マドレーヌあるいは焼き芋

胡桃ゆず

第1話 記憶

Quelle est votre madeleine? (あなたのマドレーヌは何ですか?)


記憶を呼び起こさせるものを人に尋ねる時に、フランス人はこういうふうに訊くそうだ。プルーストの『失われた時を求めて』の一節に由来するそうだが。

僕の場合は、熱々の焼き芋の湯気から運ばれる香りと、ほくほくまったりした味が記憶を引っ張ってくる。移り変わりの激しい秋の空の鰯雲や、少し冷たくなった風と合わせて。

それは、兄を思い起こさせるもの。

とはいえ、そんなお洒落な文句を引っ張り出してくるほどに大層な記憶ではない。スーパーで売っている焼き芋を半分こにして分け合っていた、それだけのことなのだが。

そんなものであっても、その焼き芋で、僕の中にじわりじわりと全身に染み渡るように巡ってくるものは、煌めくものを再び眺める時の、眩しく甘美だけれども、酷く感傷的な気持ちになるもの、という意味では、自分の中では大層なことなのかもしれない。

戻れない時間が、こんなにも人をくすぐることがあるのは、今の自分に対して不満があるからだろうか。

いや、そうじゃない。

じゃあ、あの時に戻りたいと思うか。そんな質問に対しては、きっぱりと首を横に振れる。兄にしたって、同じだろう。

別に、タイムマシンの開発なんて、これっぽっちも望んでいないし、万が一にも、やり直したい瞬間というのがあったとしても、もしも僕がその瞬間をやり直した場合、そうして時間を戻すことで、誰かがやり直して成功したことを台無しにしているのかもしれないし、僕がやり直したことを誰かに台無しにされてしまうことだってあるだろうから、結局何の意味もないのだ。

何よりも、そんなことをして過去を大事にしようものなら、ますます現在やその先の未来がへそを曲げるだろう。猫が機嫌を損ねるみたいに。時間は誇り高く、厳格で、正確無比であるからこそ、一方通行しか許さないし、酷く気難しいというふうに僕は思うから。

それでも、一つ、その焼き芋が引っ張り出す記憶で、僕がことさらに思い出す話をしよう。

とはいえ、それはほんの三年前の話だ。そんなに懐かしむほど遠い記憶ではないのだけれど、年月など関係ない。過ぎ去ってしまった時間は、二度と帰って来ない過ぎ去ってしまったものだ。


僕と兄は十も歳が離れていて、僕が小学校に上がる時には、兄はもう高校生だったのだから、歳の近い兄弟のようにじゃれ合うこともない。両親は一言だって、お兄ちゃんなんだから、と兄に言ったことはなかったはずなのに、いつだって小さきものを守ろうとするお兄ちゃんだったのだ。

それは、僕が生まれた時、初めて兄の指を握り締めたその瞬間、こんなに小さくて壊れそうなものは、大切にしなきゃ、そう思ったのだそうで。自分だって、その時まだ十歳の小さな子供だったくせに。

何かが『マドレーヌ』となって兄にその時の記憶を思い起こさせるようなことがあるかは知らない。そんなものが無くてもいつでも思い出す、と、きっと言うだろう。

元々、責任感が強く優しい気質もあったのだろうが、母が助かるほどに兄は僕の面倒を積極的に見てくれた。

それでも、成長していくにつれて、僕たちの関係はちょっとずつ変わっていく。僕が中学を卒業する頃になると、そこには、僕をまだ子供扱いするところはあったものの、同時に遠慮のようなものもあったように思う。いつも何か一歩引いているような。その頃になると、兄はもう二十五歳で、大人だったから、というのもあるだろうが、特に、十五歳の僕は、兄にとっては異星人になってしまったのだ。もう小さい子供ではないけれど、明らかに未熟で、勝手に傷つきやすい。あちこちに目に見えない爆弾を抱えていて、それがいつ投下されるかわからない。

ちょっとした怪物だ。

 僕に対して、どう接していいのかわからなくなっていたのかもしれない。自分にだってそういう時期があっただろうに、喉元を過ぎてしまえば人は忘れてしまうものだ。

 だから、大人はわかってくれない、と子供は叫び、大人は頓珍漢な手の差し伸べ方をしてしまうという悲劇がしばしば起こるのだろう。

 それでも、やっぱり兄と喧嘩をすることはなかった。兄が引いているのだから、喧嘩になんてならない。

 一度、河原で殴り合った末に、最後にはがっちり肩を組んで笑いあう、という少年漫画のようなことをやってみたいと思ったこともあったけれど、僕たち兄弟はそんな柄にもないことは出来ない。

 そもそも、お互いに争いを望まない。

 君は優しいね、と、クラスの女の子が言ってくれた。

そりゃあ、女の子に対して乱暴なことをしたり、からかって嫌なことを言ったりすることもない、ただ毒にはならない、というだけのことではないのか。

彼女がそう言ってくれたのは、僕が落ちたプリントを拾ったから。そんな、本当に何でもないことなのだ。

自分の前にひらひらと飛んできたならば、当たり前のことだろう。


 兄の方がずっと優しい。

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