図書館暮らし 一日目
僕は親指を靴と
「母さん、行ってくるよ」
僕は居間にいる母に声を掛ける。
「なになに?アンタどっか行くん?」
「うん。家にいてもやることないしさ」
「ほんなら隆志くんとこ行ってきいな。ついでに、あっこのカステラ買って来てな」
「カステラ?」
「アンタ知らんの?最近、隆志君とこのカステラ、テレビで紹介されてんで。いつも朝からようけ人並んどるわ」
隆志君というのは、実家で和菓子店を営んでいる同級生のことだ。大して仲良くもなかったので、今となっては顔も思い出せない。
「まあ、気が向いたら買ってくるよ」
僕は背中を向けて、引き戸に手を掛けた。
「ちょっと待ち」
母が僕を呼び止める。
「なに?」
「アンタ外出るんやったら、その喋り方やめ」
「喋り方?」
僕はさすがに意味が分からないと、顔をしかめた。
「東京の生活も長いんか知らんけど、標準語になっとるわ。みんな聞いたらびっくりしよるで。悪いことは言わんから、直しとき」
「気にし過ぎだよ」
「えぇ?なんてぇ……?」
母は手のひらを自分の耳元にやって、意地悪な顔をした。
「き、気にし過ぎやろ」
「よろしい。……ほんなら行ってきな。気ぃつけや」
僕は溜息をついて、短く手を振る母に背を向けて引き戸を開けた。
僕が今日行きたいのは、隆志くんとやらの和菓子店ではなく、ここから歩いて十分ほどの場所にある。
町立図書館―――、このご時世に長年改修もされず、雨ざらしになって黒ずんだ、古いコンクリート造りの図書館だ。家が近いこともあり、小さい頃からよく両親に連れてきてもらっていた場所だ。中学生になるとテスト勉強をするために、一階の自習室に入り浸った。特に勉強熱心だったわけではなく、その時期になるとそこに必ず同級生たちが集まっていたからだ。だから勉強と称して、自習室に集まった僕たちは色んな悪さをした。勉強道具をほっぽりだして、遊び回った。
テスト前の休日には同じような学生たちが、朝から図書館の前に列を作った。みな自習席をとるために、雪の降る日も白い息を吐いて開館時刻を待った。休館日と知らず、当時付き合っていた彼女と、じっと扉の前で座りこくっていたのはいい思い出だ。
図書館に行きたいと思ったのは、昨夜、布団の中で思いついたことだった。
目立った娯楽のない片田舎ですることなど限られている。
多くは母の手伝いか、近所の挨拶回りか、じっとワイドショーを見ているか、大体これくらいしか選択肢がない。
そこで僕は思い出巡りに、自らのノスタルジーツアーを敢行したのだ。
その一つ目が、この図書館だ。
そして、その前を通る図書館通り。君香が亡くなったあの交差点だ。
思い出巡りというなら、ここは外せない。
「君香……、ただいま……」
交差点隅のガードレールにもたれ掛かるようにして供えられた花束の前に、膝をつく。両手を合わせて合掌し、ふと瞳を閉じた。
瞼の裏に彼女の笑顔が蘇る。屈託のない、満面の笑み。向日葵みたいな明るい笑顔に、どれほど多くの人間が癒されたか。きっと彼女は、そのことを知らないまま生涯を閉じた。こうして彼女に劣るくたびれた花束を供えることでしか、その気持ちを伝えることができない。
君香る―――、薔薇の園―――、輝く瞳の神が笑う―――。
母が口ずさむ、君香の由来となった曲を思い出す。
そして瞼を開いた。
*
「―――――!」
景色が一変した。交差点の角から見る景色は暗転し、再び光が差した時にはすでに、横断歩道の白線も、三色のLED信号機も消えていた。
代わりにあるのは、受付の長机、錆びたブックトラック、低い背丈の本棚。
ここは……、図書館?
