第3話 私たち、が。


 高校に上がって二年目の春が来ても、私はまだ「アリス」だった。


 ベッドの上で体を起こし、カーテンを開ける。近くの小学校の屋上に、傍の貯水槽と同じくらい大きいスズメがとまっている。


 うん、今日も普通だ。


 顔を洗い、歯を磨き。いつもの制服に袖を通し、髪を整え、朝食の席に着く。

 居間のテレビには、昨日とさほど変わり映えのしない内容ばかりの報道番組が流れている。


「近年増えに増えているという失踪事件ですが、ここ数ヶ月で数が指数関数的に――」


 ディスプレイ等を通すと私のアリス症候群は症状を表さないので、これが数少ない心が休まる時間帯だと言っても過言ではない。どうでもいいニュースであっても、だ。

 もう長いことこの症状と付き合っているが、何度も何度も同じようなことを体験すれば慣れはするものの、嫌悪感はどうあっても改善しない、する気配もない。鳥類はともかく、回数を重ねても昆虫類に愛着は湧かない。個人差はあるだろうけど、私は絶対に無理。


 食事を終え、また歯を磨いて多少身だしなみをチェックした後、学校へ向かう。

 自転車から電車を乗り継ぎ、目的の駅で降りる。と、早速エスカレーターの下にサーフボード以上の大きさのゴキブリを見付けてしまったので、別方面の階段を利用することにする。


 ここまで遭遇しなかったから、学校に着くまで出ないかもと思って良い気分だったのに、朝から嫌なものを見てしまった。

 気持ち悪い物は気持ち悪いのだ、寧ろ悲鳴を上げていないだけ偉いと褒めてほしいくらい。素知らぬ顔で歩いていく人、何も気にせずエスカレーターで降りていく人たちが羨ましくてたまらない。素知らぬ顔で生活している人たちは、どれほど普通で特段奇妙でもない平凡で幸せな人生を送れているのだろう。そう思ったことは一度や二度ではない。私だって、こんな幻覚など見たいわけがない。


 しかし、何故かこういうときは連続して症状が出るもので。


 駅前のビルの隙間にふと目が吸い寄せられると、巣など最早必要ないだろう、車並みに大きな蜘蛛が見えた。


 嫌な予感がして早く学校に急ごうと歩を進めると、視界の隅、道端に道路標識くらいの縮尺のミミズが横たわっているのが映った。


 生理的嫌悪感から思わず仰け反り、進行方向に視線を向けると、ポストより大きいくらいの蜂が目と鼻の先にまで迫っていているのを把握した。


 身体が強張る。反射的に逃げ出しそうになる。でも、脚は動かない。羽音が、他の何もかもを掻き消すくらい爆音で聞こえる。


 駄目だ、当たってしまう。


「ぃよいしょっと」


 蜂が私の顔に激突する、その寸前で。突如として何かに弾かれる。

 緊張が解け、体が動くようになる。慌てて見回すも、既に巨大な蜂はおらず、通常サイズの蜂がどこかへ飛び去って行った。


「大丈夫か?」

「あ、うん……ありがとう」


 上着を使って助けてくれたその人は奇しくも、私が中学生の時にハエを叩き落とした男子と、同一人物。

 高校ではそれほど仲は良くないけれど別に悪くもない、同じ中学校出身の知り合い、程度の相手だ。


 はたいて上着を着なおし歩き出した彼に、少しだけ距離を開けて付いていく。

 周囲の人たちが目に入らなくなる。彼以外の人間を、知覚しなくなってしまう。

 なんとなく。特に何を言うでもなく、交わすでもない時間が過ぎる。どうして、とこちらから切り出すことは雰囲気的にも、自分の度胸的にも叶わなかった。


「お前、アリスだろ」

「え」


「アリス症候群。不思議の国の、な」


 ごく自然に、当然であるかのように、彼は私の状態を言い当ててみせる。虚像の怪物を幻視する、物語の名を冠した精神疾患を。

 虚を突かれ、うん、とも返すことも出来ないでいる私の様子から確信したのか、それとも元々何かでわかっていたのか、彼は一人で小さく頷いた。それはどちらかというと、納得する方。


「俺も、そうなんだ。たまに、色んなものが小さく見える」


 ちょっと皮肉っぽく笑いながら、彼はそう零した。

 だから、有り得ない光景を前にした驚き、それを目の当たりにしているときの感じがわかった、だから放っておけなかった、とも。


 そっか、とだけ。私は辛うじて返す。

 本当はもっと多くの言葉を投げかけたかったけれど。常に周囲を警戒していなければいけなかったが故に、コミュニケーションを二の次に置いてきたこれまでが邪魔をする。


 初めてだった。内容は違えど同じ困難を、近しい世界を共に有している人に、実際に出会ったのは。


「……私は、小さい生き物が、たまにすごく大きく、見える」

「マジか、それは……きっついな。だったら、さっきのは」

「小学生くらいの大きさ、に、見えてた」


 だから、本当に助かった。小声で付け足したが、ちゃんと聞こえたようだ。

 遠巻きに目にする程度なら、また見えたよ、くらいで済む。けれど、ぶつかってきたりこっちに目を向けてくるタイプは本当に対処に困る。やはり大きいと偽物だとわかっていても腰が引けるし、何より大きく見えているときに本体の座標が把握できない。


