海?


 ふり返った優は、じぶんたちの背後に立つものの姿を見て凍りついた。

 黒い顔の猿がそこに、はっきりと立っていたのだ。



「……ん、何サ。そんな化けものを見たような顔しちゃって、傷つくじゃない」



 違う。

 話しかけてきたのは、あの猿の巨体よりもひとまわりも大きい、別の獣だ。


 そいつは、人間の服を着ていた。

 筋肉質の長い腕をだらりと垂らして、頭上には歪な黒い角を二本生やしている。

 これらは猿と同じ。


 だが、地面に伏してしろい花々に埋もれているやつを猿とすると、こっちのやつは狐か。

 ダークオレンジの体毛と、ぴんと尖った耳、つり上がった切れ長の目。奇妙なことに狐の口の両端が、古びた黒い革紐でざっくりと縫いつけられている。それでも狐はずいぶんと流暢に人間の言葉を喋ってくるし、猿に比べて身なりもいい。異様に首が長くて、優を見つめる細い目の中の――白と黒の瞳がぐるぐると回転しているのは、気味悪いが。


「因みに此方、立ち入り禁止なんだけど、……お客サン」

「あ、はい、えっと」


 優は慌てて立ち上がった。


 が頭が混乱した。

 狐が口を開いて、お客サンと言ったのだ。

 まるで遊園地の関係者のような口ぶりだ。


「ゆ、遊園地の人、なんですか」

 優の声が上擦った。


 では、似た恰好をした先ほどの猿も、同じく遊園地の関係者だったか。

 関係者……関係、者って?

 人間ではない。どちらも獣じゃないか。

 それならばアクアツアーの底に住んでいた、しろくんだって――。


 狐がにんまりと笑い、しろくんは優の背後に隠れてしまう。


 そう優以外の、全員がおかしい。

 アトラクション転落事故に遭ってから、この遊園地、人間がいない・・・・・・


 何がどうなっているのか。優が困惑の表情を浮かべると、狐は堪えきれなくなったのか声を上げて笑い出した。――けけけ、けたたた、と一度聞いたら忘れられない特徴的な笑い声。しかし口の両端が縫われているからか、笑い方がどこか痛々しい――と同時に、狐の背に隠れていた巨大な尻尾が、ぽんと立ち上がった。


「アーヤダヤダ、そう見えない? 小鬼サンの、此方こちら一応……遊園地の制服なんだけど?」


 白黒ストライプのスリーピース・スーツを、狐はやたらとお洒落に着込んでいた。それを自慢げに指して、制服と言ったのだ。ああ――この日、この遊園地の中で、優は確かに、このど派手な制服を、モノクロの配色を常に見かけていた。それが何を意味するのか、優はじぶんの口を押さえてうつむいた。足元から崩れてしまいそうだ。


