図書館暮らし 三十日目
僕は蛇口を捻って、洗面台に頭を突っ込んだ。冷たい水が頭皮の隙間に染み込んで、僕のこめかみから頬を伝い、口角に沿って排水溝へと流れていく。
俯いたまま蛇口を捻って水を止めると、僕は顔を上げた。鏡を見て、僕はそこに映る自分の顔をじっと見つめた。額を筋状に流れ落ちる水。長い髪の毛先から滴る雫。採れたての桃のように熟れた、紅い頬。ビー玉みたいな瞳。小ぶりの鼻。
幼い自分にどこか似ていて、それでいて生物学的に全く違う別の生き物。
僕は―――――、君香になっていた。
十数日前から感じていた、幼くなっていくという感覚。僕は十四年前の自分に戻っていたのではなく、君香になりつつあったのだ。
それを知ってからというもの、僕はあの交差点から彼女を救い出したいと思わなくなっていた。本当の君香は今もあの交差点にいて、ここにいる君香は体だけが君香になってしまった僕自身なのだから、僕は過去を変えるために彼女を救わなくてはいけないはずなのだ。
でも、もう彼女を助けなくていいと心のどこかでそう案じている自分がいる。
気力を失ったわけではない、彼女を助けたいと思う気持ちを一秒でも切らしたことはない。きっと他にも方法がある。もう少しここで暮らしていれば、前回のように思いがけないチャンスも巡ってくるかもしれない。
それでも、僕は彼女を助けなくていい、とそう思っている。
いや、違う。
彼女を助けるべきでない、と感じているからだ。あの子をあの交差点から助け出してやるために、僕はこの世界に閉じ込められたわけではないと感じているからだ。
かつて僕は神を呪った。これほどまでに過酷な試練をなぜ課したのか、と呪った。
これは神のイタズラではない。
君香自身の、希望であり、夢だったのだ。
彼女は生前、『図書館に住みたい』と語った。
それは司書として、この職場で働きたいという意味ではない。彼女は文字通り、図書館に住みたかったのだ。図書館で暮らしたかったのだ。一日中、本に囲まれ、大好きな図鑑と寝食を共にする生活を夢見ていたのだ。そして、ここで一生を終えたいと望んでいたのだろう。
ちょうど今の僕(私)のように―――――。
君香……、これでいいんだろう?
キミの夢の中で、キミとして、キミの好きな場所で一生を終える。
あとすこしで、夢が叶うよ。
ここでの暮らしは本当に楽しかった。
身も心もキミになると、色んな情愛が腹の底から湧いてくる。
キミは本当に本が好きだったんだな。
正直、驚いたよ。
キミが一番最初に覚えた漢字はなんだったかな。
『君香』、そうか自分の名前か。
そいつはいい。
母さんもきっと泣いて喜ぶよ。
『君香』は二人の思い出の歌から来てるんだ。
知ってたか?
知らない?じゃあ、最後に聞かせてあげるよ。
君香る 薔薇の園
瞳の輝く 神が笑う
いばらの道を歩けども
花咲く野道を駆けるとも
君の往く先
道を行けよと ただ願う――――――。
いい歌だろ?
ホントによかったな。
皆に愛されて。
これで本望だ。
最期に、こんな素敵な場所で
素敵な曲を聴きながら、生涯を閉じるなんてさ………。
これで良かったんだよな?
君香。
(図書館暮らし 終わり)
図書館暮らし。 白地トオル @corn-flakes
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