 でも、それくらいの今回の不幸も霞むくらい、この邂逅は嬉しいものだった。

 別に愚痴りたいわけでも、自分の境遇、症状を話し合いたいわけでもない。ただ、同じように生きている人がいるという事実確認、改めての現状把握。それらができただけで、もう既に大分楽になる。

 普段嫌になるほど気になる人の眼も、今は少しばかりも意識に挙がらなくなっている。なんだろう、これ。


 学校に着くまで、それまで連続で出ていた症状は嘘のように鳴りを潜めていた。


「俺、こっちだから。またな」

「うん、それじゃ。また」


 昇降口を過ぎ、階段を上がったところで、私たちは当たり前のように別れる。


 正直、何一つ解決されたことはないけど。


 今日も、ちゃんと生きていける気がした。



 これからを。希望を持って歩いていけると、思った。






「おはよう」

「おー。おはよー」


 自分のクラスに入り、いつもより大きめに、元気も良く。挨拶を飛ばす。

 でも、想定していたより、反応してくれる人は少なかった。

 決して無視されているとか、わざと返されなかったとか、他に何か注目されるようなことが起こっているからとか、そういうわけではない。ただ。


「あれ? 今日はなんというか……」

「そうなんだよー。みんな妙に遅いんだよね」


 単純に、人数が少なかった。


 精々が何やら話をしている二人の男子と、前後の席でスマートフォンを弄っている女子二人、本を読んでいた女子一人、だけ。

 通常時の朝の時間、始業まで四、五分といったところで、まだ数人。本来は少なくとも三分の一以上、十五人くらいはいるはずなのに。

 更に、大抵の場合に教室に一番乗りして勉強している人、部活の朝練上がりで教室で寝ている人等、普段いるはずの人たちがことごとくいない。

 朝会もない、他の行事も、校内放送もない。


 では、何故。


「ん? なんだあれ」


 一先ず席に着き荷物を下ろすと、一人の男子が教室の前方の扉を指す。

 片側を開け放たれているスライド式の扉、その向こうには。


 私がいつか見た、それ以降も度々遭遇してきた、巨大な蚊が。


 音も無く。廊下にその六本の脚で以って、立っていた。


 ああ、またか。そう思い、一時間目の準備を始めようとして。違和感に、疑問に、動きをぴたりと止める。



 どうして。



「なんだこいつ、めっちゃでかいじゃん。生物の教材かなにか?」


 教室中、の。私を含めて、全員が。その姿を認識している。


 おかしい。どう考えても説明がつかない。不思議の国のアリス症候群に罹っている私ならまだしも、他の人にもあれが見えている。それぞれが、立ち上がってスマートフォンのカメラを起動させたり、嫌そうにしたり、反応を示している。


 もう一人の男子生徒が興味を示し、その蚊かと推測できる非常に大きな何かに、軽い足取りで近付いていって。これもまた、何の躊躇いもなく手を伸ばし。


 その胸を、さくりと。貫かれる。


「え……は?」


 蚊の口吻、その鋭く尖っている形状は、人間の肌を容易に穿つ為にある、とはいえ。それはあまりにもすんなり。男子生徒の服を、皮膚を、内臓を、筋肉を。全て貫通し、背中から飛び出していた。


 時間が、止まる。正確には、誰もが眼前の出来事を脳内で上手く処理出来なくなり、思考回路が一時的に、止まった。


 これまで成立していた、世界が。


 乾いた音を立てて、その根底から、崩れていく。


 誰も、何も言わなかった、言えなかった。動かなかった、動けなかった。考えたくなかった。


「――ぁ」


 手に持っていたスマートフォンでそれを写真に収めるべく、教卓の傍で目の高さで構えていた女子の一人が、絶句しながら脚を震わせ、尻もちをつく。

 その手から滑り落ちた携帯機器が床に落ち、かつん、という音を響かせる。

 悲鳴は上がらない。そう、人間は本当に驚いたとき、恐怖を目の当たりにしたとき。声など、出はしない。


「逃げろ!」

「!」


 静寂を破ったのは、廊下の奥の方から聞こえてきた誰かの叫び。

 外部からの刺激を受けて、皆が我を取り戻す。時間が再び正常に、いや、これまで以上の速さで、流れ出す。

 存外にもゆっくりと、蚊が扉に胴体を潜らせる。その大きさ故だろうが、人間一人を串刺しにしたまま、持ち上げながら歩んでくる六本脚の異形は、恐怖を無差別に振り撒く化け物以外の何物でもない。


 どうする。


 逃げるか。逃げるとしたらどこへ。どうやって。徒歩でか。でも、刺されているあの男子はどうする。見捨てるのか。あの傷、具合では助からないのでは。助けるとして手段は。策があるわけでもないのに。あの類の巨大な怪物に、一度でも対抗を考えたことがあったか。あるわけがない。無理だ。助けられない。そもそも、私が助けられる側である理由も根拠もありはしない。


