中編
待ちに待った非番の到来だが、雨が降られては喜びも半減以下である。
さすがに雨では公園でスケッチというわけにもいかず、私は安アパートの一室で部屋の清掃をおこなっていた。少女と出会う時間になっても無数の矢のような雨は降り止まず、彼女と出会ってから初めて、公園に出向かない日になりそうであった。
食糧が尽きかけていたのに気づいたので、清掃を終えると、私は雨合羽を着込んで自転車にまたがった。嫌な顔をした……と、言えば嘘になろう。こんな雨の中、彼女がいるはずがないとわかっていても、やはり気になってしまったのであった。買い物を済まし、帰り道がてらに公園に寄ってみると、いつものベンチに人影があった。独りぽっちで、傘も差さずに雨に身をゆだねている少女の姿。三つ編みに眼鏡といういでたちは、私の顔を必要以上に鬼気迫るものにさせたのだった。
「……おい!」
「っ! せんぱ、い……っ」
間違いない、あの少女だ。こんな雨の中、私がスケッチしに来るかどうかがわからないような少女ではないはずだが、それを詮索するのは後回しだ。
少女の私服姿を、私は初めて見た。そう言えば今日は土曜日で、普通の生徒さんはお休みだったのである。すっかり忘れてた。彼女はフレアスカートにストールという暖かな格好であるが、今はそれが無残にも濡れそぼっている状態だ。水気を含んで重くなった身体を起こすと、彼女は私にしがみついてしゃくりだした。
「ううっ、せんぱいっ、せんぱぁい……!」
彼女の顔を覗き込んで、私は彼女の頬を濡らしているのが雨だけでないことをさとった。小刻みに震える身体に私は心を打ち付けられ、一瞬どうすればいいのかわからなくなってしまった。とりあえず、このまま彼女を濡らし続けるわけにはいかなかった。
「何があったかは知らないが、さっさと家に帰ったらどうだ。このままいたら風邪引くぞ」
「いやあッ! あんな家、帰りたくない! かえりたくないよお……っ」
少女は泣き叫んだ。家庭に対する拒絶感が尋常でなく、私は赤く泣き腫らした少女の瞳を直視して心が騒いだ。彼女の心情に憐憫をおぼえたからだけではない。濡れた彼女の容姿に顔が熱くなっているのを感じているのだ。
(彼女を……私の家まで連れて行ってしまっていいのか?)
ここ数日彼女と会話し、悪くない関係になっていると確信してはいるものの、連れ込むのはさすがに出過ぎた行為ではないかという気になってしまったのである。また、それ以上にきわめて俗っぽい危機感が私の不安を煽った。
(今の私の部屋は、とても人を入れられるような状況ではない……!)
部屋の掃除はしたものの、それをまとめたゴミ袋は玄関に転がしたままである。そもそも、誰かを招き入れる予定もなかったため、調度品も同性受けするようなものは置かれてないのだ。安さと機能性だけを追求して購入したツケがこんなかたちで回ってくるとは。
少女がすがるような目で私を見つめてくる。その視線の意味するところは明白であった。その小動物的な視線に、私の現実的思考が押されつつある。無意識に唾ぐらいは呑み込んだかもしれない。ついに私は恥を捨てて口を開いた。
「自分の家に帰りたくないなら、いっそ私のところに来るか? 先に言っておくが中に関しては期待しないでくれ、完全に女を捨てた部屋なんだから」
「とんでもない! ありがとうございます。すごく、うれしい……!」
そこまで感激されても困るのだが、とにかく彼女を雨に打たれさせない必要は確かにあった。あいにく雨を防ぐのが私の着ている合羽しかなく、まさかそれを着せるわけにもいくまい。傘であれば二人入ることは可能だが、そこまで発想がいかなかったのは失策である。もっとも、彼女が雨に晒されているなど易々と予測できるものではないが。
