メル・アイヴィーと黒チョーカー

神岡鳥乃

第1話 奪われた歌と記憶

 こぼれる朝日が、ベッドで眠る少女へと優しく降り注ぐ。

 滑らかな銀の髪がそれを受け、艶やかに輝いた。

 しなやかな体躯と華奢な手足、シーツに溶けてしまいそうなほど白い肌。


 彼女には繊細という言葉がよく似合う。


 注がれる黄金色の光に瞼が微かに動く。

 長い睫毛がゆっくりと持ち上がると、サファイアのように青く瑞々しい双眸が開いた。


 視線の先には、幾何学模様の天井と、その間に天蓋が挟まっている。

 垂れ下がるシルクを目で追うと、豪奢なベッドルームが視界に飛び込んできた。扉とランプには金の装飾が施され、分厚い絨毯には花柄の刺繍が散りばめられている。


 その花弁を数えているうちに、彼女の意識ははっきりしてきた。

 しかし、記憶は曖昧なままだった。


「ここは……どこ?」


 桃色の薄い唇を動かしてみるものの、思い出せない。いや、彼女は思い出せることの方が少なかった。


 メル・アイヴィー、自分の名前。そして、ここは私の家じゃない。多分、私は何かをするためにここに来た。


 そうやってメルは思い出せることを一つ一つ並べていく。しかし、一向に今のこの状況と繋がらない。


「あ! 目が覚めたんだね!」


 不安になっていたメルの鼓膜を、明るい声が震わせる。

 はっとしてメルが顔を上げると、一人の少女が部屋に入ってくるところだった。

 メルとは対照的な漆黒の長髪と瞳、健康的に焼けた小麦色の肌。

 ほっそりとした首には黒いチョーカーが巻き付いている。

 背丈からメルと同い年くらいだろう。


 しかし、メルはその格好に思わず目を見開いた。

 少女が身に纏っているのは、灰色のボロ布一枚だったからだ。

 それはもはや、服と呼べるかすら怪しい。

 さらに手足には、痛々しく枷がはめられていて、少女が一歩動く度にジャランと重苦しい鎖の音を響かせた。

 まるで奴隷のような少女に戸惑いながらも、メルは恐る恐る口を開く。


「あ、あなた、名前は?」

「名前? 名前なんてボクにはもうないよ」


 少女がぺたんとベッドに座り込む。二人の視線がまっすぐに交わった。


「でも、君はあるよね? メル・アイヴィー」


 自分の名前を呼ばれて、メルの鼓動が高鳴る。


「良かった、本当に」

「ごめんなさい……何も思い出せないの。あなたのことも」


 目尻を垂らし、安堵する少女に申し訳なくなって、メルは小さく白状した。

 少女は、一瞬あっけらかんとした表情を浮かべたが、すぐに事態を納得したようだった。


「あ~、そっちの方も取られちゃったかぁ」

「えっ!」


 どういう意味なのか、メルは問いただそうとした。

 刹那——

 直下からけたたましいベルの音が鳴り響いた!


「うわ! 魔女からの呼び出しだ!」

「魔女?」


 きょとんとしているメルとは裏腹に、少女の目には焦りが滲んでいる。

 「どうしようどうしよう」と鎖をジャラジャラ鳴らしながら、彼女はメルの手を掴んだ。少女の手は雪のように冷たく、メルはびっくりとした。


「そうだよ。早くしないと! あの人、時間にはうるさいから」


 メルは着替える暇もなく、少女に引かれて寝室を後にした。


***


 魔女の部屋には、メル一人だけが通された。

 扉の前で少女は「頑張って!」とエールを送るが、メルは何を頑張ればよいのか分からなかった。


「失礼します」


 扉を開けると、怪しげな臭いが鼻をつんざく。

 メルは思わず眉をひそめた。

 おそらく書斎であろうその部屋は、本以外にも天球儀やガラスの小瓶、カエルやトカゲの干物など、様々な物がどっさりと積まれていた。

 中央には仰々しい釜が鎮座し、中では紫色の液体があぶくを吹き出している。


 その横で、開いた本に目を落としながら佇む一人の女性。彼女が魔女だということは直感的に分かった。

 黒いマント、黒いローブに黒い三角帽。つり上がった目尻に、色の抜けた長い髪。骨ばった手は血色が悪く、そこには宿り木で出来た杖が握られていた。


「目覚めたかい、メル」

「は、はい」


 緊張で声が裏返りながらも、メルは何とか返事をした。魔女は相変わらずこちらを向かない。


「眠ってから三日三晩だ。もう、覚めないものかと思っていたよ」


 その言葉からは、心配も何も感じ取れなかった。ただ淡々と事実を告げるような、そんな口調だ。

 そこから、魔女は口をつぐんでしまった。


 ぼこり、と弾けるあぶくの音が部屋の中を支配する。

 耐えられなくなったメルは、ずっと疑問に思っていたことを口に出した。


「あの、ここはどこなんでしょうか? 私、目覚める前の記憶がほとんどなくて」

「当然だ……アタシが抜き取ったからね」


 ぽい、っと持っていた本を放り投げる。

 空いた手を魔女が天に掲げると、そこに二つの光る玉が現れた。銀色に輝くそれらは、互いを追いかけるようにぐるぐると渦巻いている。


「あんたの記憶、そして歌声を」


 その答えに呆然とするメルに、魔女は言い放つ。


「ようこそ、魔女の館へ……メル、アンタはアタシの物だ」


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メル・アイヴィーと黒チョーカー 神岡鳥乃 @kamioka-torino

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