Hellhound on your trail
ベクテルとダニエルズを結ぶ街道沿いにある小さな町の料理屋、赤猫亭は今日も常連客でにぎわっていた。
「ベル、一番奥のテーブルにシチューを持ってってくれ!」
五十代前半の店主が言う。その顔は料理をやるにはいささか厳つかった。ごつごつとしたジャガイモのようだった。
「はい親方!」
対照的に、給仕の方はさらりとしたブルネットのロングヘアーが似合う清楚な女だった。そばかすがあるが、むしろそれがチャームポイントになっている。
「ベルちゃん、慌てなくていいよぉ~、まぁた皿ひっくり返されたらたまんねぇからなぁ」
「ちょっとぉ、いつのこと言ってるんですかぁ? このお店に来たばっかりの時じゃないですかぁ!」
「おっちゃんたちからすれば、二年前なんてほぼ昨日の話なんだよ~」
「はいはい、その節は失礼いたしました~」
ベルは歯をい「い~っ」として客に答える。
「いやぁ、でもベルちゃんのおかげでこの店も華ができて良かったよぉ、何てったってこの店、料理が美味い以外取り柄がなかったからな~」
「それ以外に何が必要ってんだ」
客のからかいに店主がぼやく。
「週に一度はこの赤猫亭で、いかつい親方の料理とベルちゃんの可愛い笑顔を見る。それだけで俺たちは文化的な生活ができるってもんだよぉ」
「いやですよぉ~もぉ~」
ベルは照れながら皿を運んでいたが、頬に手を当てながら歩いていたせいで皿を床に落としてしまった。
店中の時間が止まった。
「二年ぶり……二回目か……。」
客のひとりが呟いた。
「す、すいません!」
ベルはその皿をもっていくはずだった客に頭を下げた。
「いいさ
その声は女のものだった。しかし、まるで甘い果汁が長い時間たるで漬け込まれたできた火酒ような、独特の深みと趣がある声だった。
「は、はぁ……。」
ベルは顔を真っ赤にしてエプロンをかけたスカートのすそを掴む。
「……また来てるぜ、あの女」
「流れ者にしては居ついてんな……。」
「悪くねぇ女だ、声かけてみろよ」
「嫌だよ、ミスタの野郎がちょっかいかけて、首落とされかけたらしいぞ。女だてらに剣をもってやがる」
「……レンジャーか?」
「多分な」
「……レンジャーが居つくってことはこのあたりで仕事が?」
「ほらほらお二人さん、不穏な話しないの! あの人が常連になってくれてるのは、うちの料理が美味しいからに決まってるじゃない!」
ベルはドスンと二人の前に麦酒の杯を置いた。
そして改めて女の前に料理を持っていく。たっぷりとソースのかかったパスタだった。
「お待たせしましたっ」
女は口だけの微笑みでベルに応える。
女が料理に手を付けようとする前にベルが訊ねる。
「あの……失礼でなければ」
「食事の寸前に声をかけられるのは、もう無礼といえるかな」
女は不快さは一切見せずに言う。
「ああっすいません」
「かまわないよ、で、なんだいお嬢さん」
「あの、最近うちによく来ていただいているので、よろしければお名前を教えていただきたいなって……。」
「……キャットイヤー・ライリーだよ」
「そう……ですか……。」
ベルは厨房に戻ると親方に女の名前を教えた。
「キャットイヤー・ライリーさんですって」
「……そうか」
気のない返事だったが、この男にとっては当たり前の反応だった。
しかし、親方はベルが再びフロアに料理を持っていくとぽつりとつぶやいた。
「偽名だな……。」
それからも、キャットイヤー・ライリーを名乗る女は店に顔を出した。気難しいわけではないが、どこか打ち解けがたい女に常連は話しかけることはなかった。ただひとり、給仕のベルを除いては。
「……今日はお前さんが作ったんだね」
パスタを口に入れると、ライリーが言った。
「やっぱり……分かりますか……?」
恐る恐るベルが言う。
