最終話 水神は天へ帰る

 年老いた浦島は、時に足元がおぼつかなくなるため、私はさりげなく手を添えて支えた。彼はそれにあらがうこともなく、黙々と歩を進める。林を抜けると、日差しが降りそそぐ開けた土地に、木の板や石碑が立ち並んでいるのが見えた。

 墓地だ。

 勝手知ったる場所なのか、浦島は息を切らせながらも、迷いのない足取りで墓の間を歩いていく。その足が止まったのは、まだ割と新しい、小さめの墓石の前だった。「すみ」という、女性と思われる名前が彫られている。

 浦島はしゃがんで、目を閉じながら手を合わせた後、ようやくぽつりと声を発した。

「俺がかつて、思いを寄せていた人だよ」

 唐突過ぎて、すぐにはその意味を理解できなかった。私の反応を気に留めることなく、浦島はゆっくり、感情をまじえない口調で語り出した。

「金持ちの放蕩息子と一緒に悪事を働いてたって、前に話しただろ? その頃に出会ったんだよ。大きな商家のお嬢さんで、俺には高嶺たかねの花以外の何者でもなかったけどね」

 墓石にまっすぐ向けられる彼の眼差しには、自嘲と懐旧が入り混じっている。心はまだ若者のままのはずなのに、外見の老いによって内面まで年を重ねたような、妙な落ち着きがあった。

 私の知らない過去。それも、片恋の相手の話なのに、不思議と私の心も落ち着いていた。口をはさむ気も起きず、彼が語るに任せ、それに耳を傾けた。

「近くのやしろもうでている澄さんを見かけて、偶然を装って放蕩息子と声をかけたんだ。少しずつ親しくなって、一緒に過ごす時間も増えていった。俺たちが悪さをしているのは、彼女も世間の噂で知っていたけれど、強請ゆすりや博打ばくち程度のことだと思っていたみたいでね。盗みや殺傷沙汰にまで手を染めてるとは、最後まで気づいてなかったようだ。真っ当に働いたほうがいいって、やんわり俺たちをさとすだけだったよ。次第に心の距離も近づいて、いつの間にか……放蕩息子と彼女は、恋仲になっていた」

 浦島はいったん言葉を切り、せつなげに目を伏せた。よくある話と言えば話なのだろうけれど、当事者にとっては二つとない。そして私にとっても、彼が関わっているせいで、余所事よそごとには感じられなかった。

「俺は、二人が結ばれるのが許せなかった。放蕩息子とつるんではいたが、これっぽっちも尊敬なんてしちゃいなかったから。いろんな遊びや世間の裏側を知ってて、気軽に付き合えて面白いからっていう、それだけで一緒にいろいろやっていたけれど、くだらない奴と内心ではあざけってたよ。よりによって、そんなろくでなしと彼女が……。たかが漁師の俺を振り向いてほしいなんて、大それたことは願わない。彼女にふさわしい身分の立派な男と幸せになってくれれば、それで構わないと思ってた。だけどあいつじゃ、納得がいかない」

 浦島の声に、次第に熱が入っていく。過去の感情までよみがえってきたかのように。

 穏やかでやさしい人だとばかり思っていた。三年も共に暮らしていたのに。今まで私が見てきたのは、彼の半分でしかなかったんだろうか。

 いや、そうではない。どこかで気づいていた。彼のやさしさが、別の何かによって生み出され、支えられていることに。それらもすべて引っくるめて……私はかれたのだ。

「何とか阻止そしできないかと考えて……俺は澄さんの親に、二人の事を告げ口した。彼女の家と放蕩息子の家は、あまり仲が良くなかったから。そうでなくたって、あの放蕩息子は世間での評判も悪い。親が知れば絶対に止めるだろうし、彼女も逆らえないだろうと思ったんだ。その目論見もくろみは、半分当たった。親は別れるよう厳しく言いつけたし、彼女もそれを説得することはできなかった」

 浦島にあふれていた熱さが、すっと引いた。入れ替わるように、そのおもてかげりがにじむ。

「ある日突然、澄さんが行方ゆくえ知れずになった。みんなで方々ほうぼう手分けして、ようやく見つかったのは……沼に身を投げて、すでに息絶えた体だった。彼女の部屋からは遺書も見つかった。どうやら、駆け落ちしようとしたらしい。だが放蕩息子のほうは、そこまで本気じゃなかったと言って突き放したんだ。彼女は絶望して身を投げ、放蕩息子はいつの間にか行方をくらましていた」

