#4:命の水

 起こったことをすべて話した私は、目尻が熱くなっていく感覚をどこか遠くから見ていた。マスターはグラスを磨きながら話を聞いていたが、そのグラスは既に綺麗になって棚に並んでいる。

「逃げて来たんです。彼女を輝かせられなかったから。太陽になんて、私は、なれなかったんです」

 震える手に、グラスの氷が耳障りな音を立てる。目を伏せて、マスターは口を開きかけ、しかしその喉を動かせはしなかったようだった。

「私、もう、彼女に会えません。きっと彼女は許してくれない。ごめんなさいマスター。私、ここにも来られません。だって、彼女がいなかったら、私、このお店を知らなかった」

 マスターの目が少しだけ哀しそうに瞬いた。

「瑞月さんのことを、忘れられるんですか。瑞月さんが、あなたのことを嫌いになるなんて」

「じゃあ、どんな顔して、どんな言葉をかければ良いって言うの。彼女から逃げ出した私なんかが、今さら、どんな」

 感情が、とめどなく溢れる。

「教えて。誰か、誰でも、良いから」

 ベルの音がした。

「陽奈」

 私は、振り向くのをためらった。そこに立っているのだろうか。彼女が。どんな顔をして。それを見てしまうのが怖かったから、私は小さく目を瞑った。

 衝撃。幾度も触れた愛しい体温が、背中いっぱいに広がる。

「陽奈。ごめんなさい、私」

「どうして謝るの」

「だって私、すぐに分かった。あのドレス、あなたの作ってくれたものじゃないって。着たくなかったよ、あんなの。だから、ランウェイの上で陽奈が見えた時、私、私は」

「瑞月は何も悪くない。全部、全部、私が悪いの」

 身体に回された細い腕を払い、私は後ろを振り返った。

「なのに、どうして……」

 目の前で立ちすくむ彼女は、ボロボロのドレスを着ていた。ナップ・フラッペ色のドレス、泣いている月。

「私の太陽だから」

 聞いたこともない声色だった。涙交じりで、裏返っていたけれど、聞き零れない言葉。

「陽奈が、私の太陽だから」

 彼女は私を抱き締めた。震えている体中で、強く、どの夜よりも強く、私を抱き締めた。

「陽奈が輝いていたら、私も輝けるの。同じだよ。陽奈が泣いていたら、私も泣いてしまう」

「やめてよ」

「ねえ陽奈、お願い。私から離れないで」

「やめてってば」

「陽奈が好きなの。世界で一番。一番だよ。陽奈じゃないと駄目なの」

 私は泣いた。声を上げて、彼女の胸で。泣かないで、と、何度も彼女が呟く度に、涙が溢れた。彼女もまた、私をその身に抱いたまま涙を流す。

 傷ついた月と太陽は、いつまでも互いに縋りついていた。


 声にならない声を上げ、息すらまともにつけずに泣いて、泣いて。ようやく私たちの目から雨が止んだ頃には、私の両腕は彼女の身体にしがみついていた。

 嗚咽が収まるまで、私たちは何も言わなかった。目すら合わせなかった。ピアノが間の抜けたように鼓膜を揺らす。彼女が息も絶え絶えに口を開こうとした時、私は小さく首を振った。

「私も」

 上手く吸い込めない酸素を使って、ようやく私が発した言葉。

「私も好きだよ。瑞月。あなたが好き。私、もっと頑張るから。瑞月が世界で一番輝けるように、私も輝けるように、頑張る」

「じゃあ、私も。陽奈の光を少しも無駄にしないようにする」

「許してくれるの」

「怒ってないよ。許すも何も、ない。だから泣かないで。もう私たちの間に、悲しみなんて要らないでしょ」

 彼女は真っ赤に腫れあがった目を細めて、微笑んだ。

「さあ座って、何か飲もうよ」

「何を飲むの」

「んー」

「ナップ・フラッペはどう」

「いやだよ。陽奈はただの星じゃなくて、私の太陽だもん」

「どういうこと」

 疑問を呈した私に、彼女はクスクスと笑った。

「太陽は君、月は私。だからナップ・フラッペは、いや」

「ははは。上手いことを言いますね」

「な、何。どういう意味ですか」

 マスターの少し掠れたバスが会話に加わった。彼女と一緒になって、笑っている。納得もいかず理解もできず、どうすれば良いのか分からない私に、しかしマスターは、ホッとするような優しい声色で言った。

「いつもの。は、いかがですか」

「いつもの、って」

「次は倒れないでくださいね」

 マスターはウインクして、私たちの目の前に、テキーラとジンジャーエールが半分ずつ注がれたグラスを一つ置いた。見覚えのある色のお酒だった。

「あれ、一つだけ」

「お二人でどうぞ。一人では楽しくない儀式でも、二人でなら美味しいかもしれませんよ」

「何、それ」

「あははっ」

 私と入れ替わって首を傾げるその姿に、私は思わず笑った。それを見た彼女もまた微笑み、そっと蓋をするようにグラスを持つ。

「陽奈」

「うん、瑞月」

 私はその上から、自らの手を重ね合わせる。

『せーのっ』

 声を合わせて、持ち上げたグラスをテーブルに振り下ろす。透き通った音がして、弾けた泡に、くすぐったそうな笑い声。溢れる炭酸もそのままに、彼女が飲み、私が飲み干す。頭を揺さぶるアルコールの弾幕の中で、私は柔らかな月と唇を重ねた。ショットガン。

 このお酒は、命の水。

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チアーズ・トゥ・ルミナリー 木淵 荊 @kibuchi_key

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