図書館暮らし 二日目
「―――ぃみか!―――――君香ぁ!!!」
視界に彩りが戻ると、僕はまた受付の長机の前にいた。
汗ぐっしょりになった首筋を撫でて、僕は血潮の巡る手のひらをゆっくりと握る。
あれは、君香が撥ねられた現場。その時刻。
十四年前というのは、この日だったのか。
「なんで、こんなことに……」
僕は覚束ない足取りで、新聞架ホルダーの前に立ち、一冊を手に取る。表見台に乗せたまま、じっとりと濡れた手で紙面を押さえる。
「また、だ。また繰り返してる」
僕は同じ時間を繰り返していた、彼女が亡くなる前の時間を。
壁に掛かったデジタル時計を睨んで、僕は下唇を噛んだ。
どういう経緯で、こんな状況に巡り合わせたのか分からない。ただ一つ言えることは、いま僕は君香を助けるチャンスを得ているということだ。
どうする?どうやって助ける?
交差点に入る前に運転手に停止するよう呼び掛けるか、トラックが来るより先に君香を別の場所に誘導するか。前者は、走行中の運転手に声を掛けるのは難しいので、現状、有効打とは言えないだろう。ならば後者か。君香が交差点に差し掛かるのは、今から十分後くらいだろう(先ほどは時計を見てすぐ『外』に出たわけではないので、正確な時刻は分からない)。図書館内を物色してから、『外』に出た時間を考えれば、きっとそれくらいだ。
それなら、今すぐ『外』に出れば、彼女が轢かれる前に接触することが出来る。
僕は階段を駆け下りて、事務所横のトイレに駆け込む。
掃除道具入れからモップを取り出して、急いでエントランスに向かう。
「待ってろよ、君香……!」
僕はまた大きく振りかぶって、窓ガラスを思い切りよく叩き割った。飄々とガラスの破片くずを踏みしめる。パキッ!パキッ!と二歩、その地を蹴って交差点の方へ踏み出す。
苔むしたコンクリートタイル張りの上を、駆ける。
また昔の思い出が去来する。
―――こら!君香!走らんの!また、こけんで!
―――ええの、ええの!
―――こら君香!言うこと聞きなさい!道路危ない言うてるやろ!……君香!
―――ええの!ええの!
―――もうっ!……智也、アンタお兄ちゃんやろ?あの子に何か言うたり!
―――ええやん、好きにさせとけば。
―――なんでそない冷たいこと言うん?車にでも轢かれたらどうすんのよ?
―――轢かれるわけないやん。それに、母さんまだ聞いてへんかもしれんけど、アイツ、運動会のリレーでアンカーに選ばれたんやって。それで張り切ってるんやろ。
―――え?そうなん?ソレいつの話?
―――今朝。クラス会で決まったって。四年の教室まで聞こえるくらい、大きな声で叫んでたで。
―――なにあの子、私にはそんなん言わんとって。
―――ビックリさせたかったんちゃう?
―――ビックリ?
―――運動会当日に突然アンカーだったら母さんビックリ……、あ、コケた。
―――え?ああ、もうっ!ほらっ!君香!言わんこっちゃない!あもうっ、泣かんのっ!ばっちいから傷触ったあかんよ!ちょっと待っとき!
母が僕の目の前を走ってゆく。
君香の元に駆け寄って……、二人の姿が霧消した。
いま母と同じ道を走っている。
同じように君香の元に駆けてゆく。
上下に揺れる視界の中で、交差点がはっきりしていく。
見慣れたT字路の交差点、黒ずんだガードレール、三色灯の信号、歩行者専用の押しボタン、赤いランドセルを背負った少女―――――。
「え、なんで……?ちょっと待っ」
また同じ光景が再生する。
赤信号の前に立って、ボタンを押す君香。青になるとその一歩を踏み出し、トラックが交差点に突っ込む。鈍い音と一緒に、君香がトラックの影に消えてゆく。
世界はまた暗転する。
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