虚像の国のアリス

菱河一色

第1話 私が「アリス」になったのは。


 私が「アリス」になったのは、小学校に上がる前の春休み、だった。


 記憶の限りでは、昼過ぎ、少し近所のスーパーの駐車場で。

 母親の後を追って車から降りた次の瞬間、突然。私の視界は『それ』に占領された。

 細く長い六本の脚。丸い頭、鋭く尖った口吻、超高速で羽ばたく二枚の翅。全体的に白と黒で構成された、節ばった体躯を持つそれは。


 所謂、


 本来は十mm前後程の大きさくらいでしかないはずのその生物が。

 推定、一メートル半。一般的な普通自動車の車高と同じくらいの巨大な姿をもって、すぐ傍に浮かんでいたのである。


「――――っ」


 身体が、浮き上がる。ぞわり、と。全身に鳥肌が立った。と同時に周囲の雑音は消え、世界は色褪せた。

 人間、本当に驚いたときや恐ろしいと感じた際には、決して声など出はしないということを、私はそのとき身を持って実感した。


 蚊の姿形自体は知っていた。いつも夏になると腕や脚に張り付き血を吸い、痒くさせる害虫と呼ぶべき存在。軽く掌で叩けばその腹に溜め込んだ血をぶちまけて絶命し、蚊取り線香等を点けておけばそこらに勝手に転がっている、それほどに脆弱な生き物。そういう風に、知っていた。


 しかし。

 目の前で力強く飛んでいるそれは。蚊によく似た外見の巨大な何かは。

 とても、そんな風には見えない。そんな弱々しいものには、断じて見えない。

 その脚は、伸ばせば両親の身長など軽く凌駕するだろう。その口は、柔い人間の肌など簡単に刺し貫いてしまうだろう。その翅は、多少どころかかなりの風を受けてもびくともしない飛行を可能にするだろう。そして、視た者全員に底なしの嫌悪感と、確実な生命の危機を覚えさせるだろう。


 幼かった私は、全くと言っていいほど動けなかった。声も出せない、息をすることすら忘れていた可能性まである。

 ただ単に驚愕のために硬直してしまっただけ、なのかもしれない。でも今思えば、この脅威はどうしようもないと、錆びついている生物としての本能が告げていたのかもしれない。

 全身の力は抜け、口角が少しだけ上がる。

 呆けて全てを投げ出し、大きな大きな蚊を前に動かなくなった私に。


「何してるの、ほら行くよ」


 声を掛けたのは、母親。反射的に半身になって振り返る。

 首を回転させ、後ろを向いた瞬間、蚊から目を離した瞬間、そいつを視界の補足から解き放った瞬間。背筋が凍りつく、と形容するに相応しいだろう感覚に襲われた。

 駄目だよ、声を出しちゃったら。刺激しちゃったら。膠着していた空気を打ち砕いてしまったら。少しでも抵抗してしまったら。

 すぐそこにいる、あいつに。


「……ぇ?」


 やられてしまう。そう、確信していたのだけれど。

 再び、先程成人並みの馬鹿みたいに大きな蚊が佇んでいた方へ眼を遣る、でも。


 そこには、もう何も居なかった。


 まるで、元からそんな生物は存在していなかったのかと錯覚するほどに呆気なく、味気なく、跡も残さず。それは何時の間にか、忽然と消え去っていた。



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