「ところで、お客サン。今……俺って、どう視えてンです?」


 笑う狐の顔が、優の傍まで降ってきた。長い首を傾けて、興味深く、優の表情を覗いてくる。


「此方では、支配人さんの力が効かないから、視えないンだってなぁ……ニンゲンに」


 耳元で、……低く囁かれた言葉の意味を、優は理解しなかった。もしも理解してしまったら、この遊園地のとてつもなく、おそろしいことが判明する。


「アーララ」


 狐の白黒の瞳が、嬉々として回転する。


「じゃあ、死んだアイツの顔面……さぞかし怖かったろう?」


 狐が、猿の屍を指す。

 優の心臓が飛び跳ねた。


 猿の屍はずっとそこにあった。腕や背中など、体中からしろい花々が咲きはじめているが、目玉だけは今でも残り、視線はどこへ動いても優を追ってくる。

 そこを狐は、素知らぬふりをして近づいてきたのだ。


「なんだアイツは、結局死んじまったのか……」

 狐は、ふんと鼻を鳴らした。


 そうだ、あの猿は海を前にして何かを待っていた。てっきり優としろくんを待ち伏せていたと思った。今思えばこの狐の到着を待っていたのではないか。


 こいつら仲間か。

 かたきを討ちに来たのか。

 黒い顔の猿を殺した犯人は、優だ。

 身体は綺麗に洗っても、優の衣服には猿の赤黒い血の汚れが残っている。

 ……やばい。


「まあ、いいサ」


 狐が、ずんと動いた。おそろしい巨体だ。

 優が後ずさると、背後に隠れていたしろくんと、ぶつかってしまう。


「え、しろくんか。ごめん」

「うん」


 そんな優たちの横を、にんまりと笑い狐は通り過ぎていく。


「水位がだいぶ上がってきた。今日は遊園地で、ニンゲンがよく死んだァ」


 海を見て、狐は満足げにつぶやいた。

 優は耳を疑った、「人間が死んだ?」


「途中突然サ。アクアツアーに、ここの水が引かれていったじゃない。どうしたもんかと焦ったがンマー、このぶんだと今宵、深夜ってところかね。……おっと、口が滑った」


 狐は、口の両端に垂らした革紐をきゅっと引き締める。必然的に、緩んだ口元が閉じるわけだ。


「なぁ、お客サン。アンタ……彼方あちら岸がまだ視えていないんだろ」

 狐は海のずうっと向こうを見つめて、優に問う。


「海の先に、岸があるんですか」

 そんなもの、優には見えない。


「海だってェ? アンタ、ここが海に見えてンの。へぇ……」


 狐はふり返ると、優の顔をまじまじと見た。


「まぁ、いいサ。ここは日によって視え方が変わる。今日のように彼方岸から水の流れがくると、此方岸からは中々渡れず、水嵩ばかり増えちまう、困るねェ……口が滑った、支配人さんゴメンなサい。水の流れが穏やかだろうが、激しかろうが、此方岸から彼方岸へは、ニンゲンの重たい体のままじゃあ、簡単には渡れない。……おっと、また口が滑った」


「あの、ここっていったい……」

「オーット! ウジャウジャ集まってくるなァ」


 狐が優の言葉を遮ったその横を、すぅ……っと、細長い何かが通り過ぎていった。


「え、……えっ」


 直後、ひんやりと、寒気がした。

 何もないはずの真横から突然現れた、灰色の、虚ろな影のように動くそれは人間だ。優がアクアツアーの底へ落ちてから、今の今まで一度も見かけてこなかった人間の姿。


「ひ、人だ……!」


 灰色の人は海の前で止まると、蹲るようにしてその場に座り込んだ。顔だけを上げて、無言で、海の先を見ている。


 気がつけばその隣にも、ぼぅ……と、灰色の人が座っている。その隣、また隣、隣、隣もだ。どこまでも続くしろい岸には、いつしか灰色の人がびっしりと並んで座っていた。皆、ぼぅ……っと、無言で、海の先を見ている。


「いつの間に、こんなに?」


 海の中を歩いて進む灰色の人もいた。

 けれども、とろみのある波に押し流されて、しろい岸まで戻ってしまうのが殆どだ。

 そういう人の全身はまだ濃くて、体つきも生き物としての丸みが残っている。

 先頭を進む人ほど灰色が薄くなり、体は波に削られて痩せている。

 今しがた、海に出ていった灰色の人が波とともに戻ってきた。再び海へと挑むも、その姿は少しばかり削ぎ落されて、少しばかり痩せていた。


 こんなのが狐の言った通り、ウジャウジャいる。


 ふと、嫌なことを思い出した。

 猿に放られて海に落ちたさいに、優は口に含んでいる。この海の水は生臭い、人間の命のような味がした。それって海に削がれて流れ出た、彼ら――ではないか。


 さらにこの海の水を使って身体中の汚れを落とした。猿の赤黒い血にまみれた衣服も、ぱしゃりぱしゃりと音を立て、のんきに洗ってみせた。じぶんから気味悪い悪臭が抜けないのは、そういうことか。


 今、オーロラが降ってきたらここはどんな地獄と化すだろう。

 海が燃えていたのは、なぜ。

 それは、てかてかとしたとろみのある波に、人の脂がたっぷりと溶けていたから。オーロラの熱により海面が発火したのだ。いや、空でゆらめく妖しい幕が、本当のオーロラなのかもわからない。


「アララついに視えちまった? でも、彼方岸はまだだろゥ?」


 何かがきっかけとなった。この場所に溢れる灰色の人は見えるが、やはり優にはそれまでだ。海の先にあるという対岸は見えてこない。


「はい、見えない」

「彼方岸の視えないお子サマが。こんなところ、長居すべきではない」


 優の肩に、ずしりと大きな狐の手が乗せられる。

 白黒ストライプの上着の袖から伸びるダークオレンジの体毛に覆われた、狐の手。人間のように、ぶ厚い手のひらと五本指があって、先端の爪が優の肩に食い込んでくる。死んだ猿と同じ――黒い鉤爪が。


「サて、遊園地に帰りたいだろゥ。案内してやるよ」


 狐は優の肩を掴んだまま、ぐるりと強引に身体の向きを変えさせた。






 そして声を落して、つぶやいた。


 ――異存は無ェな。愚図で役立たずの、魚の倅。


 ずっと上機嫌だった狐が、なんて冷たい声を出すのか。

 驚いた優が顔を上げると、狐はすでに離れていて、先のほうを歩いている。


「アーそうそう」


 狐がふり返った。


「俺は小鬼。遊園地の、……ジェットコースターの管理人サ」


 

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遊園地(仮) 北極ポッケ @yumecy

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