「素材の風味がいくつか無くなってる。たぶん、火を通しすぎたんじゃないかな」
「うはぁ……親方にも同じこと言われましたよぉ……。」
ベルは自分のおでこをペしりと叩く。
「でも、どうしてでしょうか? 味見した時はきちんと全部の素材の味がしてたんですよ?」
「きっと余熱のせいだ。温めたソースを盛り付けて客のところに持っていく間、その間にも熱は素材の中に通り続けるからね」
「なるほど……。もしかして、どこかでシェフをやってらしてたんですか?」
「調理にこれが必要な素材は悪党だけだ」
ライリーは腰のテーブルに立てかけてある刀に視線を送った。
「し、失礼しました」
ライリーが帰った後、常連の一人がベルに訊ねる。
「ベルちゃん、どうしてあの女に構うのさ。ベルちゃんが優しくしてやってんのに、いちいち突っかかる応え方しやがる」
「え~? ふふふ、気づかないんですか?」
「何がだよ?」
「あの方、たまに厨房の方を見てらっしゃるんですよ」
「厨房の……方」
常連たちが厨房を見る。そこにいるのは厳つい店主だった。
「おいおい、まさか……。」
「きっと、うちの店に頻繁に来てくれるのは……そういうことじゃないですか?」
「あのとっつぁんにもとうとう春が来たのかよ……。」
店主は厨房の鈴を鳴らす。川魚の香草焼きの乗った皿が二枚、カウンターに並んでいた。
「お前ら、くだらない話で盛り上がってんじゃないぞ」
「は~い」
ベルはうきうきとした様子で厨房に行く。
「で、親方はどうなんですか?」
「何がだ?」
「あのお客さん、結構いい感じだと思いませんか? 不愛想だって他のお客さんは言ってますけど、よくよく見ると美人さんですよ?」
「……そんな浮ついた話、俺には無縁だよ」
「いい歳じゃないですかぁ、それに結婚したって料理屋はやれますよ? 何なら夫婦で営めばいいじゃないですか」
「どこまで妄想広げるんだお前は。とっとともっていけ」
「は~い」
ベルは上機嫌に皿を持って行った。
「……そうか、俺に用があるのか」
そうして何度か訪れた後の夜、女は店に最後まで残っていた。
「お~、明日からまた仕事だよぉ~」
常連の一人がへべれけになりながら、もう一人の常連の肩を借りながら店を出ていく。
「だったらこんなに飲むんじゃねぇよ」
「この店で飯食って飲む以外の楽しみなんてねぇんだから仕方ねぇだろぉ~」
「そりゃあそうだっ」
二人はげらげら笑いながら店を出て行った。
「……愛されている店なんだね」
ライリーを名乗る女は、後片付けをしているベルに言った。
「そ、そうなんですよぉ。この町の憩いの場というか、わたしも数年前にここに引っ越してきたんですけど、料理も店主も素敵だから、無理言って働かせてもらってるんですっ」
「……そうか」
「あ、大変っ、さっきのお客さん、お財布忘れて帰ってる!」
ベルはわざとらしく言うと、店から出て行った。
店主はため息をつくと、片づけのために厨房から出てきてライリーと名乗る女の前に立った。
「いい店だ。何より、料理が良い」
ライリーは微笑んだ。しかし微笑んでいるのは口だけで、目は獲物を狙う猫のようだった。
「大したことはない。どこかで修業したわけでもないしね」
「……本当に謙遜しているわけではなさそうだ」
ライリーはマッチを爪でこすって火を灯し、煙草に着火した。
「賞賛がまるで鞭を打たれるように身に堪える……過去に何かあった男はそうある」
店主は答えずにライリーのテーブルの皿を片づけた。
「なぁ、火酒をもう一杯もらえないかい?」
ライリーは言った。
「もう閉店だ」
「つれないことを言うなよ、ふたつ、お前さんの分もだ」
ライリーはピースサインをした。
「……飲んだら帰れよ」
ベルが戻ってくると、もう女はいなかった。
「……あれ? もうあの方は帰られたんですか?」
