図書館暮らし 三日目

 受付の長机の前に、僕はまた立っていた。

 視界が歪んで床に手をつくと、そのまま倒れ込んで天を仰いだ。


 なぜ……?なぜだ?

 二回目は確実に、一回目より早く交差点に着いたはず。君香が来る前に交差点に着けたはずだ。もしかして彼女は、ずっとあの交差点にいたのか?いや、それにしてもトラックが交差点に侵入する時間も早すぎる。


 何かが可笑しい。僕は、まだ何かを見落としてるんじゃないのか……?


 一回目。館内をひととおり見回して出口を探した。鍵が開かないことを知り、途方に暮れた。結局トイレからモップを取り出してきて、叩き割った窓から脱出を試みた。


 二回目。迷わずトイレからモップを取り出し、窓から脱出。


 どう考えたって、時間差はある。二回目には、もっと早く着けたはずなんだ。

 時間差……、そう言えば僕は一回目も二回目もデジタル時計を見ている。あの時の時刻は、三時三十二分。


 僕は長机の縁に手を掛けて、体を起こした。壁に掛けられた時計の時刻を確認する。


「三時三十二分……、一緒か」


 一回目も、二回目も、この受付の前に戻ってきたとき見た時刻は、三時三十二分だった。つまり僕は、彼女の命日の三時三十二分に何度も戻ってきていることになる。彼女はこの数分後に(あるいは十数分後に)トラックに轢かれて亡くなる。


 母から当時の状況は詳しく聞いていない。学校の帰り道に轢かれてしまったとしか聞かされていない。命日は覚えていても、正確な時間までは知らない。人は生まれた瞬間を『時刻』ではなく、『一日』というアバウトな時間幅で括ろうとする。きっとそれは死ぬ瞬間も同じなのだ。誰もその一瞬間を記憶に留めようとは思わない。せっかくの誕生日をほんの一秒に凝縮したいとは思わないからだ。故人を偲ぶその思いをたったの一秒で済ませようとは思わないからだ。

 

 だが今の僕は、その一秒一刻が知りたい。


 三時何分に彼女は亡くなるんだ。

 何分あれば彼女を救うことが出来るんだ。


 誰か……、教えてくれよ。


 

「くっ……!」


 

 拳を固く握る。

 開いた手のひらに赤い爪の跡が残る。じわじわと血の抜けた部分に、血潮が巡っていく。僕はそれをしばらく眺めて、火照った頭を落ち着かせようとした。

 

 放心状態のまま、それから何分が立っただろう。感覚としては三分も経っていないように感じるが、秋の寒気にすっかり白くなった手のひらを見ていると、相当の時間が経ったことが分かった。


 こうしていられない。彼女を助けなくては。


 僕は鼓舞するように頬を両手で叩いて、短く息を吐きだした。

 

 時計を一瞥する。

 時刻は三時三十二分……、君香待ってろよっ……!


 


 可笑しい、そんなはずはない。

 ここに戻ってきた時の時刻が、三時三十二分だった。あれからここでこうして何分が経った?一分すら経ってないわけがない。


 僕はそのデジタル時計を壁から取り外し、裏面の電池挿入部のカセットを確認する。時刻変更のコントロールスイッチを押したりしながら、表の画面を確認した。


 時計は正常に動いているようだ。

 つまり何と言えばいいか、奇妙なことだが、いまこの空間では『時間』の方が止まっているというわけだ。


 突拍子もないようだが、僕がそう考えるのには理由がある。時間が止まっていると仮定すれば、一回目と二回目の時間差の合点がいくからだ。


 ただこの考えを真実と決めつけるには早計だ。何か確認できる手段が欲しい。例えば僕が一時間後に『外』に出ても、同じような状況に会えば、僕の説は立証される。

 問題は、時計の止まった世界で一時間を正しく測ることだが……、小学生の時、理科の授業で作った日時計をここで作ってみるのはどうだろう。紙ならいくらでもあるし、受付の引き出しにハサミがある。

 いや、待て。この世界はいま時間が止まっている(と仮定している)。そもそも時間の流れは地球の自転周期によるものだから、時間が止まっているなら太陽は動かないはず。よって日時計を作っても意味はない。ただ逆を言えば、日時計を作って正常に作動するなら、太陽は動いていて、時間は止まっていないことになる。作っておいても損はないが、正常に作動しなかったときムダに時間を喰うことになる。もっと確実に『一時間』を測れる方法が知りたい……。


 僕は周囲を見渡して、自分が今どこにいるのかを改めて理解した。




「これは……どうだろう」


 僕は本棚から一冊の本を取り出すと、表表紙を捲って目次に目を落とした。

 手に取った本は『時間のふしぎ』、子供向けに書かれた科学図鑑だ。



『第三章-Ⅱ どうやって決める?一秒のふしぎ』


 

 僕はその題目のページ数に指を滑らせる。



『ふしぎ博士のコラム : みんなは一秒をどうやって数えとるんじゃろうか?いーち、にーい、さーん、じゃと?オッフォッフォ……、それでは正確な秒数は測れんよ。よいか?ミシシッピで一秒を数えるんじゃ。one-Mississippi , two-Mississippi , three-Mississippi……じゃ。アメリカの子供たちは昔からこうやって数えとるんじゃな。さあ、みんなも時計を見ながら試してみるんじゃ―――』



 これは聞いたことがある。確か、海外ドラマで小さな子供がやっていたのを見たことがあるな。これは簡単にできそうだし、やってみる価値はありそうだ。


 僕は本を元の場所に戻すと、また受付の前に戻って、その場に膝をついて胡坐をかいた。


 そして静かに目を閉じると、『one-Mississippi , two-Mississippi , three-Mississippi……』と無心に唱え始める。『20(twenty)』までは音節を一定数に抑えられそうだが、『21(twenty-one)』からは音節が多く、正確な一秒を測れない可能性がある。数えるのは『1』から『20』にして、それを180セット(1時間=3600秒=20秒×180セット)繰り返す。セット数は鉛筆で床に正の字を書いていけばいい。これでピッタリ一時間測れる。


 

 

 


「―――ninteen-Mississippi , twenty-Mississippi!」


 僕は最後の一画を書き終えると、鉛筆を床に叩きつけた。正の字を数えて、確かに180セット終わったことを確認した。……これできっかり一時間。


 凝り固まった関節の節々を動かして、僕は時計の方に振り返った。


 ……、やはり時間は止まっているのか?


 僕はまたトイレの掃除用具入れからモップを取り出して、玄関の窓ガラスを割った。そして脱兎のごとく、『外』に飛び出した。

 

 ただ何も考えず走り出した、ただ交差点に向かって。今度は敢えて彼女の姿を見ないことにした。

 自分の立てた仮説に基づく立証実験の、その失敗を、これほどまでに望んだことはない。時計は止まっていたが、僕は一時間後に『外』に出てきたのだから、今は四時三十二分だ。彼女はとっくに亡くなっているに違いないのだ。

 

 とっくに―――――。


 鈍い音がした。卵の殻が潰れる音がした。

 聴覚振動を伝って、僕の瞼の裏にあの光景が再生される。


 説は立証された。


 世界はまた暗転した……、ようだ。

 

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