紙飛行機とキャッチボール

ろくなみの

第1話

生まれてはじめて骨を折った。自分がしでかしたことは本当にあほなことだと思っているし、後悔もしている。自分のために泣いてくれた親にも申し訳なかったし、しかも俺のでっち上げた『けがの原因』を信じていることにも、激しい罪悪感を覚えた。

「少年野球、しばらくできないわね」

 帰り際に親に言われた言葉がそれだった。その言葉でさらに胸が痛んだ。俺はもう二度と野球なんてしたくなかったし、どうせプロなんかになれるわけでもないし、何より俺はここに来ることを、自分で選んだんだから。

「……そうだね」でもそんなことを親に悟られるわけにはいかない。

「あんなに好きだったのにね」

 どうやらまだ母親は俺が『野球好き』という設定を信じ込んでいるようだ。それでいい。自分に何もないと思われるより、ずっと。

 けれどわざと階段から飛び降りて、足の骨を折ってはみたが、入院するほどの大事になることなんて、考えもしなかった。病院食は少ないし、まずいし、唯一相部屋にいる人は一言もしゃべらず、カーテンを閉め切っている。話しかけても一言も返事はない。本当に患者がいるのかすら、疑問だった。

 読書も趣味というわけでなかった俺は、退屈しのぎの何かを探していた。動きたくてもリハビリのときくらいしか歩く気力は起きないし、ほとんど安静に過ごしている。親が皮肉にもおいていった野球のボールでキャッチボールをする相手もいなかった。手でポンポンとボールを弄んでいたら手を滑らせ、例の無言の患者がいるベッドに飛んで行ってしまった。

「あ、すいません。それとってくれますか?」

 俺の声は二人きりの病室にむなしくこだました。ため息を吐き、寝転がる。窓から見える雲の形を眺めることにした。

翌朝。カサリ、と何か紙のようなものが布団の上に落ちた音がした。一瞬ゴキブリでも天井から降ってきたのかと思いながら、恐る恐る布団上に目を向けた。するとそこにあったのは、白い小さな紙飛行機だった。

 紙飛行機には不器用に豆粒くらいの野球ボールの絵が描かれていた。

 どこからきたのか。十中八九想像はつく。正面にいる何も言わない入院患者だ。一体何のつもりだろう。まるで俺が投げたボールを投げ返してきたみたいだった。

「いや本物のボール返してよ」

 仮に何かの病気でしゃべれなかったにしても、絵が描けるのなら筆談とかいろいろやりようがある気がするのだが。俺のツッコミに対して、正面の患者は何の言葉も返してこなかった。

 とりあえず俺も、親がおいていった折り紙で紙飛行機を折り、鉛筆で棒人間がバッドでボールを打っている絵を描いて、向こうのベッドに投げた。

 それから、俺と向かいの患者の、奇妙なキャッチボールは続いていった。お互いに何度も紙飛行機を折り、野球をしている場面を描いては、投げていた。ただ、その返ってくるまでの時間はとても長く、ほとんどが次の日になってからだった。

 その間、向かいの患者の顔を見る機会は一度もなかった。看護師や医者が何度も訪れ、食事やベッド上でのストレッチをしているところは目にするが、一向にカーテンは開かず、向こうの声も聞こえなかった。

 ただ、周りの先生はその患者のことを「さっちゃん」と呼んでいた。注意して見なかったが、確かにベッドの下のところに「東條 幸」という名前が書かれていた。

「ねえ、先生」

 気になった俺はリハビリをしてくれている理学療法士の先生に聞くことにした。「俺と同じ部屋の子、なんで顔を見せないで、声も出さないの?」

 俺の問いに難しい顔をしながら、先生は「患者さんっていうのは、いろんな問題を抱えているものだよ。許してあげてくれるかな。詳しいことは守秘義務って言って話せないんだ」

 先生の言葉に納得はいかなかったが、しぶしぶうなずくことにした。

「でもさ、顔見られるのが嫌なら、個室にすればいいのに」

「それは先生も思うんだけどね。ご家族もどちらかというと裕福なはずなんだけどね……」

 どうやら病院の先生たちにも謎の存在らしい。

 ある日、気になって俺は紙飛行機に「何の病気なの?」と書いてみた。すると返事が来たのは二日後で、震える字で「ひみつ」と書かれていた。どうやら深刻な病気らしい。けれど、三文字くらいのやり取りはなんとか可能ということがわかった。

「野球すきなの?」今度は「はい」か「いいえ」でこたえられるように『はい』と『いいえ』と書き、丸をつけられるようにした。するとコミュニケーションは日に日にスムーズになっていった。

「はい」

「ここって退屈だよね」

「はい」

「顔見せてよ」

「いいえ」

「俺のボール、どこにいったかしらない?」

「いいえ」

 これはかなり向こうも意地悪なやつだと思い、ムッとした。

「返してよ」

いいえ、とは返してこず、震えたミミズのような字で「プロになったら」とか書かれていた。本当に意地の悪い奴だ。こんな他愛のないやり取りは毎日続き、日に日に俺の脚も回復していった。けれど、紙飛行機のキャッチボールの届くまでのブランクは、日に日に長くなっていった。しかも、飛んでくる飛行機は、どんどん歪になり、最近はほとんどベッドに飛んでくることはなく、途中の床で墜落していることが珍しくなくなった。まるでキャッチボール中にボールが届かなかったみたいに。

 俺の退院の日がやってきたとき、彼女の顔を最後に拝んでみようかとも思ったけれど、それはなんだかあのキャッチボールのルール違反になる気がして、やめた。心の中で「さよなら」と告げた。結局最後に送った紙飛行機が返ってくることはなかった。

