第11話 露の間と思えど

 海岸には先客の船が停泊していた――浦島をここまで送ってきた、竜宮の船だ。浦島を除いて、同乗してきた家臣た全員が船で待機していた。故郷の村へは、彼一人で向かったからだ。

 私は彼らに、竜宮へ戻るよう命じた。浦島が竜宮へ帰る時は、私が乗ってきた船を使うからと説得して。最初は反対の声も上がったが、どうにか聞き入れてくれて、みんな竜宮へ帰って行った。人影も大きな船もなくなった海岸は、やけにがらんと広く、どこかさびれても見えた。

 私はとりあえず、人里がありそうな方角を目指した。この近辺に、そういくつも漁村があるとは思えない。人里があれば、それが浦島の故郷と見てほぼ間違いないだろう。

 もっとも、人里自体が一つもなくなっている可能性もあるが。

 松林を抜け、ゆるやかな坂を上っていくと、開けた場所が見えてきた。そのさらに向こうには人家が立ち並んでいる。あれに違いないと思いながら歩を進めると、空き地の片隅に人がいるのに気がついた。

 その人物は、こけむした石塔の前にしゃがみこみ、動こうとしない。かたわらには、遠目にも上等な細工物とわかる箱が置かれている。

 浦島だ。

 駆け寄ってすべてを話そうかと思ったが、おされて足が動かなかった。ただならぬ様子が離れていても伝わり、私をひるませた。

 彼を取り巻いている空気に満ちているのは、絶望ですらない。虚無だ。現実が受け止めきれず、呆然とするしかなくなっているのだろう。

 不意に浦島が箱――玉手箱を手に取り、ためらいもせず封を解いた。私がはっとした時には、すでにそのふたを開けていた。

 瞬く間に、紫がかった煙が勢いよく立ちのぼり、浦島を包み込んだ。中に詰め込まれていたものが、一気にあふれ出したかのようだった。程なくして煙は晴れ、そこにいたのは――もはや二十四、五歳の男ではない。髪はすっかり白く、肌にはしわの刻まれた、まぎれもない老夫だった。

 箱を開けた時に起きることなんて、私は重々わかっていたはずだ。それでも実際に目の当たりにしたら、とてつもない受け入れがたさを覚えた。すべてがもう取り返しのつかないところへ来てしまったような、虚脱感が押し寄せる。

 浦島は己の手や足を見、顔や腕に触れ、立ち上がろうとし――次第にその表情をこわばらせた。私同様、しばらくはただその場に突っ立っていたが、突然、何かに気づいたように歩き出した。だがいかんせん、年老いて弱った足腰ではその動きを支えきれなかったのだろう。ふらついて倒れそうになった。

 いけない、と思うと同時に私は駆け出していた。腕を伸ばし、あやういところで彼の体を受け止めた。

 驚いて顔を上げた浦島と、至近距離で向き合う格好になった。思いがけない存在の登場に、彼はますます目を丸くしている。私はその無言の問いに、正直に答えた。

「追いかけてきてしまいました。このままあなたと別れてはいけないと気づいて」

 浦島はようやく少し事態が飲み込めたようで、いつもの落ち着いた、柔和な眼差しに戻った。体から私の手をそっと外し、自分の足でその場に立ち上がると、動揺した様子もなく、

「玉手箱に入っていたのは……俺の時間、だったんだな」

 私は静かにうなずき、努めて感情を抑えながら、

「ここと竜宮とでは、時の流れ方が異なります。あの箱に時間を閉じ込め、流れを止めておかなくては、人間のあなたは……」

「あっという間に、今のような姿になっていた。そういうことだろう?」

「ええ」

「箱は、俺のそばに置いておく必要があったから、あの時渡してくれた――違うかい?」

「いいえ、違いません。竜宮と人間界とでは距離がありすぎて、箱の力が正常に働かなくなるのです」

 すべてを悟ったように、浦島は淡々と語り出した。

「ここにあったはずの俺の家が、跡形もなくなっていた。両親の姿も、どこを探しても見つからない。残っていたのはこの石碑だけだ。以前はなかったはずの村が向こうにできていたから、そこで人にたずねてみたら、浦島という家は七百年前に絶えた、と言われたよ。息子がどこだか遠い所へ行って、領主の娘婿むすめむこに納まったきり帰ってこなかったと伝わっている、ってさ」

 信じられないような話だが、わずか三年の間の変化にしては劇的すぎる。信じる以外になく、ここで途方に暮れていた――そんな彼の姿が、容易に想像できた。

 浦島は石碑を手のひらでで、

「これが、両親の墓らしい。領主の使いから財宝をもらったから、最期さいごを迎えるまで何不自由なく暮らしたようだ」

 その表情も声音も、うれしそうではなく、かといって悲しげでもない。自分からは縁遠い事実のように、感情をまじえず語っているさまは、絶望の裏返しにしか見えなかった。

 私はふところから短刀を取り出し、浦島に差し出した。

「必要ならば、いかようにもお使いください」

 つややかな塗鞘ぬりざやに納まった短刀は、亡くなった母の形見だ。今こそ使うのにふさわしいと思い、ここへ来る時にただ一つたずさえてきた。

 浦島は短刀を見、そして私を見た。真意を測りかねているのかと思い、

「私を切り刻みたければ、ご随意に。もうここでご自分の命を絶ってしまいたいのであれば、それも留め立てはしません」

 そう言い添えても、浦島は動こうとしない。私も短刀を握った手を引き下げずにいると、やがて彼は、小さく微笑んだ。

「必要ない。乙を傷つけても、殺しても、何も変わらない。それにまだ、俺は死ぬわけにはいかない」

 彼の内にあるのが、悲しみなのか、あきらめなのか、それとももっと別の何かなのかはわからなかった。確かなのは、偽りも誤魔化しもない本心ということだけだった。

 浦島は私に背を向け、ゆっくりと歩きだした。そういえば、さっきもあわててどこかへ行こうとしていた。私は短刀をしまい、彼を追いながらたずねた。

「どこへ行くつもりですか?」

「知りたければ、ついてくればいい。もっとも、知らなければよかったと思うかもしれないが」

 浦島は振り向きもせず、林の中の小道を歩いていく。私はためらうことなく、その隣に並んだ。

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