可愛らしい音が響いた。少女が濡れた手で口元を押さえながらクシャミをしたのである。さすがにこれ以上引き留めるのはよくないと思い、私は少女をうながして自転車を押して歩き出した。
「そんなに濡れればさぞ冷えたことだろう。シャワーでも浴びて身体を暖めるといい」
言ってから、自分はとんでもないことを口走ってしまったのではないかと焦ったが、濡れた少女がはじけるような笑顔で頷くのを見て、私も先輩らしく覚悟を決めたほうがよさそうだと判断したのであった。
◇ ◆ ◇
結局、私のアパートに辿り着くまで少女は濡れ鼠のままであった。私が自分の雨合羽を貸すことも提案したが、濡れるのが二人になるだけだと少女のほうから辞退したのである。もっともな話だが、なんとも歯がゆい気分だ。
移動中、私は少女から事情を聞き出すことができた。彼女の両親は夕方から深夜にかけての共働きで、近頃夫婦仲の険悪ぐあいが顕著になってきているとのことであった。激しい夫婦げんかもしょっちゅうで、離婚の話題まで出ていた。そのような修羅場を大人しめな少女に止めさせるのは酷というものだろう。唯一できる自己防衛といえば、親がいなくなるまで外で時間稼ぎをし、帰ってくる前に寝てしまうことである。朝になれば親は揃って寝息を立てているので、そそくさと弁当を作って出立すれば問題ない。寝坊することもあったようだが。
この休日、少女が目覚めの時に最初に聞いたのは夫婦の怒鳴り声と物が投げつけられる音だったらしい。彼女は恐怖と絶望で涙し、心のよりどころを求めて、雨の中、すがるような気持ちで公園のベンチに向かったというわけだ。言うまでもなく、私がいつもスケッチをしているベンチにだ。
聞き終えた私は心配と呆れをないまぜした声を上げてしまった。
「朝からずっと座ってただと? なんてバカなことを。私が来なかったらどうするつもりだったんだ?」
「か、考えてませんでした……。でも、先輩しか頼れる人しかいなくて……」
そんなことはないと思うが、約束を口にした以上、少女の期待を裏切るわけにもいかない。それに、私のもとにいれば少なくとも彼女の心がこれ以上痛めつけられることはないだろう。思いつきで公園に行ったのは我ながらよくやったと言うべきであったが、彼女のぶんの傘を用意する機転がない以上、慧眼と称すのは自重したほうがよさそうだ。
前にも述懐したが、私のアパートはとても少女を招き入れられるようなものではない。家賃の安さと引き替えに快適面と安全面を完全に排したようなボロアパートだ。その玄関に少女を立たせ、私は箪笥からタオルを取り出して彼女に渡した。少女は眼鏡を外し、三つ編みをほどいた。それから流した黒髪の水分を払い、その場で靴と靴下を脱いで素足を拭く。私は引き続き箪笥をまさぐって彼女の着替えを探していたのだが、これがなかなか難航したのだ。
まず私は滅多に服や下着を購入することがないため、彼女に着せるにふさわしいものが決められないのだ。特にブラジャーのサイズは育ち盛りの彼女と男女の体型の私とは雲泥の差である。私は一度、捜索を諦め、濡れた彼女をユニットバスに押し込みながら告げた。
「悪いが、ブラに関しては諦めてくれ。君に息苦しい思いをさせないためにも、サイズの違うブラを無理矢理付けさせるわけにはいかなかったんだ」
ノーブラを強要された少女はわずかに頬を上気させたが、すぐに「わかりました……」とかぼそく応じると、私は扉を閉めて着替えの捜索を再開した。なるべく真新しく、きつく感じさせないような(どこがとは言わないが)ゆったりとした服を選び、ユニットバスの扉の前に置いた。ついでに扉を開け、便座のフタの上に畳まれた彼女の衣類を手に取った。
「こんな家に乾燥機があるわけないからな。コインランドリーに行ってくるから、のんびりシャワーを浴びててくれ」
「あ、はい。ありがとうございます……」