 蚊は、どうやらそのままでは血が吸えないことに気が付いたらしく、頭部を前後に揺らす。しかし、返しがついた口吻は容易く抜けず、刺されている男子生徒が苦悶の声を漏らすだけである。


「ひっ、ひいいいいいっ!」


 先ほどまで会話をしていた相手が無残な姿になった様を間近で目撃した男子生徒が、椅子や机を蹴散らしながら、必死の形相で教室の後方の扉に向かって走り出す。


「やばくね? これ」


 スマートフォンをまだ構えていた女子は、冷静なのか何なのか、迫ってきている蚊の写真を一枚撮ると、近くに転んでいる女子を一瞥することもなく逃げ出した。

 近くに座っていた女子の方に振り向くと、目が合う。私は真っ青になって震えている彼女の手を取り、殆ど同時に出て行った二人の生徒を追う形で、その場を後にする。

 扉から出る直前、一瞬だけ、教室内部に視線を移す。


「や、いや、だぁ……」


 どうやら腰を抜かして立てないらしい女子は、止め処なく溢れる涙を拭うこともなく、僅かずつ後ずさりながら、眼前に迫っている蚊を、引きつった歪な笑顔で見つめていた。

 蚊に胸を貫かれ宙に持ち上げられている男子は、こちらに虚ろな目を投げかけ、何かを言おうと口を開く。しかしもう声は出ず、どす黒い血液を咳き込むように吐き出すだけだった。


 ごめんなさい。私には、どうすることもできない。

 言葉に出さず謝りながら、進行方向に向き直る。私たちの他にもちらほらと、当ても無く廊下を駆けている人が見受けられる。でも、何事かと教室から顔を出すだけに留まっている人たちもいる。説明している時間も余裕もない、察してくれるよう祈るだけだ。


 とりあえず、しっかり施錠できるような場所を目指さなくては。

 ぱっと思いつくのは視聴覚室や図書室、各種倉庫や準備室あたりか。


 一番近い通路である渡り廊下に足を踏み入れようとするも、ちょうどそこの角から飛び出してきた女子生徒にぶつかりそうになる。


「こっ、こっちは駄目!」


 鬼気迫る表情からは、その言葉が本当であることを読み取れた。

 急いで渡り廊下から離れ、三人で別の道、別の到達点を模索する。


「階段、は」


 どうか。速度を落として覗き込み、そして直後に後悔する。


 赤色がそこらじゅうに撒き散らされた、下への階段。そこでは、同じく血に染まった巨大な百足が、腹部で千切れた生徒の上半身を貪り喰らっていた。


 思わず足が竦む。血の気が引いて、眩暈がした。生臭い匂いに、骨を砕く太い音に殴られる。現実感を叩きつけられる。



 なんで。



 どうして、こんなことに。


 許容量を優に超えるいきなりの理不尽に、笑いが零れ、怒りが募り、涙が込み上げ、全てを投げ出したい衝動に駆られる。


「ちょ、ちょっと?」


 完全に足を止めてしまった私の顔を、先程合流した女子生徒が窺う。

 私は今、どんな顔をしているのだろう。

 食べていたモノを呑み込み、次にと、こちらを捕捉したように見える百足を前にしている私は。


 死を。絶望を前にしている私は。


「おい、大丈夫か!」

「あ……」


 想定外の方向からまた声を掛けられ、離れかけていた意識が戻る。


「走れ! 後ろ、来てる!」


 弾かれたようにまた、脚が動き出す。

 立ち止まっていた私たちを煽ってくれたのは、朝、一緒に通学路を歩いた男子。行く先が決まっているのか、先導してくれるようだ。

 気付くと後方、渡り廊下の方からは、人間大の多数の蟻が押し寄せてきている。


 悪夢。そうだ、そうに違いない。


 頑丈な扉があるため、比較的安全であると考えられる視聴覚室に逃げ込むまでの行程は、最早おぼろげだった。

 もう、走れない。肉体的にはそれほど体力が削れたわけではなくとも、精神的に限界だ。行動するだけの活力が底をついている。

 項垂れて、冷たい床に座り込む。身体の熱が引いていっても、頭は痛みを伴った熱を帯びたまま。


 視聴覚室にいるのは、たった十人程度。他の人たちは無事なのか、それとも。

 道理で、教室に人が全然いなかったわけだ。そもそも学校に無事に辿りつける総数が少なかったのだから、当たり前のことだった。


 沈黙がその場を包み込む。これから私たちは、どうなるのだろうか。そんな不安が、全員の胸の内を席巻しているのだろう。無理もない、誰がこんな事態を予想できるというのか。

 あまりの展開に、頭が追い付かない。窓の向こう側を、ぼんやりと眺めてみる。

 分厚いカーテンの隙間から見える外の世界は、大きくなった虫、鳥が自由に飛び、這い回り、まるで地獄絵図のよう。


 ああ。



 一体、いつから。






 私たちが。「アリス」になってしまったのは。いつから、だったのだろうか。







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虚像の国のアリス 菱河一色 @calsium1

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