図書館暮らし 十五日目
僕がこの図書館に暮らし始めて幾日が経ったのだろう。あれからバタフライ・エフェクトを期待して、何度も野球ボールを投げ込んだ。しかし、彼女の運命は変わらなかった。変えられなかった。必ずあの交差点で彼女は轢死した。最初は何となく目を背けていたものも、今となってはそれを無心で見つめている自分がいる。少しでも生の気配を感じたくて、タイヤに引きずり込まれるその一瞬間までじっと見守る。僕はもう、人間の心というものを無くし始めているのかもしれない。
そして、もう一つ無くし始めているものがある。
それは、『体』だ。
僕の体が少しずつ小さくなっている。いや、それだけではない。
手洗い場の鏡に自分の顔を映すと、徐々に移りゆく奇妙な異変に気付いた。どうやら僕は若返っているらしかった。若干二十五歳にして若返っているというのも可笑しな話だが、事実そうなのだ。一歳、一歳と幼い顔立ちに戻りつつある。ただこうして生物学の禁忌を犯している僕だが、時間軸を逆行するこの世界では当たり前のことなのかもしれない。ここが十四年前の世界だというのなら、僕も十一歳の体に戻るべきだ。その結論に至ってから、それ以上考えるのをやめた。
今の顔つきは十六歳くらいかな……、学生証の写真にそっくりだ。
―――アンタも春から高校生か……。母さん泣きそうやわ。
―――なんで泣くねん。それ中学ん時も言うてたし。
―――なんぼ言うたってええやないの。こうゆう時に息子の成長を感じるんやないの。アンタもそのうち分かる。あるいは―――、君香が生きとったらな。アンタもアタシの言うことが分かってたはずや。
―――そ。
―――君香が生きとったら今頃は中学生に上がっとる頃や。南中の制服着させたかったな。
―――うん。
―――ほんで友達ようけ作ってな、陸上部で活躍してな……、ほんであの子は勉強も頑張る子や。きっと成績も良かった思うわ。どんな夢も叶えられた思う。
―――うん。
―――でもあの子はな……、あ、あの子の夢なんやったか知っとる?
―――さあ?聞いたことない。
―――図書館の司書さんや。
―――司書?なんで?
―――あの子がほんまはどう思とったか知らんで。でもあの子、二年生の時の文集にな、書いとってん。『図書館に住みたい』いうて。
―――図書館に?
―――なんや本を読むのが好きなんやて。アタシはずっと難しい本読んどんのか思たけど違ったな。なんや図鑑が好きらしいわ。年相応の子供っぽい一面もあるんやなって私ホッとしてん。
―――そう言えば君香、よく図鑑コーナーに張り付いてた気がするわ。
―――なにアンタも知ってたんやないの。図鑑なんていくらでも買ったるのになあ……。そしたらあの子、戻ってきてくれるやろか……。
記憶の中の母は笑いながら、涙袋に溜まった涙を指で押し出していた。
君香はこの図書館が好きだった。ただどちらかと言えば、小さい頃は絵本などに興味もくれず、外で遊ぶのが好きな子だった。小学生に上がり、漢字を書くのが苦手なことをクラスの男子にからかわれ、母に助けを求めた。母が本を読むことを薦めると、君香はその日から図書館に足を運ぶようになった。家に帰ってくるとランドセルを放ってさっさと図書館に向かった。心配する母が僕に後を追うよう指示し、しぶしぶ勉強道具を持って彼女の手を取る。これが僕らの日常だった。
そんな思い出の場所に僕を閉じ込めたのは……、君香、キミなのか?
「―――?」
ブロロロロロ、と不意に車の排気音が聞こえてきた。……窓の外、駐車場か?
この無音の世界で、『外』から音が聞こえてくるなんて。
僕ははやる気持ちを抑えて、急いで一階に駆け降りていく。
エンジン音が止まり、大きく溜息をつくような音が聞こえる。
「ガレージ?」
この図書館の一階には、大型車が荷物を搬入しやすいよう大きな車庫がある。どうやら今そこに一台のトラックが入ってきたようだ。
僕は恐る恐る運転席の方に忍び寄り、中を覗く。しかし、そこには誰もいなかった。ドアフックに指を掛け、車内の様子を窺う。だがやはりそこに人が乗っていた形跡はない。鍵は差さったまま、ほんのり温かい空気が車内を包んでいた。
しかし、このトラック……、どこかで見た気が。
突然、交差点の映像が脳内にフラッシュバックする。
君香を轢いたあのトラックと、今僕の目の前にあるトラックが、一致する。
「これは……」
これは、今から君香を轢いてしまうであろうトラックだ。
なぜ、こんな所に……?
いや、それよりも今考えるべきは、彼女を救う方法だ。
このトラックを運転できるなら、やるべきことは一つ。
あの交差点に入らずに、これをどこか遠くの場所に向かって運転していくこと。そうすれば、君香に会うこともなく、轢かずに済むはずだ。
そうと決まれば、早速―――。
「あ」
僕は運転席に腰掛けて気づいた。……足が届かない。原因は分からないが、いま僕の体は徐々に小さくなっていて大人の体と全く違う。アクセルに足が届かなければ、どうやって運転する?ハンドルはギリギリ届くが、アクセルとブレーキはどうにもならない。
どうするべきかと案じていると、突然、トラックのエンジンが音を立て、駆動をし始めた。運転席が上下に微動し始め、僕は身構える。そしてそのままハンドルを握ってみると、トラックはゆっくりと前に動き始めた。
何だかよく分からないけど、この世界では最早何が起こっても不思議じゃない。僕はここでの生活に慣れ、少しずつこの世界に順応し始めていた。
駐車場を左に抜けると、一方通行の車道に出る。直進するとT字路にぶつかり、左折すればあの交差点、右折すれば彼女とは逆の方向に離れていくことになる。
僕は慣れない大型車のハンドルを切りながら、駐車場を出て、車道に差し掛かる。
……何か変だ。たった数十秒の運転の内に、僕は奇妙な違和を感じていた。
T字路に差し掛かって、僕は当然、右折を選んだ。
ハンドルを時計回りに回して、体を右に傾ける。
しかし、車体は左の方に大きく傾いて、僕は右に預けた体を車体の内ドアにぶつけた。ハンドルは右に切っているのに、車は左折していく。僕の体の向きに逆行して、左折していく。
「ちょっと待てよ……、待て待て、待ってくれ」
さっきの違和感はこれだったんだ。僕は決まった道を運転しているうちに、自分が操作していると思い込んでいたんだ。実際にはこのトラックが勝手に動いているだけで、僕は初めから運転などしていなかったのだ。
不味い、このままではまたあの交差点に侵入してしまう。
僕は懐に潜り込んで、ブレーキを思い切り踏む。
しかし、車体が止まる様子はない。
今度は左脇にあるエンジンブレーキを力一杯引く。
やはり、止まる様子はない。
「なんでだよっ!なんでっ……、こうなるんだよっ!」
交差点が見えてくる。歩道には君香の姿が見える。
僕はハンドルを限界まで回し、力を込めて必死に回す。
クラクションを鳴らそうと強く押す。
拳を握ってウインドウを殴る。
しかし、車体はうんともすんとも言わず、スピードを緩めることなく、交差点内に侵入した。青信号を見て歩道を渡る、君香を引き摺りながら―――。
(鈍い衝突音、そして卵の殻が割れる音)
僕は咄嗟に手元にあったボールペンで、自分の鼓膜を突き差し、運転席の上でうずくまった。
世界がまた暗転した。
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