交差点の向こう側に、図書館はあった。僕は気づかぬ間にここまで歩いてきたというのだろうか。目の前には受付の長机。後ろを振り返ると、一階に降りる階段があって、その先に広いエントランスホールが構える。
間違いない。ここは、あの町立図書館だ。
いつの間に移動してきたんだろう、もう少しあの交差点で思い出をまさぐっていたかったのだが……良しとしよう。どうせ来るつもりだったのだ。図書館も僕の大事な思い出の一つだ。
ここも変わっていない。碁盤の目のように並ぶ本棚に、誰が利用しているか分からない郷土資料コーナー、小ぶりな円卓の上に、『大きな声での会話は禁止』という手書きの貼り紙……、懐かしい。ふと目を閉じると今にもあの頃の情景が蘇りそうだ。
「…………」
それにしても、人に会わないな。
人に会わないというのは少し違う。この図書館は背丈の低い本棚のおかげで、館内が見渡しやすくなっている。小さな子供でもどこに何が置いてあるか分かりやすくするためだ。大人にかかれば、背の表題や分類番号まで丸見えなのだ。
そんな図書館なのに、人っ子一人見つからない。利用客どころか司書でさえいないのだ。もしかして今日は休館日だったのだろうか。
僕は受付の長机の前に立ち、机上に貼り付けられたラミネート加工の貼り紙を見下ろす。開館日が書かれたスケジュールだ。休館日は毎週水曜日、今日は土曜日だし、特別休館日という訳でもなさそうだ。
だと言うのに、この静けさはなんだ。人の気配どころか、獣の息づく気配さえない。聞こえるのは自分の心臓の鼓動のみ。まるでレコーディングスタジオに一人閉じ込められたような感覚がする。不自然な静寂が周囲を包んでいる。
僕はもう一度スケジュール表に目を落として、机の上に両手を叩いた。
これは……、どういうことだ。
生唾を飲み込んで、もう一度目を見張った。
日付が、十四年前のままだ―――――。
いくら古い図書館と言えど、町民が日がな利用するれっきとした公共施設だ。ずさんな管理をしているとは思えない。ましてや、これは利用者に開館日を伝える大事な日程表だ。古い年分のものをそのままにしておくはずがない。
僕は顔を上げて、壁に掛けられたデジタル時計の日付を確認する。
「そんな……」
周囲を見渡して僕は側にあった新聞架ホルダーに駆け寄る。
そのうち一冊を―――アルミのバインダー部分を手に取って―――表見台の上に乗せた。西暦は、平成は、全て十四年前だ。
なぜ、古いものを保管しているんだ。
いや、まさか……。古いんじゃなくて、新しいんじゃないか?まさに『今』がその十四年前なんじゃないか?
「は、はは、なにかの間違い、でしょ……?」
僕は体をゆっくりと階段の方に傾けて、歩き出す。動き出した足はやがて汽車の車輪のように少しずつ、速く駆動し始める。自分でもよく分からないうちに歩を速めていて、そのうちに僕は息を切らしながら走っていた。
手すりに指の腹をこすりながら階段を駆け下り、開けたエントランスの中央を掛けていく。
ガラス窓の重厚なドアに両手をついて、勢いのまま体を預けて、押した。
しかし、ドアはビクともしない。
内鍵のフックに指を掛け、捻る。
押す。また捻る。また押す。
しかしドアが開く様子はない。
「どう……なってんだよ」
今度は振り返って階段下の先にある自習室に駆け込む。
一つずつ窓の鍵を確認して、開ける……が、やはり開かない。
誰もいない事務室やトイレの窓、搬入口の大きなガレージの扉も同じだった。全く開く気配はない。
僕は閉じ込められてしまったのか……?
誰が、いったい何のために……?
思い出そうとしても無駄だ。
絶対に開かない扉と窓、巻き戻った時間軸、全てはあのとき世界が暗転したことから始まった、空想の出来事だ。
僕はきっと、悪い夢を見ているんだ。
―――――なら、何をしたって文句は言われないよな。こんなトンチキな世界で、器物損害なんて言わないでくれよ。
僕はトイレの掃除用具入れから持ってきたモップを思い切り振りかぶって、エントランスホールのガラス窓を叩き割った。
自分でも驚くくらい大きな破裂音が、ホールに反響する。
バラバラに割れたガラスの破片を踏みしめて、僕は『外』に出た。
『外』は思っていたより日常然としていて、さっきまで無音だった僕の世界に、鳥のさえずりや車の走行音が入り込んでくる。
懐かしい記憶が、蘇る。
この入り口の前で彼女とファーストキスをしたことや、司書のおばちゃんの目を盗んでゲーセンに駆け込んだことや、両親に手をつないでもらってドアを潜り抜けた先、この天井の低いエントランスホールを見上げたこと……、色々な記憶が走馬灯のように甦る。
あの交差点が遠くに見える。
「…………」
そこには、一度も見たことがないはずなのに何度も脳内で仮構築した光景が広がっていた。
横断歩道の歩行者ボタンを押して、信号が青になるのを待つ一人の女の子。
あれは、間違いない。君香だ。
「君香……?君香っ……!!」
僕は交差点に向かって、地を蹴り出した。
信号が青になって彼女が手を上げて、横断歩道の白線に足を掛ける。
道の先で、一台の大型車が轟々と風を切りながら、交差点内に侵入しようとしていた。
車が減速する気配はない。
運転手の顔は、よく見えない。
「君香っ……!君香!逃げろ!!」
君香は僕の声に気づいたのか、迫りくる車の気配に気づいたのか、慌てて歩幅を大きくして横断歩道を通り過ぎようとする。
しかし、遅かった。
鈍い衝突音がして、吹き飛んだ君香の体が路上に叩きつけられた。その上に車が覆いかぶさると、しばらくして卵の殻を踏み潰したような音がした。
「ああ、ああ……、君香―――――」
世界はまた暗転した。
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