 退院しても何かしら言い訳をつけて、練習にはいかなかった。親もそれには同意してくれて、何の意義も唱えなかった。俺は野球よりも、あの些細なキャッチボールが妙に楽しかったようだ。俺は今までのお礼をまだ告げていなかったと思い、ある日病院にチャリで向かった。空気はすっかり冷たくなり、厚手の上着が必要だった。吐く息は白く、空に溶けていくように消えていった。

 病院に着いて、前に俺がいた病室のベッドのカーテンはあいていた。中には誰も寝ていなかった。

 慌てて看護師さんに聞こうとしたときだった。小太りの看護師がゴミ袋を整理していた。その中に見えたのは、いびつな形に折られた大量の紙飛行機だった。

「あの、その、紙飛行機の女の子は」

看護師は振り返っていった。

「ああ、あの子ね、症状が悪くなってね、遠くの大きな病院に変わったのよ。でも難病だからね。もう長く持つかどうか……」

看護師のその軽い言葉の一つ一つが、鉛のようにのしかかり、頭が真っ白になった。

 病院を飛び出して、悔しくてひたすらに自転車を漕いだ。俺の行く手を阻むように雪がパラパラと降り、目に入る。視界が悪い中、目的もなく進み続ける。足り着いた先は浜辺だった。どこに行ったかわからない、そして絶望的な運命を抱えていた彼女にむかって、何かの言葉を探したが、何も出てこなかった。

 誰にも届くことのない喉がかれるほどの叫び声を上げるしかできなかった。あんな紙飛行機なんかのキャッチボールが、彼女の負担になっていたんだとしたら、ますます泣きそうになった。

 しばらく叫んだあと、いくらか気持ちは落ち着き、家路についた。晩御飯は喉を通らず、そのまま部屋で寝転がった。体は石のように重たく、それでももやもやした気持ちをごまかすために、ベッドにゴンゴンと頭をぶつけた。

 二日間。死んだように毎日を過ごし、三日目に俺は野球のユニフォームがタンスにあるのを確認し、バッドとグローブを手に取った。

 ただないのは、一球のボールだ。

 俺はその日から、野球をがむしゃらにやってみることにした。

 別に彼女のためとか、そういうわけじゃない。大切なマイボールを、返してもらうためだ。気が遠くなるほど、豆がつぶれるほど素振りをした。何度もフォームを確認して、プロの動画や本を読み漁った。それこそ、遊ぶ暇も忘れて、ただ野球のことだけを考えていた。

 中学も、高校も、ひたすら野球だった。努力の甲斐もあってか、実力はグングン伸びてきて、今や部のエースとなっていた。

 たかが高校野球で強くなったところで、彼女に届くかどうかは甚だ疑問ではあるし、彼女が死んでいる可能性はとても高かった。

 だから甲子園の決勝戦。俺はここで決めることができなかったら、野球をやめてやろうと思った。九回裏、ツーアウト、ここで俺が打たなければ、負ける。全国一位は逃してしまう。会場のざわめきと周りからの期待の視線。まともにくらってしまえば、それは俺の心へ大きな負担となる。だから、目を閉じることにした。目を閉じて、あの病室の、静かなあの空気を、思い出すことにした。相手のピッチャーのグローブから飛んでくるのは、ボールなんかじゃない。ちょっと丸いだけの紙飛行機だ。

 ただ、返すだけ。それだけだ。無心でバッドを振り切る。カキンッ! と、天高く金属音が響き渡る。体に染みついた習慣がなくなることはなく、俺は走った。走っている中、会場全体から、大きな歓声が聞こえる。喜ぶ暇もなく走っていると、目の前に白い何かが降り立った。

 それは小さな紙飛行機だった。しかもそれは一つだけじゃない。まるで紙ふぶきのように飛び交っている。

 ふと、空を見上げる。紙飛行機が空を埋めていた。会場の客の全員が、とても楽しそうに紙飛行機を飛ばしているのだ。信じられない光景に、あいた口がふさがらない。今の試合が夢なんじゃないかと不安になりながら、必死でホームベースを目指した。

 試合はうちのチームの勝利で終わった。球場中の紙飛行機のことに、誰もが首をかしげていた。

 表彰式。高校野球連盟の会長が、トロフィー授与の後、俺の前に立ち、頭を下げた。

「すまないね。すべて娘の計画なんだ。無口なくせにいたずら好きでな。君に渡すものがあるらしい」

 連盟の会長は、「おいで!」というと、ベンチのあたりからゆっくりと何か椅子のようなものが近づいてきた。それが電動車いすだということに気が付くのに、少しだけ時間がかかった。そこには、目じりや唇は垂れ、顔の筋肉という筋肉すべてが緩んだ女性が座っていた。肘受けにあったのは、白いボールだった。

 何も言えないまま、車いすに乗った彼女は俺に近づいてくる。そして、わずかなこぶしの動きで、ボールを球場の芝生の上に落した。

 女性は表情を変えない、いや、表情が出せる筋肉すべてが弛緩しているからわからないだけか。俺は芝生の上に落ちたボールを拾い上げた。ボールにはミミズのような紙飛行機の絵がうっすらと描かれていた。

 意味のわからない状況に、後ろのチームメイトは呆然としているだろう。それでいい。意味が分かるのは、俺と彼女だけでいいんだ。

「返すの遅いよ」

 俺がそういうと、形の崩れた彼女の筋肉が心なしか少し、緩んだ気がした。


                                    FIN

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紙飛行機とキャッチボール ろくなみの @rokunami

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