア食事券だったんです。さ、行きましょう」

 小百合は大の服の袖を掴んで、勢い良く歩き出した。

 まずは上着を買おう。


「くそっ!」

 幸雄はハンドルに八つ当たりをした。

 道路が大渋滞してして全く動かないのだ。

 どうやらこの先で交通事故があったようだ。少し先に赤色灯が見える。

 どんどん時間が過ぎていく。

「全く!」

 一刻も早くこの忌々しい書類を出して終わりにしてしまいたいのに。


 これじゃ。

 こんな無駄な時間があったんじゃ、決心が鈍ってしまう。

 やり直せるかもしれないとか、考えてしまうじゃないか。


 ふと窓の外の、ベビーカーを押す夫婦が見えた。


 ――ああ。なんて幸せそうなんだろうな。


 幸雄は思わず見入ってしまった。今は、見たくもないもののはずなのに。

 ベビーカーで眠っているらしい赤ちゃんは女の子であるらしかった。愛らしいピンクのひざ掛けや、ベビーカーにぶら下がった人形や花の形のおもちゃがそれを物語っている。

 ――結愛。

 幸雄は世界一愛しい娘のことを思った。

 ――ついこの間、生まれたばかりだと思ったのにな。

 もう高校生だ。

 初めて笑った。

 初めて座った。

 初めて歩いた。

 初めて喋った。

 初めてランドセルを背負った。

 初めて制服を着た。


 初めて、ピアノを弾いた。


 初めて、ピアノの発表会の舞台に立った。


 初めて、コンクールで賞をとった。


 どれもこれも嬉しかった。

 結愛はいつでも幸せをくれた。

 いつだって、いつだって、三人一緒に喜んできた。

 いつだって、いつだって、一緒に悩んで、戸惑って、歩いてきた。

 そう思っていた。

 思っていたんだ。

 なのに――。


 本当に、本当に、もう戻れないのか?

 本当に?


 気付けば、幸雄は舞い散る雪の中、脇道に抜けるべくハンドルを切っていた。

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