ep.12◇停滞を破る時
屋根裏部屋へ行く許可をもらった時、私はそれを喜んだ。これでアルテと会える頻度が増えるのだと。
けれどその後も特に、状況が動くことはなかった。
屋根裏部屋は元々物置だ。ケイシーさんの部屋とは違う。人が住む想定をされていないせいか、居心地はよくない。
室温はほとんど外と変わらないし、便利な設備があるわけでもない。そのためアルテも、普段は寝るために帰ってくるだけなのだと言っていた。だからか昼間にそこを訪ねても、無人のことの方が多かった。
いくら会いたくても、できる範囲で改善できないかともがいても、ことごとく空回る。そのたびに拒絶されていないかと気になって、アルテの反応をうかがうように試しては、返ってきたものにほっとする。その繰り返し。
そうやって大した変化のない日常を送りながら、どれくらい経った頃だろう。
──明るい時間に顔を見るのは、とても久しぶりのような気がした。
下の方で扉が開く音がする。今までめくっていた本を閉じて階段に向かい、下を覗くと、雨でびしょ濡れになったアルテが帰ってきたところだった。ぽたぽたと髪の先から雫を垂らしてうつむいている。私の足音に気づいたのか、一拍置いて彼が顔をあげる。
近頃は夜へと変えた吸血の間くらいしか、アルテには会えなくなった。彼の手が治るにつれ、日中は帰ってこない頻度が増えていったから。諸事情でお金が必要になったのだと、いつか聞いた。
今では昼に彼に会おうと屋根裏部屋に来ても、ほとんどは空振りだ。彼がいつもどこに行っているのかを、私はよく知らない。
濡れたまま立っているアルテにハンカチを差し出すと、彼は少し居心地悪そうにしながらもお礼を口にする。そんなことにいちいち嬉しくなりながら、ずっとこの時間が続けばいいのにと、何度目かも分からない願いをまた抱いた。
「ケイシー、さん」
何を話していたのだろう。
アルテが久しぶりに部屋に来て、流れで食事を終えてから。アルテが帰ってすぐに、ケイシーさんが後を追っていった。話があるとの事だった。
もやもやとしたものが、また胸の内に湧き上がってきて溜まっていく。以前まではアルテに会えば無くなっていたそれは、最近では日に日に大きくなっていくばかりで。
この感情は、何なのだろう。どうしたら消えてくれるのか。
「ケイシーさん」
アルテを見送って戻ってきたケイシーさんに声をかける。何かを考えるような表情をしていた彼女は、私に気づくと顔を上げた。
この人になら、何か分かるのだろうか。
際限なく膨らむ感情が、私をやみくもに急き立ててくる。理由も根拠も曖昧なのに、このままだと取り返しのつかないことになりそうな、そんな予感がした。
なのに、もうずっと思考がぐちゃぐちゃだ。何かを考えようとしてもうまくいかないし、自分ではどうすればいいのかも分からない。
誰かに助けて欲しかった。
「こっちもそろそろ潮時かな」
ぼそりと呟かれた彼女の言葉が、何を意味するのか分からなかった。
──パンッ、と大きな音がした。
思わず一瞬身体が固まる。何度か瞬きしながら視線を下げると、ケイシーさんが胸の前で両手を合わせているのが見えた。
……手を、叩いたのだろうか。
ぼんやりとした理解を得ながら、ケイシーさんの手と顔を、ゆっくりと見比べる。それを何度か繰り返していると、次に目が合った時、ケイシーさんがにっこりと笑った。
「ちょい落ち着こっか」
「あ……」
そのいつもの笑顔を見て、知らず肩に入っていた力がだんだん抜けていく。
促されるままに何度か深呼吸をすると、長らく混沌としていた心の中も、少しずつ凪いでいって。
「で、どしたん?」
ケイシーさんにそう問われる頃には、すっかりと心は落ち着いていた。
言われるままに口を開こうとして、躊躇う。うまく言葉が見つからないのだ。自分でも理解していないことを、人に説明するのは難しい。
うろうろと視線をさ迷わせて、考えがまとまらないままに、ぽつりぽつりと口にする。ずいぶん前から抱えている違和感を。不安と、焦燥と、嫌な予感を。
それを聞いたケイシーさんは、ふむ、と呟いて、少しの間考えるように押し黙っていた。
「ティアちゃん、ここ……イースト区に来てからのことって、初めから全部覚えとる?」
「……断片的に、なら」
「あーそうね、印象に残ってるとこだけでも十分か」
それがいったいどうしたのだろう。首を傾げると、ケイシーさんは言った。