「……ベル」
「はい?」
「あまり、あの女を面白がるんじゃない」
「は~い」
真意は伝わっていなさそうだった。
──またあくる日
「……今日は店主はいないんだな」
女は今夜は一人で切り盛りしているベルに話しかける。
「ええ、商工会の会合にお呼ばれしたみたいで……でも、会合っていってもお酒飲んではしゃいでるだけなんですけどね」
「……そうか」
「親方、あんなごつい顔どおり、お酒がめちゃくちゃ強いんですよ。だから口下手なのにお酒の席があると必ず呼ばれちゃうんです」
「……お前さんと、あの店主はどういう関係なんだい? 親子には見えないし、親戚でもなさそうだ」
「……わたしは、実家から逃げ出してきたんです。故郷ではとても耐えられないことがあって……。」
「女が生まれながらに不条理な業を背負わされる事例というのは、一から百まで挙げてもなおも追いつかないな。……しかし、手に何も持たない女が生まれた土地を離れて生きていく術というのは限られている」
「……そうなんです。わたしも最後はそういうことをしなきゃあいけないのかなって。……そんな時、この町に辿り着いたんです。いろんな町で仕事を断られて、食事も数日してなくって……そんなぼろぼろのわたしを見て、親方が「店に入りなさい」って……それから夕食を用意してくれた後、わたしに行く当てはなるのかって……。最初は、わたしもその頃には疑り深くなっていて……今は親切にしてくれてるけど、この人はもしかしたらわたしに口には出せないようなことを求めてくるかもしれないって。そういうこれまで人は大勢いました。……でも、親方は違ったんです。本当に、わたしに居場所を与えてくれて……。」
ベルは哀しげだが満面の笑みを浮かべた。
「わたしにとって、親方は親以上の存在なんです」
「……きっと、彼も流れ者なのだろうな」
「……どうして、そう思われます?」
「同じ無宿者だったから、お前さんが他人に思えなかったのだろう」
「もしかして……親方の事を何か?」
「いや、知らない。あの男についてはお前さんが知る以上のことはね」
「……もっと、知りたいと思いますか? 親方の事」
「教えてくれるなら是非とも。……しらふじゃあ話せないこともあるだろう火酒を持ってきてくれ。もちろん、私のおごりだ」
ベルは店主の事をライリーに話した。きっと過去に哀しいことがあったらしく、自分の話を話したがらないこと。この町に彼の料理屋ができたおかげで、外からも客が来るようになり、町がにぎわうようになったこと。彼のことを好きとは言わないが、この町で彼を嫌いな人間はいないことなどを。
「あの人には……幸せになってほしいと思うんです。つらいことばかりだった人生を取り戻せるくらいに……。」
「……お前さんがずっとそばにいてやればよいだろう」
「え? わたしがですか? ダメですよわたしは、子供ですし……。それに、彼がたまに見せる哀しい表情は、きっと私じゃあ癒せないんです。そういう深い悲しみがあるような気がします……。」
ベルはかなり酔いが回っているようだった。顔が赤みがかり、呂律もところどころ回っていない。
「なるほどな……。」
「だから、ライリーさんが……親方の事を気にしてくださってるならって……。」
「なぜ私なんだい?」
「……ライリーさんは、親方と同じ目をしている時があるから……。」
「……そうか」
すると店の扉が開き、肩に常連客を抱えた店主が現れた。
「親方、どうしたんです? アオタさん抱えちゃって」
「この男、飲みすぎたみたいでな、足取りもおぼつかなくって一人じゃあ帰れそうにないんで、俺が家まで連れ帰ってる途中なんだが、こいつ、意外と重くて疲れてしまってな、いったん店で休もうかと……。」
店主はライリーを見る。
「なんだ、あんた、まだいたのか……。」
