メル・アイヴィーを殺せ

枕木きのこ

メル・アイヴィーを殺せ

 正直、来るかどうかは非常に迷いました。

 それでも、聞いてもらえるのなら、発散してしまいたいと、思ったのです。




 最初に生き物を殺したのは、小学生の頃でした。四年か、五年か、そのあたりだったと思います。

 その年の冬は、関東でも珍しく大雪が降りました。あまりなじみのない銀世界に、私も、周囲の子どもたちも、心が浮ついていたのをよく覚えています。


 朝、目が覚めて、深々しんしんとした異世界の中で、その、真っ白い雪のじゅうたんを見て、ある思いが、心に湧いてきたのです。


 美しい——、けれど何か足りない。


 昔から、何かに熱中してしまうとそれ以外のことを考えられなくなってしまうタチで、その時も、ようやく日が昇り始めたその時間から——しばらく、じっと部屋の窓を通して庭先を眺め続けてしまったのです。


 半時間か、一時間か経った頃、ほとんど聞こえないような足音を立てながら、黒猫が塀を闊歩しているのが目に付きました。

 耳がカットされていて、少し足を引きずる歩き方をしていたので、通学の時などに時折見かける野良猫だとはすぐにわかりました。


 そして、その黒猫こそが、この銀世界に足りていなかったものだと、気づいてしまったのです。


 慌てて家を飛び出して、その黒猫を捕まえました。どこかでエサを貰って過ごしていたのでしょう、警戒心は薄く、逃げることもなく、すんなりと抱えさせてくれました。私は急いで家に戻り、その子を庭先に下ろしました。点々と足跡こそついてしまいましたが、きっと、うんと美しくなったに違いない。

 その光景をぜひ上から見ようと、パタパタと二階の自室に上がって見下ろしてみると、私が思い描いている場所にその子がいませんでした。散歩の途中だったのか、何もくれないのならと思ったのか、もうほとんど敷地から出てしまっているような状態でした。


 何度か、試したんです。どうにかそこにいてくれないかと。

 でも、あんまり言うことを聞いてくれないものだから。


 それが、私の最初の殺害でした。

 だから多分、私はその日、その時間に、気づいてしまったんです。

 言うことを聞かないなら、思い通りにならないのなら、殺してしまえばいいと。


 何でこんな話を掘り返しているのか、説明していませんでした。まるで関係のない武勇伝のように思われるかもしれない。

 でも、この日から、私の頭の中にもう一人の私が生まれたのです。それは恐らく、すぐに起きてきた親から受けた手酷い叱責によるショックやストレスを、肩代わりするためだったのだと思います。


 とにかく、もう一人の私が存在する。

 これが、大事なのです。


 これまで、おかげさまというのか、私はさしたる不幸もなく人生を歩んで来ました。

 辛いことは、もう一人の私が背負ってくれる。排除してくれるからです。

 それも、私自身驚くほどに、狡猾に、です。


 今までほかにどんなことをしてきたのかを語るのは、野暮でしょう。それに、今回お互いにとって本題はそこではない。


 ——メル・アイヴィーについて。ですよね。


 私が彼女を初めて見たのは、渋谷の駅前交差点でした。

 渋谷まで出て、急に大学に行くのが億劫になってしまい、ただ何をするでもなく、流れる人々を眺めていたのです。右では怪しいスカウトが女子高生を誘っていて、左では男の子たちが今夜の合コンへの意気込みを語らっていました。ハチ公の前では携帯と周囲を交互に見やる人、交差点内はせわしく人々が右往左往していました。


 その時間は全てが灰色に見えるような、空虚なものでした。何もない。何も起こらない。誰もいないのと同じ。無為な時間です。お互いにお互いが見えていないような、そんな群像が、入れ替わり立ち代わり、目の前に提示される。


 確かに、それをぼんやりと眺めているのはいい時間つぶしにはなりました。何も考えることがないというのは、一方では幸せなことです。心に何を浮かべるでもなく、何かの振りをするでもなく、じっとでくの坊のように突っ立って。


 ——視線を、ただ上げただけでした。

 しかし一瞬後には、それは仕組まれていたのではないかと疑ってしまうほど、私はある一点に引き込まれてしまったのです。


 ピンクにも見える淡い銀色のロングヘア。時折首筋から覗く黒のチョーカー。

 女性にしては背が高かったな。

 だから目立ったのかもしれないけれど、私にはそれだけとは思えなかったのです。


 一目ぼれ、に近かったかもしれません。


 流動的な群像の中に、唯一不動の点が存在する。

 それが私には。

 とても。とても美しく、思えたのです。


 そんなことを思ってしまったからか、翌日からの私も、学校をサボりがちになりました。渋谷に行けばもういちど彼女に会えるかもしれない。今度は目が合うかもしれない。話が出来るかもしれない。思春期に戻ったような気持ちでした。