 そのとき浦島が何を思ったのか、すぐに想像がついた。自分が告げ口しなければ、彼女が身を投げることなどなかった――それを否定するのは容易たやすい。

 放蕩息子は遊びでしかなかったのだから、告げ口がなかったとしても、二人の仲が成就じょうじゅする可能性は低い。あなただけのせいではない――そう言ったところで、おそらく救いにはならない。そんな気休めであっさり救われるような人ではないのを、私は知っている。

 そして浦島が選んだ行動もまた、想像がついた。

「それがきっかけで、悪事に加担するのをやめたのですね」

「俺が命を絶ってわびて、誰が救われる? それどころか心中しんじゅうじみていて、むしろ彼女に失礼だ。俺が彼女のためにできることは、まっとうに生きることと、墓参りを欠かさないこと……それぐらいのものだ」

「墓参り」という言葉で、はっと思い当たった。

「私を船で竜宮へ送り届ける前に、『墓参りを済ませてきた』とおっしゃってましたね。もしや、あの時の墓も……」

「そう。この墓だよ」

 てっきり、先祖の墓だと思っていた。

 浦島は墓石に手を伸ばし、ゆっくりとでた。その表情は、安堵に満ちている。

「竜宮にいる間も、このことだけがずっと気がかりだった。ようやく……」

 そうしみじみつぶやいた後、墓を見つめたまま、

「俺は、乙が思っているような男じゃないよ」

 投げやりなわけでも怒りがこもっているわけでもないのに、こちらを突き放しているように聞こえた。

「大勢の人を傷つけ、挙句あげくの果てに大切な人を死に追いやっておきながら、領主の娘婿に納まって、竜宮城で安穏あんのんと暮らして……。到底、乙の伴侶はんりょには相応ふさわしくない。竜王様には、過去は気にしないと言ってもらったが、いつばれるかと内心びくびくしていたよ。その一方で、早くばれてしまえ、そうして追い出されたら楽になれるのに、とも思っていた。心の狭い、手前勝手な小悪党……それが本当の俺だよ」

 言われて初めて、自分が腹を立てていることに気がついた。

 ずっと黙っていた浦島に? 相手の女に?

 いや、違う。私が何より腹立たしいのは――。

「私の目を、そのような節穴だと思っていたのですか?」

 毅然きぜんと言い放つと、浦島は驚いた顔で振り向いた。

 言わなければいけない。

「とうに知っていましたよ……あなたが、ただやさしいだけの人ではないことなんて」

 自分の内側から、言葉があふれてくる。戸惑う浦島に構わず、それを一息にぶつけた。

「あなたのやさしさ、あたたかさが何に起因しているのか、ずっとわからずにいました。ああ、違う。そうではありませんね。わかろうとしなかったのです、私は。大切な人がすぐそばで痛みを抱えているのに、それに気づきもせず、己の感情や欲だけで動いていた。私は……私自身が腹立たしい」

