後編

 この雨の中で、私は彼女についてたくさんのことを知った。


 少女のからだ、肌の艶やぬくもり、そして普段は決して出さないであろう彼女の表情と声。


 最初の、雨音に浮かび上がるくぐもった息遣いを始点に、私たちの心は春から夏へと移り変わっていった。「自分だけ動くのは恥ずかしい」などとほざいていた私は、波に乗ると、自身の発言も少女に勇気を与えるという本来の目的をも忘れ、一方的に少女に衝動を捧げていたのであった。


 ぐったりした少女が完全に意識を取り戻したときには、すでに日が暮れ、雨も上がっていた。少女は私に対して心からの謝辞を述べ、乾ききった自分の服に着替え始めた。最初の時はおどおどとしていた彼女だが、今では堂々と私に肌色を見せつけている。まあ今さら恥じらうことでもないだろうが、とにかく、私の不器用な暴走も一定の成果があったということらしい。


 少女がアパートから去った後も、私の中で少女の姿が紅葉のように鮮やかに再生されていた。床に入ってからも彼女の体躯の柔らかさが頭から離れられない。


 何とも気まずいことをしてしまったような気がするが、立ち去ったときの少女の顔は憂いも未練もないなものだったので、明日もまた、何事もなかったように話すことができるだろうと確信していた。


 だが予想に反して、あの日以来、少女が私の元に現れることはなかった。


  ◇  ◆  ◇  


 私だけを置いていって、時間は無情に過ぎ去っていった。


 色づいた紅葉は枯れ果て、はらりはらりと散っていく。幹と枝だけになった木々の団体がうら寂しく空っ風に吹かれている。


 私は季節の移り変わった公園に毎日足を運んでいたが、風景のスケッチなど、とてもする気にはなれない。いつものベンチにただ腰を下ろし、まるで世捨て人のようにたたずんでいる。ただひたすら、彼女が訪れるのを信じて。


(連絡先、聞いておけばよかったな……)


 思えば、お互いの連絡先どころか名前すら知らない関係なのだ。それなのに、私は彼女の肉的なすべてを知ってしまっている。後ろめたさはあるも、この件に関しては不可抗力と開き直るしかなさそうだ。


 私はさながら紅葉のような鮮やかさで少女に恋い焦がれたものだが、会わない日が重なるにつれて心の空きっ腹はどんどん膨れ上がり、少女に対する思いは冬の冷気におびやかされた残り火のようなありさまになっていた。年をまたぐと、期待というよりほとんど無意識下の習慣で私は公園に訪れており、気がつけば、私を差し置いて木々は新録を芽吹かせていたのであった。


 人々のようすを見ると、私は自然だけでなく人の流れから見放されていたようである。ピカピカのランドセルを背負っている小学生、きゃっきゃうふふとはしゃいでいる女子高生のグループ、おろしたてのスーツに着られて緊張している新入社員……。それらの人々が私の見る遠景の中を通り過ぎている。


 私は面白みのない無声映画を見せられた気分であったが、茫然と座り込んでいたとき、横合いから突然、声がかかった。


「お隣、よろしいでしょうか」


 私は、はじけたように顔を上げた。かねてより待ち望んでいた声を聞き違えるはずがない。


 くしくも初めて出会ったときと同じ言葉を投げかけた少女は、時の恩恵をいい方向に受け入れたようであった。静かな優美さをそのままに、大人の落ち着きがわずかに加味したようであり、春物のワンピースを美しく着こなしている。


 私は全身が打ち震え、口は開けども言葉が出ないというみっともないありさま。対する少女は忌憚も遠慮もないようすで、私の首元に飛びかかって抱きついた。


「先輩、今まで会えなくてごめんなさい……ッ」


 涙まじりの声で、私は少女のすべてを許し、同時にひとかけらでも彼女のことを恨んだ自分を恥じた。


「今まで、何をしていたんだ?」


 声の震えを隠しきれないまま私が尋ねると、少女は眼鏡越しの瞳を潤ませながら小さく頷いた。


 少女が私に会いにいけなかったのは、物理的な理由と精神的な理由があるようだ。少女が帰宅したときには夫婦の絆は破局的な方向で決着が付いていて、せっかく勇気の得た少女のいかなる説得も意味はなさなかった。少女は母親に連れられて母方の遠方の実家に住まうことになり、受験期真っ只中にもかかわらず転校を余儀なくされたのであった。新しい学校になじめる余裕もなく、親に対する愛情もとうに潰えていた少女だが、それでも私に会おうとしなかったのは、ひとえに私からもらった勇気をふいにしてしまった後ろめたさからであった。そんなこと、気にしなくてもいいのに……。


 もっとも、私に会うこと自体を諦めていたわけではなく、引っ越す前から志望していた大学に向けて必死に勉強し、この春、見事に合格したというわけだ。学科は違うが、それは私が通っていた大学であった。


「このたび、大学の近くのアパートを借りて、こちらで暮らすことになりました。もう、親の目を気にする必要はありません」

「それは嬉しいが……今、私は周りの目が非常に気になっている」


 少女ははっとなって、慌てて私から飛び退いた。らしくないはしゃぎように少女は頬を染めたが、内心、私も惜しいことをしたような気分であった。


 少女は私の隣に腰を下ろし、顔を覗き込んだ。


「先輩。お仕事は……?」

「ああ、今日は非番だ」


 私がそう答えると、少女は顔をほころばせた。


「では、この後わたしの家に行きませんか? 一人暮らしのわたしの部屋……先輩に見ていただきたいんです」

「わかった。是非うかがおう」


 私たちは同時に立ち上がる。今まで地に這う湿った冷気のような私であったが、彼女と出会うことで空気の暖流が一気に駆け抜けて、心は萌え上がり、スキップせんばかりのありさまだ。我ながら現金なものだが、春の訪れを喜び駆け回る動物の気持ちが少しわかる気がする。


 申し合わせたように顔を見合わせ、微笑みながら私たちは無言でうなずきをかわす。柔らかな風に吹かれながら、同じ向きと歩幅で、私と彼女は暖かな春の道を歩き出した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

もみじ色恋心 斉藤なめたけ @namateke3110

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