 でも、いくら待っても会えない。周波数が異なってしまったかのように、彼女の存在を認識できなくなってしまったのです。


 恐ろしかった。怖かった。

 そんな表現が正しいか分かりかねますが、私の胸中は不安で満たされました。美的感覚によるものか、あるいは本当に恋心だったのか。自分の人生の中で二度と彼女に会うことがないかもしれない、という可能性の話が、酷く私を不安定にさせるのです。


 だから。だと思います。


 ——メル。

 ——メル・アイヴィー。


 頭の中の声が言うのです。


 ——彼女の名前は、メル・アイヴィー。


 もちろん。全く分離した二つの人格ではありましたが、異なる二人が存在するわけではありません。それくらいの自覚は持っています。だから、彼女の名前を告げる声の裏側は、何かニュースであったり、小説であったりで目にした、適当な名前なのだと、思いました。

 しかし何故だか、これ以上ないくらい、私の中にすとんと落ちたのです。


 メル。

 メル、か。と。


 それだけで心が少し満たされたような気分になりました。

 彼女の名前を知っている。それは、その人となりを知ったのと同じようなものだと、自分の中で価値をどんどんと吊り上げて。愉悦にさえ、浸っていたかもしれません。

 次の一瞬までは。


 ——メル・アイヴィーを殺せ。


 そんなことを、私が言うなんて、考えもしませんでした。だって私は、彼女を好いている。美しいと思っている。それを壊すなんてことを――そう思ってから、自分の過去を振り返りました。


 彼女は本当に、そこに存在するだけで美しいのか?

 群像の中に、そう、あの黒猫のように、ひときわ目立つからこその美しさだったのではないか?


 メル・アイヴィーを殺せ。


 ああ、悲しい。悲しいと、思いました。

 私は、彼——もう一人の私を、容認してしまえる。彼の考えを、受け入れられる。

 殺そう。いや、殺したいと、思ったのです。


 あるいは彼女も、これを願っていたのかもしれません。


 翌朝、また彼女のために渋谷へ繰り出すと、昼を過ぎたあたりに、姿を見せてくれたのです。道玄坂のほうへ向かうその後姿は、あの日見たものと同じでした。

 尾行は不得手ですが、経験がないわけではなかったので、私はゆっくりと距離をとりながら彼女の後をつけました。家に向かうのだろうか。職場に向かうのだろうか。いや、外見的にはまだ学校に通っている年齢かもしれない。


 そんな風に考えていたから、今日はついていくだけにしようと思っていたのですが、——徐々に、雲行きが怪しくなっていったのです。

 坂の途中の路地に入り、ああ、なんと言うことか。彼女はラブホテルのひとつの前で立ち止まりました。


 私は一気に距離をつめました。

 彼女が自動ドアをくぐるその瞬間、まるで連れ合いのようにすっと隣に並び立ち、背中に握りこぶしを押し当て、そのまま静かに声を出しました。

 ——このまま部屋に行け。

 自分のものとは思えないそれは、彼の言葉だったかもしれません。

 彼女は怖がりもせず、声も出さず、緩慢に銀色の髪を揺らし、小さくうなずきました。


 ——これは私の求めるメル・アイヴィーの姿ではない。

 

 彼女は一度も私の顔を見ようとしませんでした。部屋にも先に入り、靴を脱いですぐに立ち止まる。彼女の顔は一度も見えませんでした。

 私はうしろから、その黒いチョーカーを隠すように、細い首を、握りました。


 時折、声が漏れ、小刻みに身体が震えましたが、彼女は一度もその手をはがそうとはしませんでした。

 やがて尿が垂れ、あの独特のにおいが部屋に充満していくのがわかりました。


 絶命の瞬間、私は特に感慨もなくそれを迎えたことに内心、ほっとしていました。


 彼女の死に、絶頂でもしてしまっていたのなら、これから先の私の人生はきっと無味無臭になってしまう。彼女ほど美しいものを失くしたとしても、私の人生にはまだ色が残るんだと、そう思ったのです。


 きっと、思っていた女性でもなく、思っていた殺し方でもなかったからでしょう。


 ——あなた方には、申し訳ないことをしたと思います。

 あなた方がお探しの女性は、だから、もういないのです。



 男は全て言い切ると、ずいぶん前に出してやった茶を一口啜った。来る前と同じ、何を考えているかよく分からない、ぼんやりとした表情をしている。

 私は二度、腕時計を叩いた。彼のその散漫な集中力をこちら側へ戻すためである。


「貴重なお話をありがとうございました」

「いえ」

「ちなみに今の話は、いつ頃のことですか?」

「つい、昨日の話です」


 頭の中で言葉を選びながら、

「——心理学をやっていたりすると、時折、警察のほうへお邪魔することがあるんです。いわゆる、精神分析といいますか。犯人と一対一で会話をし、それがどのような人格を内包しているか、見極める。なかなか難しい仕事なんですけどね」


