第2話 兄と僕

 その頃の僕は、もうすぐ卒業も見えてきているというのに、いや、もうすぐ卒業だからこそ、学校へ行くのが憂鬱だった。断っておくと、卒業することが寂しいだとか、中学校という場所に特別思い入れがあるとか、そういうことではない。

 クラスには、何かと火種をまき散らす煩いボス猿がいたし、そいつと離れられるのはむしろ有り難い。

 憂鬱の原因。それは単純に年明けに控えている受験にもあるが、実のところ、はっきりした理由は僕自身もわからなかった。ただ、その意味の分からない感情を持て余して、ほんの少し、いつもより苛立っていたかもしれない。

 それは、確実に兄にも伝わっていた。だから、気を遣わせてしまう。

 ある日、学校から帰って来て、僕はベランダで何をするでもなく、ぼんやりしていた。冷たい風が、少しは頭をすっきりさせてくれるのではないかという期待があったかもしれないが、何にもする気が起きなかっただけだ。

 そう、何もしなくても、時間は過ぎていく。このままもっと寒くなって冬になって、そして暖かくなって春になる。

 そうやって時間が過ぎるとともに、僕は、ちゃんと違う自分になれているだろうか。さなぎが自分の殻を脱ぎ捨てていくように。

 窓が開いたと思ったら、兄がやって来た。

「何やってんだ、こんなところで」

「別に何も……」

「寒くないのか」

「寒いよ」

 そうか、と、笑いながら、兄は手にしていた焼き芋の袋を掲げた。

「焼き芋、食べるか」

「うん」

 僕がそう返事をすると、兄は嬉しそうに笑って、隣に立った。そして、焼き芋を半分に割る。ふわりと湯気が立ち上り、甘い香りがしてくる。はい、と、兄はそれを僕に渡してきた。

小さなころから、毎年、この季節には繰り返されていること。変わらないこと。

僕はそれでほんの少しだけ、心の中でくすぶっていた謎の憂鬱が和らいだ気がした。何故だろうか。自分のことなのに、わからないことだらけだ。

 兄は、早速豪快に芋にかじりつき、満足そうにはふはふと噛みしめていた。そこで、ぴゅう、と、冷たい風が吹いて来る。ベランダから見える通りに植えられている銀杏の木は、もう黄色くなっている。

 兄はぽそりと呟いた。

「もう秋も終わりで、冬が来るな」

「うん」

 僕は焼き芋をすぐには食べずに、しばらく握ってその温かさを堪能していた。まだ、芯から冷えるような寒さではないけれど、この温もりは心地いい。長時間ベランダにいて、やっぱり体は冷えてきていたのだ。

 しばらくは、お互いに何も言わず、ただ車が通り過ぎていく音や、子供たちが遊んでいる声などに耳を傾けていた。

 いい加減に食べないと、芋も冷めてしまって美味しくなくなってしまう。僕はついに芋をかじった。口に広がるその味に、泣きそうになる。それもまた、何故だかわからないけれど。わからないから、必死に涙を堪える。兄には見られたくなかったし。

 ふいに、兄が口を開いた。

「なんか最近、ちょっと沈んでないか?」

「うん、そうかも」

「何かあった?」

「何があったわけでもないけど……なんかこう、意味もなく憂鬱」

 そう、この時僕は察した。兄に気を遣わせてしまっていたことと、それと同時に、兄の戸惑いを。

 その戸惑いの印として、兄は視線を彷徨わせた。

「正直な、ちょっと悩んだよ。放っておいてほしい場合もあるだろうし、それでも強引に踏み込んでいく方がいい場合もあるし、どうしたらいいかなって」

「何で、僕に僕との接し方を相談されているんだろう」

 つっけんどんなこの返事に、気まずそうに、兄は苦笑した。ますます兄を戸惑わせる結果になっただけだ。

 心のどこかでは申し訳ないと思っていても、なんとなくそれは口にはできない。ひねくれているな、と、自分でも思った。

「嫌なら、別にこれ以上聞かないけど」

「別に、嫌なわけじゃなくて、自分でもよくわからないんだ。秋だからかなぁ……なんとなく、寂しい感じがするし」

言っていて、僕は急に恥ずかしくなって俯いた。兄が覗きこむようにして、こちらを見て来る。

「どうした?」

 僕は、そろそろと兄の様子を窺いながら顔を上げた。別にからかっているわけではなさそうだ。

「……こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど、なんか、女の子みたいなことを言ったなって」

「え?」

 クラスの女の子たちの物言いに近い、僕はそう思ったのだ。それを馬鹿にしているクラスのボス猿の男のことを思い出す。

 密かに、僕はそんな彼を馬鹿にしていた。そんなことは男と女の脳味噌の違いだろうと。そのはずなのに。今の僕は、そいつと同じことを考えている。男っぽいだとか、女っぽいだとか、そんなくだらないことを。

