最終話 水神は天へ帰る
年老いた浦島は、時に足元がおぼつかなくなるため、私はさりげなく手を添えて支えた。彼はそれに
墓地だ。
勝手知ったる場所なのか、浦島は息を切らせながらも、迷いのない足取りで墓の間を歩いていく。その足が止まったのは、まだ割と新しい、小さめの墓石の前だった。「
浦島はしゃがんで、目を閉じながら手を合わせた後、ようやくぽつりと声を発した。
「俺がかつて、思いを寄せていた人だよ」
唐突過ぎて、すぐにはその意味を理解できなかった。私の反応を気に留めることなく、浦島はゆっくり、感情を
「金持ちの放蕩息子と一緒に悪事を働いてたって、前に話しただろ? その頃に出会ったんだよ。大きな商家のお嬢さんで、俺には
墓石にまっすぐ向けられる彼の眼差しには、自嘲と懐旧が入り混じっている。心はまだ若者のままのはずなのに、外見の老いによって内面まで年を重ねたような、妙な落ち着きがあった。
私の知らない過去。それも、片恋の相手の話なのに、不思議と私の心も落ち着いていた。口をはさむ気も起きず、彼が語るに任せ、それに耳を傾けた。
「近くの
浦島はいったん言葉を切り、せつなげに目を伏せた。よくある話と言えば話なのだろうけれど、当事者にとっては二つとない。そして私にとっても、彼が関わっているせいで、
「俺は、二人が結ばれるのが許せなかった。放蕩息子とつるんではいたが、これっぽっちも尊敬なんてしちゃいなかったから。いろんな遊びや世間の裏側を知ってて、気軽に付き合えて面白いからっていう、それだけで一緒にいろいろやっていたけれど、くだらない奴と内心では
浦島の声に、次第に熱が入っていく。過去の感情までよみがえってきたかのように。
穏やかでやさしい人だとばかり思っていた。三年も共に暮らしていたのに。今まで私が見てきたのは、彼の半分でしかなかったんだろうか。
いや、そうではない。どこかで気づいていた。彼のやさしさが、別の何かによって生み出され、支えられていることに。それらもすべて引っくるめて……私は
「何とか
浦島にあふれていた熱さが、すっと引いた。入れ替わるように、その
「ある日突然、澄さんが
そのとき浦島が何を思ったのか、すぐに想像がついた。自分が告げ口しなければ、彼女が身を投げることなどなかった――それを否定するのは
放蕩息子は遊びでしかなかったのだから、告げ口がなかったとしても、二人の仲が
そして浦島が選んだ行動もまた、想像がついた。
「それがきっかけで、悪事に加担するのをやめたのですね」
「俺が命を絶ってわびて、誰が救われる? それどころか
「墓参り」という言葉で、はっと思い当たった。
「私を船で竜宮へ送り届ける前に、『墓参りを済ませてきた』とおっしゃってましたね。もしや、あの時の墓も……」
「そう。この墓だよ」
てっきり、先祖の墓だと思っていた。
浦島は墓石に手を伸ばし、ゆっくりと
「竜宮にいる間も、このことだけがずっと気がかりだった。ようやく……」
そうしみじみ
「俺は、乙が思っているような男じゃないよ」
投げやりなわけでも怒りがこもっているわけでもないのに、こちらを突き放しているように聞こえた。
「大勢の人を傷つけ、
言われて初めて、自分が腹を立てていることに気がついた。
ずっと黙っていた浦島に? 相手の女に?