 不思議なほど、浦島を責める気持ちはわいてこない。己の無力さ、卑怯ひきょうさが、ただただ口惜くちおしかった。

「なすべきことと、したいこととの狭間はざまにいるのが、どれほど苦しいか。私は嫌というほど思い知っています。もっと早く、あなたの心を受け止めたかった」

 自分の中に渦巻いていたものを吐露とろしたことで、ふっと何かが軽くなった。

 私たちは、似ていたのだ。言わねばならないのにという罪悪感。知られたらすべてが終わってしまうという恐怖心。二つ同時に抱えて、ずるずるとここまで来てしまった。

 それももう、終わりだ。

 大きく息をついたら、浦島と目が合った。

 私は、あきらめにも似た苦笑を浮かべ、たずねてみた。

「私と澄さんは、似ているのですか?」

 私のどこかに、彼女の面影でもあったから夫婦になってくれたのだろうかと、ふと気にかかったのだ。

 一拍置いて、それまで圧倒されたようにぽかんとしていた浦島が、くくっと笑った。よく見慣れた、裏表のない笑みだった。

「いや……似ていない。不思議なくらいに。」

 その口振りは、あきれているとも感心しているともつかなかった。

「こんなに似ていないのに、どうしてかれたんだろう」などと独りちながら、浦島はゆっくりと立ち上がった。伸ばされた右手が、私のほほに触れる。やさしく、あたたかく。

「こんなことを言っても、乙の気持ちは晴れないだろうけれど、それでも言わせてくれ」

 笑顔はそのままに、偽りも誤魔化しもない目で、

「もし竜宮がどんな場所なのか知らされていたとしても、俺はきっと、乙と暮らすことを選んでいたよ」

 告げられた途端、泣きそうになった。

 浦島は少し顔を伏せ、

「最後に、ここに来られてよかった。乙に会えて、よかった……」

 その声の弱々しさに、「最後」という言葉に、心臓がどくんと高鳴った。

「最後」……いや、「最期さいご」?

 頬から浦島の手が離れた次の瞬間には、彼はその場に膝をついていた。いつの間にか、体に刻まれたしわは深さを増し、手足が枯れ枝のように細くなっている。老化がさらに進んでいるのだ。その先にあるのは――。

 私はすがりつくように、両腕で彼の体を抱きしめた。時の流れに抗えるはずがないと、頭ではわかっている。それでも、目の前の命が消えゆくことに恐れを感じ、つなぎ留められないかと無我夢中だった。

 浦島は、悲しみや苦しみとは無縁と言わんばかりに、ただ静かに微笑んでいる。終焉しゅうえんに向かっている人間とは思えぬほどに穏やかで、生命特有の熱すら感じさせた。

 このまま時が止まってくれるんじゃないかと、私はつかの間、淡い期待を抱いた。だがそれはあっさり打ち破られ、次の瞬間には、腕の中の体は単なる骨と皮に変じていた。さらに次の瞬間、それすらも砂のようにさらりと崩れ去り――腕に触れる物は、何も残らなかった。

 私の胸の内まで、がらんとした空洞になったようだった。すべてが麻痺まひして、感情が動かない。その一方で、七百年分もの時が一気に流れたのだから、当然の結果だと冷静に考えていた。むしろ、よくここまで持ったものだと言うべきだろう。

 いや、待て。そんなにうまい具合に、墓参りが済むまで命が持つなんて、偶然とか運がいいとかで起きるだろうか? まるで何かの力が働いていたような――。

 不意に、よく見知った面影おもかげが浮かんだ。はっとして、私は思わず目を見開いた。

「まさか……父上?」

 確証は何もないが、こんなことができるのもまた、父ぐらいしかいない。わずかな間とはいえ、時の流れを止め、寿命を持たせるなんて。

「ありがとうございます、父上……」

 その時、一陣の風が吹き、地表の砂を天へ舞い上げた。仰ぎ見ると、一羽の鶴が大きく翼を広げ、悠然と飛んでいた。

 あれは――。

 私はすっくと立ち上がり、海岸を目指した。来た道を戻り、砂浜にたどり着くと、小船だけがぽつんと待っていた。海は陽光を受け止めて、目を細めたくなるほど輝いている。三年前と変わらず、波はゆるやかだ。

 再び空を仰ぎ見ると、何かを見守っているような風情ふぜいで、鶴が飛んでいる。

「父上、私の最後の願い、どうかお許しください」 

 衣の袖をひるがえす。その途端、乙姫の姿はこの世から消えた。

 代わりに現れたのは――。

 もう竜宮には、戻るまい。



「それで、その後どうなったの? お父さん」

「浦島太郎は、鶴に生まれ変わったんだよ。そして、亀の乙姫とともに、この神社に明神みょうじん様としてまつられるようになったんだ」

「ふうん。それって、かわいそうなの? それとも幸せなの?」

「どうだろうね。かわいそうな感じもするけれど……今こうして一緒にいられるんだから、幸せなんじゃないかな」

「私、神社にお願いする。二人を幸せにしてくださいって」

「それはちょっと無理だよ。今は二人とも、みんなからお願いされる側だから」

「えーっ。じゃあ、何にお願いしたらいいの?」

「……いや、それでいいんだ。この明神様に、二人で幸せに過ごしてくださいってお願いすれば、きっとかなうよ」

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新釈お伽草子――竜の宮に帰る日は 里内和也 @kazuyasatouchi

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