図書館暮らし 七日目
あれから何日か経ったらしい。あの日の正の字は消えていて、僕はまた三時三十二分の世界に取り残されていた。
僕の説は正しかった。この世界は、彼女が亡くなる直前のまま止まっていて、僕が『外』の世界に出た途端、時間が動き出す。無残にも僕の目の前で彼女は轢き殺されてしまうのだ。僕が
神様というものがいるのなら、問いたい。なぜ僕にこんな試練を課したんだ。彼女を救えない世界に僕を放り込んで何をしようと言うんだ。
どうしようもできないと分かった僕は今日も今日とて―――この世界に『今日』という概念があるかは分からないが―――机に突っ伏して寝腐っている。
ただ、ここでこうして暮らしている間にひとつ分かったことがある。
水道から水が出る、ということだ。
日常を送っていれば当然のことなのだが、この不思議な世界ではこれが意外で驚いた。ライフラインが停止する順番は『ガス』『電気』と来て、最後に『水』と来るらしいから、水道から水が出ることは、こんな崖っぷちの世界でも存外当然のことなのかもしれない。
そして、僕はこの水だけで、32日は生き延びる。
医学博士水田公彦監修『知っておくべき人体のあれこれ』によれば、人間は水分と睡眠を摂っていれば、ある程度の期間は生き延びることができるという。またそれは年齢や性別等によって大きく異なり、僕の場合(25歳男性、身長170センチ、体重60キロ、体脂肪率17パーセント)は32日程度生き延びると推測できる。
神が僕に何を求めているのか分からないが、短い期間でも生かす気はあるらしい。それでもタイムリミットはある。その間に彼女を救う方法を―――探す。結局はそれしかないのだ。生かされているこの時間を無意味に過ごすわけにはいかない。すぐ目の前で君香が生きているんだから。救わないわけには、いかない。
考えるんだ。
『外』に出たら、時が動くんだ。
つまり―――――。
ああ、そうか。なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだ。
『外』に出なければ、時は動かない。三時三十二分のままなんだ。
僕は一階に駆け降りて、自習室の扉を開く。ここは十四年前の世界、ということは当時小学五年生だった僕はきっとここに……。
「あった」
僕は自習用の勉強机の下を覗き、机と机の隙間に隠した金属バットと野球ボールを取り出してきた。図書館で勉強をするフリをして、悪友たちと遊びに行く時に仕込んでいたものだ。僕の行動を怪しんだ母が図書館まで尾けてくるので、こうして遊び道具を
再び二階に戻ると、僕は窓際から車道の様子を眺めた。
しかし、そこには何者もいない無人の世界が広がっている。ただ僕は知っている、この窓が現実と仮想世界を隔てるバリアになっているということを。
金属バットを振りかぶって、窓ガラスを割る。モップで叩き割った時より、甲高い音が響いた。破片と化したガラスがその場に散らばって、一部が地面に落ちて割れる。停止した無風の現実世界が眼下に広がる。人がいる、車がある、風になびく木々がある。写真のように切り取られたその世界を僕は黙って眺めた。
時間が止まっていても、これが十四年前の、君香が亡くなる直前の世界だ。
「ここなら―――――」
車道がよく見える。そして、交差点に突っ込む前のトラックも見える。
野球ボールを握る。
僕がスーパーメジャーリーガーなら、ここから運転席の窓枠目掛けて投げ込むことができるだろう。停止した標的に向かって投げるくらい、容易いだろう。しかし僕はメジャーリーガーどころか、河川敷の草野球すらやってないド素人だ。そう上手くはいかないだろう。
しかし、僕がここで『外』に向かって野球ボールを投げることで、状況は変わる。少なくとも車道にボールを投げ込むことが出来るし、歩道を歩く人間にぶつけることも出来る。少なくとも本来の三時三十二分にはなかった外的要因が加わることになる。
これも科学図鑑の受け売りだが、気象学には『バタフライ・エフェクト』という言葉があるらしい。蝶が羽を動かすだけで、遠く異国の地の気候が変わる。微かな変化が、別の場所で大きな変化を生んでいる可能性を説いた理論だ。日本のことわざにも『風が吹けば桶屋が儲かる』という言葉があるように、無関係のように思える出来事が、実は別の大きな出来事の原因になっている、というのは古来の人々も言うように往々にしてある。
だから僕はこの野球ボールを投げ込んで、バタフライ・エフェクトを起こす。この小さな野球ボールが君香を救うと、そう信じて。
「よしっ」
僕は窓枠のサッシに足を掛け、身を乗り出す。ガラス窓に手を添えて、バランスを取る。下は駐車場になっている。二階とは言え、見下ろすと相当の高さがあるように見える。僕は野球ボールを投げた後、ここから飛び降りなければならない―――時間を動かすために。
僕は両足立ちのまま左手で窓枠を掴みながら、右手でボールを投げた。ボールは鉄柵を越え、街路樹の枝葉をかすめて、歩道でバウンドをする。
……今だ!
コンクリートの地面目がけて僕は飛び降りた。
『時間』が動き出す。
鳥が一斉に羽ばたき、秋空の寒風が頬を強く叩く。鉄柵の向こうで、犬を連れて散歩をしていた歩行者の悲鳴が聞こえ、同時に獣の弱弱しい鳴き声が聞こえた。
僕は鉄柵に駆け寄ると、鉄格子の隙間から外の状況を確かめる。
―――車道に血を伸ばす、犬の死体。
―――歩道の反対側に転がる野球ボール。
どうやら僕の投げた野球ボールを追った犬が、勢いそのまま車道に飛び出したらしい。泣き崩れる飼い主をよそに、僕は冷静になっていた。
それより君香は?君香はどうなった?
血が伸びる先、トラックが進入した交差点の方に目を向ける。
―――紅い血だまり。
―――持ち主をなくしたランドセル。
僕は固く握る鉄柵を力なく離して、膝をついた。
まただ。また彼女を救えなかった。
運命がそうさせるように、彼女を死に至らしめるように運命がそうさせているんだ。
僕は……、どうしたらいい。
世界はゆっくりと暗転した。
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