「一回全部、順を追って思い出してみ。ティアちゃんの欲しい答えは、きっと記憶のどこかにあるよ」
それは、どういうこと? そう聞こうとした。けれど、聞けなかった。
すっと目を細めた彼女の顔から、突然一切の表情がかき消えたから。
「注意事項があります。心して聞くように」
普段とかけ離れた淡々とした声音が辺りに響く。
いつもの笑みを含んだ柔らかな目は影もない。代わりに向けられたのは、心の奥底まで見透かすような、
まっすぐに合わされたその視線に囚われて、気づけば意識が逸らせなくなっていた。
「漫然と出来事をなぞるだけでは無意味だ。常に課題を意識し、自問しながら臨むこと。加えて以下のことに留意して、できるだけ客観的な観点から記憶を辿ること」
無機質な口調は、何かの書類を読み上げるかのように事務的だった。なのにそれに違和感を覚えるよりも先に、言葉がするりと脳に焼きつく。
「いち、刺激のない停滞した日々は、思考と感性を鈍らせる。に、閉じられた狭い人間関係の中では、認知が歪みやすい。さん、人の意思は本来脆く、欲に流されやすい。以上」
そこで一つ息をついた彼女は、ゆっくりと瞬きをしてから、再び私を見た。
「そして最後に、君自身が今後どこに向かいたいのかを、はっきりと決めること」
パン、と再び手を叩く音が聞こえて、ふっと周りの空気が緩んだ。緊張がとけるとともに、静止していた時間が動き出す。
目の前に居るケイシーさんは、気づけば胸の前で両手を合わせながら、馴染みのある笑みを浮かべていた。
「明日なら手伝ったげる。難しいかもしれんけど、いったん自分でいけるとこまで考えてみなね」
あまりにも極端な変化に、全く頭が追いつかなかった。
呆然としたままの私が我に返る暇もなく、「じゃ、おやすみ」とにこやかに告げて、ケイシーさんは部屋を出ていった。
◇
それからずっと、これまでのことを考えている。
窓から見た月は少し欠けていた。半月と満月の中間くらいの月だ。
廃墟の中でアルテと対峙したあの夜から、もうすぐひと月ほど経つらしい。月齢から日の経過を見る習慣は、古城から出てもいまだ抜けないままだ。
部屋の隅にある振り子時計を見ると、いつの間にかだいぶ時間が経っている。今日はアルテと約束をしているから、そろそろ屋根裏部屋に行かないといけない、のだけど。
そう思うとこれまでの日々が重く沈んで、ひどい罪悪感がわいてくる。
ずっと、ずっと考えていた。ケイシーさんと別れたあの後から、ずっと。
少し前まで完全に滞っていた思考は、彼女と話してから明瞭になった。だからこれまでの日々を思い起こすのも、それを客観的に分析するのも、思っていたほど難しくはなかった。
けれどそうしてたどり着いた事実は、これまで私が肌で感じていたものとは程遠かった。
――穏やかで平和な日々だった。
私はここでの生活が、嫌いではなかった。
集合住宅の二階から見える景色は、これまで見てきたどの場所とも違うものだ。そもそもこの街のように人が多く、建物が高く、発展している場所に住むのは初めてだった。私の故郷はここよりずっと小さかったから。
周囲の建物も軒並み階層が高いせいか、二階から見える空は狭い。裏通りに面してるから辺りの人通りは少なくて、窓を開けると遠くの方で人のざわめく音がした。ときおりどこからか聞こえる鐘の音は、街の中央付近にある時計塔によるものだと、いつかアルテに教えてもらった。
ことあるごとに周辺の危険性を説かれたけれど、この部屋の中はいつも安全だった。
奴隷でいた頃のような脅威もなく、古城にいた頃のように呪いに怯えることもない日々。それはある意味で、私の理想形だったのかもしれない。長年胸に抱いていた夢の状況に似ていたから。
誰も傷つけず、誰からも傷つけられない、ただ平穏な日常が欲しい。そんなちっぽけな夢に。
だから、私がここまでアルテに執着することもなければ、この生活にも不満はなかったのだろう。
『あのさ、そろそろ毎日来んの、厳しくなってきたかも』
少し視線を逸らしながら、言いにくそうに告げてきたアルテの姿を思い出す。
私は彼と一緒に居られれば満足だった。だから本当は、その言葉を拒否したかった。
しかし生活がかかっていると聞けば、不満を言うわけにもいかない。聞き分けよく振舞って頷くと、アルテはどこかほっとしたような顔をする。それを見て、これでいいんだと思った。そう自分に言い聞かせた。