「あ、親方、わたしがお話に付き合ってもらってるんですよ。歳の近い女性のお客さんって少ないですから……。」
店主は泥酔している常連客を椅子に座らせる。
「そうか……。ベル、水を一杯くれ」
「は~い」
「……大変そうだな。その男の家、まだ距離があるのなら手伝おうか」
ライリーは言った。
「無理しなくていい」
ライリーは椅子に深く座っている常連客のところまで行くと、彼を抱えた。
「おい、無理はしなくていいと……。」
ライリーは男の腕を自分の肩に回すと、すくっと立ち上がった。
店主と戻ってきたベルが目を丸くする。
「体の預けさせ方を心得れば、さほど重さを感じずに持ち上げられる。もちろん、お前さんが手伝ってくれるならより簡単に事は運ぶがね」
店主はベルが持ってきた水を飲むと、「分かった」と呟いてライリーと一緒に男の腕を肩に回した。
「……店は閉めといてくれ」
店主はベルに言った。
「はい」
そして店の扉を開こうとすると、店主はまた振り返っていった。
「ベル……。」
「はい?」
「本当は……お前にはもう教えることはないんだ」
「……はい?」
「……それだけだ」
そうして、店主とライリーは男を抱えて店を出て行った。
ふたりは常連客を家まで送り、彼の妻に彼の愚痴を一通り聞かせられてから帰路についた。
「……これからどうするんだ」
「さぁて、無宿者だからねぇ。本当は適当な旅籠屋で休もうと思ってたんだが、この時間じゃあどこも閉まっているだろうし……。どこか明け方まで開いているバーなんかはないのかい?」
「こんな田舎の町に、そんな気の利いた店があるわけないだろう」
「そうか……だとしたら困ったな、空気が湿ってる、雨でも降りそうだ……。」
「……これで、あんたをうちに呼ばなかったら、薄情者だとか吹聴されるのだろうな」
「まさか、そんなことはない。私を家に上げた後、お前さんが紳士的かどうかも査定されるんだよ」
「……まったく」
店主は自分の借家へライリーを上げた。
部屋は、寝室と物置しかないような粗末なものだった。家具といえば、クローゼットとテーブルがあるくらいだ。
「……独り身の男が毎日寝ているようなベッドだ。臭いに関しては我慢してくれよ」
店主が言った。
「平気だ、豚箱で一夜を過ごしたこともある。……ところでお前さんはどうする?」
「……一緒に寝るとでも思うか?」
「誘っても寝床を共にしそうにないな」
「分かってるならいい……。」
店主は隣の部屋から迎え酒のために葡萄酒の瓶を取りに行った。酒瓶を持って戻ってきた彼の顔つきが変わった。ライリーの手には片手剣が握られていたからだ。
「……人の家のものを勝手に漁るのか……レンジャーだと思っていたが、泥棒の類だったか?」
「……お前さんこそ、この剣、護身用にしては、血を吸いすぎているじゃあないか。包丁がなかったからと、こいつを使って鳥でもさばいたか?」
「……。」
ライリーは座ってテーブルの上に剣を置いた。
店主もライリーの正面に座った。
テーブルの上の酒瓶と剣を見ながら二人はしばらく沈黙していた。
ライリーが口を開いた。
「昔話をしようか」
店主は何も言わない。
「ヘルメスからダニエルズににかけて広範囲で、同じ下手人だと思われる殺しが行われていた。下手人の仕事は実に鮮やかで、被害者はすべて一太刀で絶命させられていた。得物を抜いている被害者もいたが、刃の様子から剣を交えた様子はない」
男は剣を見た。
「しかし、それだけだと一人の犯行だとは言い切れない。後ろから一突きする殺し屋なんて大勢いるんだからね。人間、生きてる間は隙だらけだ。だが……これを一人の人間の仕業だと言う役人がいた。目撃証言で、数回同じ特徴の男があげられたんだ。だが役人たちが本格的に男の捜査を始めようとしたところ、残念なことにその男はぱたりと犯行をやめ、姿もくらましてしまった。……捕まらない殺人鬼というのは役人の間で伝説化する場合がある。その見事な腕前から、下手人は