「私との会話で、何か分かりましたか?」

 もろ手を振る。

「いえいえ、今回は分析ではないですから」冗談っぽく笑っておく。「ただね、私が言いたいのは、そういう兼ね合いもあって、警察とはつながりを持っている、ということです」

 男は少し、嬉しそうな顔をした。


「つまり、私を捕まえると?」

 だが、私はその期待を首を振って無下にする。


「聞いていないんです」

「え?」

「メル・アイヴィーという女性が死んだとも、渋谷のラブホテルで死体が上がったとも」


 得心とくしんが行かない、という顔をする。

 私は絵本でも読むような、相手に理解させるための声音を出す。


「This Manという男の写真を見たことはありますか? 国も性別も年齢も違う人々の夢の中に現れる共通の男――、一部ではマーケティング手法の実験ために流布された、仕組まれたものだとも聞いたことがありますが――、まあそんなことはよくて。メル・アイヴィーも、つまりそういうものなのですよ」

「そういうもの?」


「ええ。


 男は難解な表情を見せる。理解できないというよりは、理解することを放棄した顔だ。

「でも私は確かに殺した。あなた方が探している女性と全く同じ特徴を持つ女性を。あれがメル・アイヴィーでなくて、だれがそうだって言うんですか? あなた方が探しているのはじゃあ、なんだと言うんですか?」


「人類共通の夢。のようなもの、なんですよ。あなたはメル・アイヴィーを見つけ、殺したつもりになっている。でも、本当はそんなことは何もなかった。ラブホテルに行って、ただ出てきた。それだけなんです。――監視カメラの映像を借りてきてもいいですよ」

 自信満々、というていで手を広げると、男はぐっと縮こまった。


「これまでのあなたの犯罪歴に関しては、間違いがないのでしょう。人の殺し方も、殺した感触も知っている。でも、今回ばかりは偽物だった、ということです。あなたのおっしゃる通り、何かで目にしたメル・アイヴィーという名前と、たまたま目についた後ろ姿、あとは過去の記憶。それが偶然、同じ線の上に重なった。

 つまりメル・アイヴィーどころか、昨日、あなたは誰も殺していない。幻惑に囚われただけなのです」


「そんな馬鹿な話があると? 確かに私の手の中には、今も彼女のあの細い首の感触が——」


「きっと、あなたの鬱屈した精神、——もう一人のあなたが、そんな夢を見せてあげただけなんですよ。退屈を、彩るために。そうしてあなたは成立している。あるいは決別、いや、統合のためのプロセス、だったかもしれませんね。彼ではなく、が殺している点をかんがみれば。少なからずあなたは救われた。メル・アイヴィーに」


「じゃあ」と男は言った。それはもう、駄々をこねている子どもと同じ顔だった。「じゃああなたはなぜこんな組織を立ち上げた? なぜメル・アイヴィーを探している? 存在しないのに」


 私は薄く笑んで答える。


「治療の一環——、これもまた、実験の一つなのですよ」



 納得をしたようではなかったが、男は肩を落として去っていった。あの手の輩は逆上する可能性があったから、助かった、という気持ちも少なからずあると、ぬるいコーヒーを飲みながら思う。警察に彼を知らせるかどうかは、あとで考えよう。


 確かに、男の言っていることは、殺した、という一点を除いて全て正しい。


 私の話したことは、メル・アイヴィーは死んでいない、という点を除いて全てが憶測である。


 メル・アイヴィーは存在するし、美しい――ただし、それは実態ではなく、概念として、である。例にThis Manを挙げたが、これは幽霊に代えてもいいだろう。似たようなものだ。

 誰かのために常に存在する。

 だから彼女を物理的に殺す、ということは不可能なのだ。その手にどれだけリアルな感触があろうとも。


 彼女の存在は人々の頭が作り出し、その中で成長していく。

 特徴や性質が他人によって作られていく。

 それは私たちにも共通して言えることだろう。

 もしくは神とも。

 やがて人々は知らぬ間に、彼女を身近な存在にしてしまう。


 人類の頭の中、という異世界を、彼女は自由に飛び回っている。

 甘いものを食べ、時折、誰かのために祈り、歌ってやることもある。

 ファンタジーの世界で自らを語ることもあるだろう。自分のことを歌われることもある。あらゆる色彩で描かれ、こちらを見ている。


 彼女は、そういう、概念なのだ。

 人を、心を、救うための。


「そうなんだろう? メル」


 今この瞬間も、メル・アイヴィーは誰かの頭の中にいる。

 だから私は、人々の頭の中から彼女が一刻も早くいなくなってくれることを願っている。

 彼女を探し続けている。

 概念にすがることなく、進んでいけるよう。


 人々よ。

 メル・アイヴィーを、殺せ。





「  」

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