第10話 潜りて見ゆるは

 竜宮へ来た時はみずから小船を操った浦島も、今回は立派な船に乗り、操船は家臣に任せて悠々と帰郷することになった。

「なるべく早く帰ってくるから、心配せずに待っていてくれ」

 そう言い残して竜宮をった彼を、私はできる限り普段通りの顔で送り出したつもりだが、成功していたかどうかはわからない。

 来客との謁見えっけんを終えて、空いた時間。私はふと、「千季の間」を訪れた。せっかく来たのに、なぜか庭を眺める気は起きず、ただ部屋の真ん中で座していた。

 浦島のいない竜宮城は、どこか空虚に感じられた。毎日のように何かしら務めや雑事があるし、空いた時間でも別々に過ごすことは多々あった。本当の意味で一緒にいた時間は、実際にはそれほど長くないはずだ。それでも、この城のどこにも彼がいないのだと思うと、いくら手を伸ばしても何もつかめないような頼りなさを覚えてしまう。

 何を甘ったれたことをと、自分にあきれた。彼はきっと、もうここへは戻ってこない。わかった上で行かせたくせに、いまだに彼を求め、依存している――あれほどひどい仕打ちをした者に、そんな資格ないだろうに。

 彼は今頃、故郷で愕然がくぜんとしているだろう。絶望し、打ちひしがれているに違いない。私をうらみ、憎しみをたぎらせているかもしれない。そしておそらく――約束を守る気などせて、玉手箱を開けてしまうだろう。

 これでいい。こうするしかなかった。これ以上私にできることはない。そう割り切ろうとして、割り切れずにいる自分がいる。

 彼の望郷の念を、妨げるわけにはいかない。彼には真実を知る権利がある。彼がもう竜宮へ戻ってこないのなら、玉手箱の中身も返さなくてはならない。

 私はやるべきこと、できる限りのことをやった。そのはずなのに、気がつけば自問している。

 本当にこれでいいのか? できることは何もないのか? 私は……今ここにいて、いいのか?

 私はもう充分、ぜいたくをさせてもらった。そのむくいは、甘んじて受けねばならない。

 覚悟はとうにできている。

 私は静かに立ち上がり、「千季の間」を後にした。


 小船で一人、人間界への海路を急いでいると、懐かしさと感慨に襲われた。

 三年前も、一刻も早く彼のもとへ、と船を操っていた。あの時は、ただただ自分のためだった。今は違う。彼のために、だ。

 ……いや。こんなことを「彼のため」などと言っては、思い上がりもいいところ。結局は、私がそうしたいから。私自身のため、だ。それでいい。それでも、せねばならない。彼が望まなかったとしても。かえって彼を傷つけるとしても。その傷までも、私は受け止めなければならない。

 三年前と同じように、空からはまばゆい日差しが降りそそぎ、ゆるやかな波がそれを跳ね返していた。そんな平穏そのものの海原を、小船は切り裂くようにひた走った。時間の流れはゆったりと感じられるのに、ともすれば心は焦りそうになる。

 私はいつしか考えることをやめ、ひたすら海岸を目指した。彼と再会した、あの海岸を――。

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