男は酒瓶を見る。
「喉が渇くかい? 飲めこめばいい、後ろめたいことも
男は酒瓶を手に取って、ぐいっと葡萄酒を飲んだ。喉を潤わせるためではなく、本当に喉につかえたものを取るかのように少量だった。
男は葡萄酒で汚れた髭を袖でぬぐってから話し始める。
「俺も……女で腕の立つレンジャーの話を聞いたことがある。キャットイヤー・ライリーというふざけた名前じゃあない……ファントムという通り名の女だ。“ファントム”クロウ、仕事の数こそ多くは聞んが、あのアンチェインを倒しただの、竜人の国で代理剣士として戦っただの、逸話には事欠かん女だったな……。」
「とびっきりの美人だって話が抜けてるよ」
「なら安心だ、目の前にいるのは別人のようだからな」
「てきびしいね……。で、ファントムに見初められたら、そいつの運命はどうなると思う?」
「……そんな、たいそうな噂を持つファントム様が、ちんけな殺し屋に関わるのか? 誰かに頼まれたのか?」
「その通り、過去は追いかけてくるものだよ、ミスター。お前さんにとっては数ある仕事の一つだったかもしれないが、依頼人にとっては大切な一人だった」
ライリー、クロウはテーブルの上の、まだ店主が握っている酒瓶を取ると、葡萄酒を喉に流し込んだ。
小さくげっぷをするとクロウは言った。
「……なぜ、とつぜん殺しをやめたのか聞かせてくれないか?」
「……必要か?」
「依頼人はお前さんがどういう人間なのかを知りたがってる。……お前さんが復讐に値する人間なのかをね……。」
ふたりはテーブルをはさんで見つめあう。
その間、クロウはシガレットホルダーに煙草を差して火をつけ一服し始めていた。
しばらく沈黙していたが、きっかけもなく店主は語りだした。
「……最後のターゲットは料理人だった。うちの組の
「……。」
「ガキの頃から殺しをやった……親に捨てられて死にかけてたところを、ヤクザに拾われたんだ。……そんな場所で育っちまったから、それしか生きる術を知らなかった。だが……そんな人生の中、奴らの手から与えられる食い物はまったく味がしなかった。組の頭は良いものを俺にたらふく食わせたりしてくれたが……ローストビーフもロブスターも、黒パンと味が変わらないんだ。……俺は食い物ってのは、見た目だけが豪華なもんだと思ってたよ。……だがあの時……あの料理人が作った料理を食った時、ガキの頃、捨てられる前、最後に親ととった食事の味を思い出したんだ。……その瞬間、俺は人を殺せなくなった。ひと匙の懐かしい味を思い出しただけで、それだけで俺は人を殺せなくなったんだ……。」
「心を押し殺した仕事を続けるからだ。どんな仕事だってそんなもんさ、心を殺し続ければ五体に
クロウは酒をまたぐいっと飲んだ。
「お前は違うのか? こんな仕事をやっていて、心のどこかに虚ろなものを感じたりしないのか?」
「私にとってはこいつは天職だからね。昨日は殺人鬼、今日は強姦魔、悪党の返り血を浴びて食う飯は毎日味変してて最高なんだ」
店主はクロウの左の腰の得物を見る。鞘に納められた刀、椅子に座った状態から抜ける長さではない。
そして、その視線にはクロウも気づいている。
「……生きていたいな。俺は……ようやく人生を手に入れたんだ」
「だからこそ斬る価値がある。生に執着している者だからこそ」
「……俺はもう、誰かとかかわって生きているんだ」
「振り返ってみろよ、お前さんがそのかかわりとやらをどれほど断ち切ってきたか」
「……俺は、他に生き方を知らなかった」
「その話はさっき聞いた」
男はテーブルの上の片手剣を見る。
「……やめておけ、それは良くない考えだ」