けれどその後から溜まりだした胸のもやもやは、ここから膨らみ続ける寂しさのせいだ。
今なら分かる。いつからか私の胸中に巣食っていた感情は、執着と不安と焦燥が、どろどろに混ざり合った何かだと。
おそらく私は、自分で思っている以上に、アルテに焦がれている。一緒に居られる時間が減ったくらいで、あれほど思考が濁るくらいに。
……これ以上離れ離れになるのが嫌で、彼の負う傷や痛みに、知らない振りを決め込むくらいに。
『どうせそのうち治るから、気にしなくていいよ』
赤い血の滲むアルテの腕が、脳裏にこびりついている。
私はあの時、彼の言葉を鵜呑みにした。以降は血を飲んでいない平時の時でさえ、一切疑問を持たなかった。そういうものなのだと思った。そう結論付けた方が都合がよかった。
その方が、アルテと会える時間が増えるから。
少し考えれば気づいたはずなのに。血を出すには傷をつける必要があって、人は怪我をすれば痛い。そんな当たり前の事実に。
初めの頃に、アルテを傷つけたくないと思っていたのはなんだったのだろう。
いつからか言い訳をしていた。血が必要だから。外に出られないから。アルテがいいと言ったから、と。どうせ私には彼の本心が分からないと理由をつけて、都合の悪いことは全部気のせいにしたかった。
嫌われるのが怖くて、拒絶されるのが怖くて。だからアルテに言われるがまま、意見を言う気は起きなかった。彼はあくまで優しかったから。寂しいことはあったけれど、傷つけられることはなくて、一緒にいると温かかったから。
私は自分の利益とアルテの犠牲を天秤にかけて、ただ自分が得な方を選んだだけだ。
どこでこんなに狂ってしまったのか分からない。
いや、その理由こそ、ケイシーさんに提示されたものなのかもしれない。
『刺激のない停滞した日々は、思考と感性を鈍らせる』
『閉じられた狭い人間関係の中では、認知が歪みやすい』
『人の意思は本来脆く、欲に流されやすい』
いつの間にか私の思考と感性が鈍り、認知が歪み、欲に流されたから、こういう結果になったのだろうか。そういう意味ではこの環境に身を浸した時点で、こうなることは決まっていたのか。
それとも、それさえ言い訳に過ぎなくて、私が私である限り、アルテを加害する事実は避けようのないことだったのだろうか。
暗く沈んだ部屋の中を、ぼんやりと見渡す。食事の時に煌々と光っていたランプは既に消え、今では月明かりだけが室内を照らしていた。
もう、アルテとの約束の時間だ。時計を見てそう思ったけれど、中々動く気になれなかった。
どうしたらいいか分からない。
これまで辿ってきた道は全て間違いだった。そう自覚してしまったら、自分の判断が信用できなくなった。
アルテを傷つけたくない。確かにそう思う。なのにこれまでの自分を考えると、そう思ったところで、最後まで貫き通せるのかも怪しくて。
私は、どうしたらいいのだろう。
もういっそ、誰か正解を教えて欲しい。そう思った時、ふとケイシーさんの言葉を思い出した。
『そして最後に、君自身が今後どこに向かいたいのかを、はっきりと決めること』
なんだかそれは、今の私への道標のような気がした。
へたった思考をどうにか立て直す。そのまま言われた言葉を噛み締めて、繰り返して、ゆっくりと目を閉じた。
目の前の選択肢に、どう対応したらいいのか分からない。けれど目指したい理想の景色なら、私でも思い描ける気がする。
その実現のために必要なことを逆算する形なら、今するべきことも、分かるのでないだろうか。
それなら私が向かいたい未来は、たったひとつだ。
「……決めた」
小さく呟いて、膝に掛けていたクロークを広げる。留め具代わりのブローチはそのままに、下から被るようにして何とか身に着けると、そのまま片手を後ろに伸ばしてフードも被った。
約束をしているから、屋根裏部屋には行く。けれど、血をもらうのはもうやめる。
この選択が正しいのかなんて分からない。けれど、言われるまま考えなしにアルテを傷つけ続けて、その傷から目をそらして、ようやく成り立つ平穏なんて欲しくないんだ。
この平凡な理想には、傷も遠慮も一つもない、ありのままのアルテが居て欲しい。なんの負い目も後ろめたさもなく、ただ素直に笑いたい。
そうじゃないと、私が嫌だ。
我が愛しの化け物へ 砂原樹 @nonben-darari
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