「ほら、男は理屈で物を考えて、女は感情で物を考える、って言うだろう。今のは、男っぽい理屈の思考じゃなくて、女っぽい感情の思考だったなって」

「それよりも、もっとなんか違う言い方があるだろう。感受性が豊かだとか、詩的だとか」

「余計に恥ずかしいから!……でも、この焼き芋でちょっとモヤモヤしてたものが軽くなった」

「そうか?」

「うん。子供の頃から、こうしていつも分けてくれてただろう。だから、なんか安心した」

 僕はまた一口、芋をかじった。こうして、本心のかけらを喋ってしまったことの気まずさを、帳消しにはしてくれない。何故なら、兄はたったこれだけで、いろいろ察してしまうからだ。僕自身が気付いていないようなことも。

ふーん、と、つぶやきながら、彼は何かを納得したように頷いた。

「お前はさ……」

「何?」

「きっと、変わるのが怖いんだな。春が来たら、否応なしに新しい自分にならなきゃいけない」

 それは、まったく盲点を突かれた指摘だった。急に殴られて、目の前がチカチカするような衝撃にも似て。でも、すとん、と、自分の中で腑に落ちる。

 でも、本当に正確に言うならば、きっと、未来の自分が過去の自分を惜しむことが怖いのだと、焼き芋と一緒に、すっと飲み込めた。

「そっか……そうなんだ」

 ぽそりとつぶやく僕に、兄は呆れたように言う。

「なんか、他人事みたいな言い方だな」

「だって、変わってしまった未来の自分なんて、今の僕には計り知れない他人だろう」

「まあ、そうだな……俺だって、怖いっていうか、寂しいっていうか、悲しいよ」

「何が」

 兄は急にぐしゃぐしゃと僕の頭を撫で始めた。小さな子供の頃はよくあったことだけれど、最近はもうこんなことなかったのに。

「だってさ、小さくて可愛かった弟が、なんだかどんどん知らない生き物になってくんだもんなぁ。だから、お前が変わることが、寂しいし悲しいし怖い」

 僕は乱暴に頭の上の兄の手を押しのけた。正直に言うと、なんだか心の隅っこの方がくすぐったくて、どうしていいかわからなかったのだ。

 そんなことを言ったら、ますます子供扱いされるだろうから、絶対に言わないけれど。だから、代わりに僕はこう言った。

「言ってることがおっさんくさい」

「酷いなぁ、まだそんな歳じゃないのに」

 さなぎは殻を脱ぎ捨てたら何になるのだろう。ちゃんと、どこかへ飛んで行けるだろうか。

 どこか、自分が行くべき場所を見つけて。


 そんな兄は、そのあとすぐに仕事で海外に転勤になり、年に一回会うかどうか、という、急に離れた関係になってしまった。そういえば、それからというもの、僕は焼き芋を食べていなかったかもしれない。

 兄が分けてくれなければ、自分から進んで食べることもないのだ。

 だから、焼き芋が連れてくる、懐かしくて泣きたくなるあの感覚を、ずっと長いこと忘れていて、僕の中に蘇ってくることもなかった。

 兄のことも変わらず好きだけれど、もう会えなくて寂しい、というほど僕も子供じゃない。それとも、寂しがるのも馬鹿馬鹿しいくらい、兄はしょっちゅう電話をしてきていたからだろうか。

 日本語が恋しくなったから話したい、なんて言っていたけれど、そんなに電話をする相手が弟というのは、虚しくはならないのだろうか。

 そうか、それならば、先ほどの発言を訂正した方がいいかもしれない。確かに、僕と兄は会わなくはなったけれど、それでも決して遠い関係ではなかったかもしれない。


 そして、今。あれから三度目の秋。

もうすぐ、僕は春になれば高校を卒業する。そして兄は、海外赴任を終え帰国する。僕も兄も、また否応なしに新しい自分にならなければいけない。

冬になる前のある日、兄は本格的に帰国する前に、一度帰って来たのだ。三年前のあの日と同じように、焼き芋を持って。

「やっぱりさ、秋に日本に帰って来たなら、これ食べなきゃなぁ」

「べつに、日本じゃなくてもありそうだけど」

 僕がわざと冷たくそう言うと、兄は不満そうに、ふるふると首を横に振った。

「そうじゃなくて……」袋から芋を取り出して、半分に割って僕に渡してきた。「ほら、こうするのが、秋って感じだろう」

 湯気に乗ってくる、この匂い。僕の中に、急に込み上げてくる。あの感覚が。

「あ……ありがとう」

 僕は、おずおずとそれを受け取った。三年ぶりの、焼き芋。あの時話したこと。それが、まざまざと蘇ってくる。

 やっぱり、僕はどこか変わったかもしれない。何が、と言われれば困るけれど、この焼き芋の匂いに感じる安心感が、あの時とは何か違うのを感じていた。

 変わらないものが、僕を慰めてくれるんじゃない。単純に、嬉しい。こうして、兄がまた焼き芋をくれることが。

 当たり前じゃなくなったから、なのか。

 やっぱり、そんなことは言ったりはしないけれど。

 かじると、思ったより熱くて、はふはふと口の中を火傷しないように四苦八苦していたら、兄がそれを見て笑っている。僕も誤魔化すように笑った。

「ずっと食べてなかったから、すっかり忘れてたけど……僕はさ、焼き芋を食べてこの匂いを嗅ぐと、なんかすごく懐かしい気持ちになるんだ。いつも、いつも。兄ちゃんは、何かそういうものある?」