いや、違う。私が何より腹立たしいのは――。
「私の目を、そのような節穴だと思っていたのですか?」
言わなければいけない。
「とうに知っていましたよ……あなたが、ただやさしいだけの人ではないことなんて」
自分の内側から、言葉があふれてくる。戸惑う浦島に構わず、それを一息にぶつけた。
「あなたのやさしさ、あたたかさが何に起因しているのか、ずっとわからずにいました。ああ、違う。そうではありませんね。わかろうとしなかったのです、私は。大切な人がすぐそばで痛みを抱えているのに、それに気づきもせず、己の感情や欲だけで動いていた。私は……私自身が腹立たしい」
不思議なほど、浦島を責める気持ちはわいてこない。己の無力さ、
「なすべきことと、したいこととの
自分の中に渦巻いていたものを
私たちは、似ていたのだ。言わねばならないのにという罪悪感。知られたらすべてが終わってしまうという恐怖心。二つ同時に抱えて、ずるずるとここまで来てしまった。
それももう、終わりだ。
大きく息をついたら、浦島と目が合った。
私は、あきらめにも似た苦笑を浮かべ、たずねてみた。
「私と澄さんは、似ているのですか?」
私のどこかに、彼女の面影でもあったから夫婦になってくれたのだろうかと、ふと気にかかったのだ。
一拍置いて、それまで圧倒されたようにぽかんとしていた浦島が、くくっと笑った。よく見慣れた、裏表のない笑みだった。
「いや……似ていない。不思議なくらいに。」
その口振りは、あきれているとも感心しているともつかなかった。
「こんなに似ていないのに、どうして
「こんなことを言っても、乙の気持ちは晴れないだろうけれど、それでも言わせてくれ」
笑顔はそのままに、偽りも誤魔化しもない目で、
「もし竜宮がどんな場所なのか知らされていたとしても、俺はきっと、乙と暮らすことを選んでいたよ」
告げられた途端、泣きそうになった。
浦島は少し顔を伏せ、
「最後に、ここに来られてよかった。乙に会えて、よかった……」
その声の弱々しさに、「最後」という言葉に、心臓がどくんと高鳴った。
「最後」……いや、「
頬から浦島の手が離れた次の瞬間には、彼はその場に膝をついていた。いつの間にか、体に刻まれたしわは深さを増し、手足が枯れ枝のように細くなっている。老化がさらに進んでいるのだ。その先にあるのは――。
私はすがりつくように、両腕で彼の体を抱きしめた。時の流れに抗えるはずがないと、頭ではわかっている。それでも、目の前の命が消えゆくことに恐れを感じ、つなぎ留められないかと無我夢中だった。
浦島は、悲しみや苦しみとは無縁と言わんばかりに、ただ静かに微笑んでいる。
このまま時が止まってくれるんじゃないかと、私は
私の胸の内まで、がらんとした空洞になったようだった。すべてが
いや、待て。そんなにうまい具合に、墓参りが済むまで命が持つなんて、偶然とか運がいいとかで起きるだろうか? まるで何かの力が働いていたような――。
不意に、よく見知った
「まさか……父上?」
確証は何もないが、こんなことができるのもまた、父ぐらいしかいない。わずかな間とはいえ、時の流れを止め、寿命を持たせるなんて。
「ありがとうございます、父上……」
その時、一陣の風が吹き、地表の砂を天へ舞い上げた。仰ぎ見ると、一羽の鶴が大きく翼を広げ、悠然と飛んでいた。
あれは――。
私はすっくと立ち上がり、海岸を目指した。来た道を戻り、砂浜にたどり着くと、小船だけがぽつんと待っていた。海は陽光を受け止めて、目を細めたくなるほど輝いている。三年前と変わらず、波はゆるやかだ。
再び空を仰ぎ見ると、何かを見守っているような
「父上、私の最後の願い、どうかお許しください」
衣の袖を
代わりに現れたのは――。
もう竜宮には、戻るまい。
「それで、その後どうなったの? お父さん」
「浦島太郎は、鶴に生まれ変わったんだよ。そして、亀の乙姫とともに、この神社に
「ふうん。それって、かわいそうなの? それとも幸せなの?」
「どうだろうね。かわいそうな感じもするけれど……今こうして一緒にいられるんだから、幸せなんじゃないかな」
「私、神社にお願いする。二人を幸せにしてくださいって」
「それはちょっと無理だよ。今は二人とも、みんなからお願いされる側だから」
「えーっ。じゃあ、何にお願いしたらいいの?」
「……いや、それでいいんだ。この明神様に、二人で幸せに過ごしてくださいってお願いすれば、きっと
新釈お伽草子――竜の宮に帰る日は 里内和也 @kazuyasatouchi
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