いちおう浴槽とトイレの間はカーテンで隔てられており、シャワーを浴びている彼女の姿は影でしか見ることができない。髪を波打たせながら流し、肢体は優美な曲線を描いている。人間は、視覚の不確かな部分を脳で補うといわれているが、このときの私は当事者でもないのに頭が湯あたりしたような状態になっていた。
(うっ、いけない……。彼女の服を袋に詰めてさっさと出かけないと)
だが、彼女の衣類を意識しだしたとたん、私の思考はさらに危うい方向へかしぎだした。
女の子の匂いというものを、私は久しぶりに実感した。高校卒業以来、プライベートで女子と接したことがなく、私自身も半ば女を捨てたようなものだから、久しくそのような匂いに縁がなかった。ましてや、生乾きの強い匂いなど。
私はこれ以上みっともなくうろたえたが、何とか濡れた衣類を詰めてコインランドリーへ繰り出した。
◇ ◆ ◇
衣類を洗濯機に入れ、乾燥機にかけ、すぐさま着直せる状態にすると、私はそれを濡らさないようにアパートに戻った。部屋に入ると、少女はすでにシャワーから上がっていて、眼鏡を外した状態の目で私を見返していた。彼女は床の上にちょこんと膝を折っており、何かをしているようすはない。別に彼女なら好き勝手振る舞われても構わなかったのだが、それを言ってやれなかったのは明らかに私の失態である。
少女はおどおどと口を開いた。
「あ、先輩。おかえりなさい……」
見ごたえのある光景、なのかもしれない。少女はゆったりとしたTシャツを着、値段とセンスのチープさがきわだったハーフパンツを穿いていた。明らかに少女には似合ってなかったが、私の選定の中ではまだ、マシなほうであるはずだ。
少女は膝から下を若々しい肌の色をさらし、黒髪はまだ生乾きの湿気でうねっている。とっさに両腕でTシャツ越しの胸をかばったが、これは完全に仕方のないことだ。Tシャツのプリントは彼女のおっきな胸でひしゃげてしまったが、それを隠しているわけではないのは明らかで、半ば女を捨てている私でさえ、人前でそれをする勇気はない。そう考えると、純情で多感な少女にずいぶんと恥ずかしいことをさせたような気がする。
私はせいぜい声を落ち着かせた。
「もっとくつろいでもよかったんだけどな。それで、これからどうする? 雨がやんだら着替えて家に帰るか?」
少女はこわばった顔になる。腕を小刻みに震わせながら、すがるような目つきで私の顔を見上げた。
「ここにいては……ご迷惑でしょうか……?」
「私は構わない。だが、君が帰ってこないと知れたら親も焦るだろう」
「あんな親なんて……」
少女はきゅっと拳を握りしめた。彼女のようすは産みの親に対する辟易がありありと見てとれたが、良識にのっとったような少女が本気で両親と決別ができるとは思えない。同時に、あくまで赤の他人である少女を私のもとにずっと置くわけにもいかない。彼女の葛藤も理解できるが、ちゃんと親の元へ返さなければならないのだ。
少女の隣に座ると、私は励ますように彼女の肩を叩いた。
「そう強がるもんじゃない。時が過ぎれば君は嫌でも独り立ちするんだから。そのときには親のことが恋しくてしかたなくなるだろうさ」
「先輩がうらやましいです。いい親のもとで生まれることができて」
私は言葉を詰まらせた。まさかイヤミで言ったわけではないだろうが、明らかに好意を感じさせる声ではない。私は年甲斐もなく焦ってしまい、言葉が思考よりも先んじて出てしまった。
「いや、君だって、いい親のもとに産まれたと思うんだが。君と触れ合ったらよくわかる」
思い返せば、これはなかなか危うげな発言であった。彼女の嫌う親と一緒だと言われていい思いをするはずがないからである。
だが、少女の答えは私の予想を裏切るものであった。