「そうだなぁ……食べ物じゃないけど……たとえば、風呂に入ってる時に、たまに頭まで潜ってみたりするだろう、その時に……」

「何、そんな子供みたいなことしてるの?」

 ずっと先を歩いている大人だと思っていた兄が、急に子供っぽく見えた。僕のそんな指摘に拗ねるところも。

「うるさいなぁ。……水を通して見える、揺れていてい歪んでいる景色に、光がキラキラと反射しているのが目に映ること……それが、お前が生まれる前の、もっと小さかった頃の自分の記憶を蘇らせてくれるものかな」

「僕が、いなかった頃の……」

 兄は頷いた。僕がいなかった頃の、僕の知らない小さな兄。写真を見たことが無くはないけれど、それでもピンと来なくて、ちゃんと考えられなかった。でも、今なら想像できそうだ。

「不思議なんだ。その頃のことを思い出したいと思っているわけじゃないけど、それでふっと頭の中に湧きあがってくると、それがなぜかとても大切なものに思えてくる」

「どんな思い出なの?」

 兄は焼き芋の皮をむいて、一口食べて、それを飲み込んだ。

「プールで溺れかかった話だよ。五歳の頃だったかな。その頃のことなんて、もうほとんど覚えてなんていないのに、手足を水に捉われたみたいに、どんなにもがいてもまとわりついて来て逃げられなくて、苦しくて……でもね、近くにいた知らない人が、水面まで引き上げて助けてくれた、そのことだけははっきり思い出せるんだ」

「そりゃあ、死にかかったんだから、それだけ強烈だったんだよね」

「まあ、それもそうかもしれないけど……蘇ってくる記憶って、その苦しかった記憶じゃなくて、ちゃんと肺に空気が入ってくる安心感と、生きている実感と、俺の命を奪うところだったプールの水がやけにキラキラ光って見えたこと。それを思い出すと、ああ、俺は生きているんだなって……」

 僕は、手のひらの温かさと同時に、吸い込む空気の冷たさを感じていた。生きている感触を確かめるように。

「そんな話、初めて聞いたな」

「格好悪いから話さないようにしてたしな」

「格好つけたいの?」

「そりゃあ、弟にとって格好いいお兄ちゃんでいたいだろう」

「その時点でダサい」

「えっ……」

 明らかに傷ついた顔をしていた兄を、素知らぬふりで僕は芋を食べた。

僕にとって兄は、憧れのお兄ちゃんであったことは一度もない。でも、兄はそういう人でいたかったのだろうか。そうじゃないのに。それが全てじゃないのに。

兄にこうして焼き芋をもらうと、僕は呼吸が楽になる。いや、物理的には喉が詰まるかもしれないが、この温かさと優しい香りに、心の荷物を一つ二つと下せるように。

 だから、こう思うだけでは駄目なのか。

「でも、無事に今も僕の兄でいてくれてよかったよ」

「あははは……」

 笑い声は力ない。そのまま、兄はがくりと肩を落とした。そんな兄の姿を見ていると、兄が僕のことをどう思っているのか。それが急に気になった。もしかすると、今度は僕の方が肩を落とす番になるかもしれない。

 でも、僕はずるい。どこかで答えをちゃんとわかっていたから。

「逆に……僕のことを、面倒くさいとか、邪魔だとか思ったことはない?」

「ないよ」兄はずいぶんとあっさり答える。ほら、やっぱり。「そうじゃなきゃ、焼き芋をやらん」

「いや、それはなんていうか、ただのケチな人じゃん」

 格好いいお兄ちゃんでいたい、というさっきの発言は空耳だったのだろうか。僕は一気に気が抜けてしまった。

 兄は不満そうに焼き芋を指さしながら主張する。

「焼き芋なら半分こにできるけど、出来ないものだってあるんだよ」

「その時、兄ちゃんはどうする?」

「どうだろうなぁ……でも、お前は訊かなくたって答えをわかっているくせに」

「そうだね」

 僕は、もそもそと焼き芋をまた頬張る。そんな僕の頭を、またぐしゃぐしゃと兄は撫でる。あの時と同じように。昔のように。

 そして、ちょっとだけ困ったように笑うのだ。

「ずるい奴だなぁ」

「そうだよ。だって、弟だから」

 ずるい自分を許してくれるから。

 五年、十年経って、もうそんなずるい自分が許されるような歳でもなくなった時に、また焼き芋を食べて、僕の中に静かに眠っている記憶が呼び起こされる日が来たら、その瞬間だけはまた、ずるい弟に戻らせてもらおう。

 甘くて、でも感傷的になって、どうしようもなく涙が出そうになるあの感覚は、きっと、兄も、僕のお兄ちゃんに戻るのだから。

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マドレーヌあるいは焼き芋 胡桃ゆず @yuzu_kurumi

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