男は剣を見続けた。
次に男はクロウを見た。
とても澄んだ瞳だった。
クロウは哀し気な瞳でその瞳を見返した。
男は剣を取った。
クロウは座った状態で上体をそらし、椅子を後方に倒し、椅子の左後ろの足一点を起点に椅子を回し男に側面を向け、次に体をひねり椅子の右後ろの足一点を起点に椅子を回し男に背後を向け、最後に再び体をひねり椅子の右前方の足を起点に回った。その時にはクロウは男の右斜め前の位置を取っていた。
「!?」
男は椅子から立ち上がると片手剣を右手で抜刀し、クロウの首を目がけて剣を振り下ろす。
クロウは椅子から立ち上がりながら、左手の親指が下を向くようにして左の腰にある刀をつかんだ。
ただし、握っていたのは刀の柄ではなく鞘だった。
クロウは鍔から刀側を握って抜刀していた。
抜かれた刀は、柄と鍔の部分で男の片手剣の一撃を防いだ。
「な!?」
そしてクロウは右手で刀の背に掌を添えて刀を反転させる。
男の剣の切っ先が刀の柄と鍔の間に引っかかり下を向く。
さらにクロウは刀の背に添えた右手に力を込め、上段切りで男の顔を縦に切り裂いた。
“陰陽流 陰式秘太刀 縮寸ノ居合 ─半影─ ”
クロウは刀身を直に握ることによって、狭い間合いでも有効な一太刀を作り出していた。刀は当てるだけでは切れない、引いて初めて殺傷力を持つ。その性質を利用しての抜刀術だった。
残身するふたり。
クロウがゆっくりと刀を
納刀してからクロウは言う。
「その剣を取らなけりゃあ、お前さんを斬るつもりはなかったんだぜ……。」
しばらくすると、二人の男が部屋に入ってきた。老齢の男と若い男だった。
「お~きれいに片づけましたなぁ~」
老齢の男はそう言うと、若い男に目配せをする。若い男は革製の死体袋を広げると、血のりが広がらないよう斬られた男の傷口に粘着性の布を張り付けた。
男たちは“掃除屋”だった。
「しかし旦那ぁ、うちらは金を受け取った以上、仕事をやるだけなんですが……こんな小さな仕事のためにうちらを雇いなさるなんて、いったい何があったんです? うちらへの支払いはレンジャー持ちじゃあないですか、割に合わんのでは?」
「仕事をやるだけと言って、ずいぶん口が動くんだな」
「……失礼しました」
「なに、こちらこそ急な依頼で申し訳なかったね」
「はぁ、まぁ……道具を用意するのにちょいと手間取ったくらいでさぁ。もともと、うちらへの依頼を考えていなかったので?」
「……そんなところだ」
クロウは「後はまかせたよ……。」と言って部屋を出て行った。
クロウはダニエルズの南部の町の酒場で、依頼者の老人に仕事を終えたことを報告しに行った。
「そうか……奴は剣を取ったか」
依頼主の老人は満足そうに微笑んだ。憎悪が老齢の皴に刻み込まれたような笑顔だった。こういう場合、クロウには依頼人とターゲットの区別がつかなくなる時がある。
「しょせんは
老人は上機嫌に杯の麦酒をごくごく飲む。口の端からはよだれのように酒がこぼれていた。上機嫌な老人は、酒場の給仕の男に「もう一杯頼む」と注文を付ける。
「だが、掃除屋の件は聞いとらんぞ。あんたが勝手にやったことだ、追加料金なぞ請求してくれるなよ」
「もちろんだ、あれは私の持ち出しだよ」
「……なぜ、わざわざ報酬を減らすような真似を?」
「お前さんは雇い主だから教えよう。……あの男、過去はどうか知らんが、今はまっとうに生きてたんだよ。毎日挨拶する親しい人間がいて、お天道様に恥じることのない立派な仕事があった」
老人から笑みが消えた。
「無残に殺されたことを知ったら悲しむ人間がいるだろうね。数日奴を観察してて分かった」
「……だが、奴は剣を取ったのだろう? それが悪人だという証拠だ。我身可愛さに簡単に人を殺す奴さ。奴の知り合いにはそう教えてやればいい」