「わたし……いい子なんかじゃありません……」
「えっ?」
「わたしは、ワガママです。ものすごくワガママな女なんです。そう、何があっても先輩のそばから離れたくないくらいに……」
「っ!」
ほどよく柔らかい感覚。
私の首に、少女の腕が絡みついている。横合いから抱きつき、豊かな胸を私の腕に押しつけているのだ。極上の感覚、とはよく聞くが、実際にその感覚を受けたのは当然初めてだ。ブラジャーのしていない、Tシャツ越しの胸は色っぽく変形をし、私は無意識に視覚と触覚を脳に直結させた。同性どうしであるにもかかわらず、心臓が踊り狂いそうになる。
「先輩……わたしを好きにしてください……」
至近距離からのささやき声。生乾きの髪の匂いも、熱い息遣いもすぐそばで感じられ、血流だけが無駄にはしゃいでいる状態だ。頭は煮えたぎるほど熱いのに、身体は妙に冷え込み、凍結したかのように動けない。雨だけがしとしとと降りしきる中、純情な彼女が魔性な女になりつつあろうとしていた。
「わ、わたしッ……痛くされても平気ですから……。だから、お願いします。このまま終わらせないで……ッ」
私はすぐに少女に対する誤解を解くことにした。彼女は魔性の女などではない。魔性の女に稚拙にもなりきろうとしていただけだ。腕も、胸も、声も、儚く震えており、それでも、心身の救いを私に求めようと必死で。家庭内における苦しみから逃れられるのであれば、私の心をほだし、ここを第二の居場所にするのもやぶさかではないといったところか。
「……うっ、ひっく、ずっ、うう、うぁ……っ」
私の傍らで雨が降った。嗚咽としゃくりが静謐を満たし、私の首筋だけが熱い雨で濡れ始める。
少女は私の首筋に顔をうずめ、痙攣させるように頭を震わせていた。少女の雨は外と同じく、おさまるどころがますます強くなるばかり。今まで累積された苦しみを清算するかのごとく彼女は声を上げて泣き出し、私の心は切なく締めつけられる。そして、頬に無数の涙の跡を這わせた少女の顔を見た瞬間、私の中で何かがはじけてしまった。
彼女を救うという大義名分がある。問題はないはずだ。仮に問題があったとしても、もう引き返せない。先のことは、今は考えないようにしよう。
私は少女の腕を引き剥がすと、逆に彼女の身体を押さえつけ、床に組み伏せた。少女のうるんだ目が驚きに見開かれる。
「せ、せんぱい……」
「言っておくが、私と君は知り合って一週間も満たない者どうしだ。特別に恋愛感情があるわけじゃない」
「……………………」
「それでも、私は君のことを放っておくわけにはいかない。これが最善の手段だとは思えないが、君が自分のしたいことを理解してるのなら、私はそれに応えたいと思う」
私の影に覆われた少女は、緊張はあれど怯えはないようすでこちらをまっすぐ見返してきた。
正直、自分のしようとすることを考えると、私のほうが先に失神しそうになったが、なんとか呼吸を整えてタチらしい風情を取り繕った。
「現状がつらいなら、私が少しでも和らげたい。そして、将来に立ち向かえるような勇気を与えたい。でも、私もこういうことに関しては素人なんだ。だから……君も積極的に動いてくれるとありがたい。私だけというのは、その……すごく、はずかしい……」
やばい。虚勢が完全に崩れかけている。本当に恥ずかしくて消え入りたいと思っていたが、押し倒された少女はそんな私をも受け入れてくれた。
泣き笑いのような表情を浮かべてから、彼女は静かに目を閉じた。
「わかりました……。先輩、わたしに勇気を与えてください……」
私の持ち前の勇気が彼女を奮起させられるかは未知数だが、このときだけ、私は彼女の最愛のひとを気取ることに決めた。
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