第2話 私が「アリス」だと知ったのは。


 私が「アリス」だと知ったのは、中学二年の夏休みのことだった。


 最初に途轍も無い大きさの蚊に遭遇した後も、私は度々、明らかに常識を逸脱しているサイズの生物に出会っていた。

 回数は両手に収まらないくらい沢山。その中でも、特に印象に残っているものは数個。



 小学校に登校する途中の通学路で、車より大きなバッタを目にしたことがある。


 驚きはしたものの、それほど近くなく、そこまで危険だとは思わなかった、のだと思う。なので気にはしたし凝視もしたけれど、結局無視して学校に向かった。

 前例、蚊の件を思い出してしまい、その日は一日中授業に集中できず、大いにびくびく警戒しながら帰り道を歩いたものだ。

 しかし幸いなことに、巨大なバッタは蚊の時と同じく、もう出てこなかった。後日その噂を聞くことも無かったので、きっと気のせいだったのだ、と自分に言い聞かせたことを覚えている。



 近所の公園を自転車で通り掛かったときに、遊具より大きな烏が広場に降り立つのを目撃した。


 優に車を鷲掴み出来るだろう程の脚、そこらの樹を薙ぎ倒せそうな力強い翼、人間など軽く噛み砕いてしまいそうな嘴。何より、そちらに気を遣った私を素早く捉えた、黒くて濁った、二つの眼。

 久々に、恐ろしいという感情が全力で表出した。距離はバッタのときと然程変わりはしないが、今回の相手は蚊の時と同じく、こちらを把握している。

 ハンドルを握る腕が、ペダルを踏む脚が、突如として私の意識下から消えてしまう。蛇に睨まれた蛙のように固まった感じがする。特大の心音を背に、私が私の身体を見失った。


 気付けば、カラスを見かけた公園からかなり離れた道を走っていた。それまでの記憶はあまりない。ただ、とても長い間、その大きな烏と目を合わせていたことくらい、しか。



 学校で掃除の時間中に、机より大きなハエが教室に入ってきたこともあった。


 理科の教科書で見たことのある複眼を、素で気色が悪いその姿を、改めてしっかり観察することができてしまった私は強烈な吐き気に襲われた。

 そこで初めて気付いたのは、他の人たちの反応からして、ハエがハエにあるまじき姿で見えているのは恐らく自分一人だけだということ。最初の蚊のときを思い返せば何となく察することはできたかもしれないけれど、はっきりと認識したのはそれが初めてだった。

 更に、クラスの男子がそのハエを叩き落とし、ティッシュで包んで捨てたとき。見えているものと、実際にあるものとの間に確かな乖離があることも、知った。




「あー、不思議の国のアリス症候群、だね」


 冗談かと思った。


 目も耳も疑った。でも、ちゃんとある病気、らしい。

 原因は不明。症状は主に、外界が歪んでいるように感じられる変視症、小さく感じられる小視症、そして今回の私に当て嵌まる、大きく感じられる大視症。これらに対象や位置の条件が加わるため、個人個人のバリエーションは実に多種多様で、中には時間の感覚にも作用する例すらあるとか。

 空中を浮遊する感覚や、現実感の喪失、離人症などもよく表れるそうで、私の場合は浮遊感が該当した。

 一過性のものがほとんどなので心配は要らない、はずだったけれど。よく考えなくとも約八年以上も症状が出続けている私のそれは一過性ではない。


 とりあえず抗精神病薬を処方してもらい、経過をみるということに落ち着いた。恒常的に症状が現れる人は大体偏頭痛を持っているらしかったけれど、私は持っていなかったし。


「最近、妙に多いんだよね。いつまでもこれが続く人。昔はまともな報告もあまりなかったっていうのに」


 効果的な治療法は見つかっていない、でも実害があるわけでもないので、これ以上することはないということで、診察は終わりになった。


 治し方とか、具体的な対処法を手に入れたわけではなかった。それでも帰り道、私の心は少し楽になっていた。

 私と同じような世界を見ている人が、他にもいる。それも、想像していたよりもずっと多く。


 それだけで、最悪な環境にあっても、少し救われたような気がしたのだ。



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