クロウは肩をすくめる。
「……剣を取ったが、あの男からは殺気が感じられなかった」
「……どういう意味だ?」
「奴は知ったんだよ、まっとうな人間になったことで己の罪を。そして罪を知ったまっとうな人間が次に求めるのは償いだ。ああすることで、奴は裁きを求めたんだ。私はガベル(裁判の判決時に裁判官が使う木槌)を振り下ろしたのさ」
「……それは、あんたの憶測だろう」
「そう思うならそう聞き流せばいい……つまりは、私たちは誰かに愛されているまっとうな人間を手にかけたんだよ、わざわざ過去から追いかけてきてね」
「知ったことかっ、あいつは……わしの息子を殺した……未来のある息子だったっ、それを、あいつは……奴は、奴は報いを受けなければならなかった!」
「奴を好いてた人間からすれば、それこそ「知ったことか」というところだろうがね」
「何なんだお前は何が言いたいっ? わしが間違っているとでも言いたいのかっ?」
「別に……ただ、お前さんは思っているよりも枕を高くして寝られないという事だ」
「むかつく奴だなっ、別の奴に依頼すればよかったっ。これだから女の仕事はあてにならんっ」
老人は立ち上がると、肩をいからせて店を出て行った。
注文の酒を持ってきた給仕は困惑しながらクロウに訊ねる。
「なぜ、あんなことを言ったので? あんな……依頼人をわざわざ怒らせるようなことを……。」
クロウは老人が飲むはずだった麦酒を受け取ると、一気にそれを飲み干した。給仕は目を丸くする。
大量のアルコールを飲んだ後、表情一つ変えずにクロウは言った。
「こういう稼業だ、これくらいの憂さ晴らしがないとやってられんのさ」
──それからしばらくして
赤猫亭の常連客は、パスタを口にほおばると満面の笑みで頷いた。
「うんっ、ベルちゃん、親方の味に追いついたじゃないかっ」
「本当ですか? キチンと味の指摘してくれる人がいないから不安なんですけど……。」
厨房にいるベルは言った。
「いやいや、俺たちは親方の味こそを愛してたんだからねぇ、変わっちまったらビシッて言っちゃうぜ?」
もうひとりの常連が口をはさんだ。
「おお~、どぉんとこいですよ!」
ベルは笑いながらフライパンを振るう。親方がいなくなってしばらくは自信がないようだったが、ここ数日で料理する姿が板についていた。店主の「もう教えることはない」という最後の言葉は本当だったようだ。
「しかし、親方、どこいっちまったんだろうなぁ……。」
「ああ、変な事件に巻き込まれてなけりゃあ良いんだけどな……。」
常連たちは突然いなくなった男を心配していた。
「ふふふ、分かりませんか?」
ベルが笑った。常連たちは不思議な顔をする。
「きっとライリーさんですよ。彼女と一緒に新天地で夫婦生活を送ってるんですよ、今ごろ」
常連たちは数秒沈黙したが、すぐに「なるほど~」と大きく相槌を打った。
「いや、ありえるわ。ああいう堅物に限って、惚れちまったら一途だし、そのまま突っ走っちまうもんなんだよ」
「思い返せば、ふたりとも妙にお互いのこと意識してたもんなぁ」
「でしょ? だからわたしは心配してないんですよ。ある日ふらっと帰ってくるって思ってますから。その時には……子供とかできちゃってるんじゃないですか?」
ベルは首を傾けて笑った。百点満点の笑顔だった。
「そうだな~、一番親方に近いところにいたベルちゃんが言うんだったら間違いなさそうだ~」
常連たちも笑って頷きあった。
ベルはフライパンを置くと籠の中の玉ねぎを取った。
玉ねぎを切る前だったが、彼女の目からは涙が流れていた。
ファントム・クロウ~転生者の娘~(短編集) 鳥海勇嗣 @dorachyan
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