図書館暮らし 前夜


「夕飯、焼きサンマでええ?林蔵のおっちゃんが秋サンマ揚げてくれたんやけど」


 母が襖を開け、ぬっと首だけ突き出す。僕は頬杖をついたまま、「うん」と生返事をした。


「あっ、アンタ、サンマ苦手やうとったっけ?」

「それいつの話だよ」


 僕は小さい頃に、興味本位でサンマの内臓を食べた経験がある。あの頃は独特の苦みがどうにも口に合わず、また腐った芋虫みたいな、グロテスクな見た目がより一層、僕にトラウマを植え付けた。


「なに?食べれるようになったん?」

「昔から食べれなかったわけじゃないよ」

「『こんなんよう食わん』て捨てとったやん。東京で食うとったん?」

「別に」


 僕は母の問いかけに、答えにならない答えを返す。

 母も僕の不愛想な返事に興が冷めたのか、何も言わず台所に戻っていった。


 初めての帰郷。僕は、上京して以来一度も帰ってこなかった実家に帰ってきていた。その空白は期間にして、三年半。三年半ぶりに帰ってきた家は、あの頃飛び出した家の様子と一ミリも違わなかった。ザラザラの土壁があって、所々破れた障子があって、傷だらけの五尺座卓がある。和ダンスにはマジックで書いた落書きがあって、鏡面の白く霞む姿見が、図体のデカくなった僕を枠いっぱいに映す。


 何も変わってない。


 仏壇に飾られた、妹の笑顔の遺影も―――――。


 僕には三つ年下の妹がいた、名を君香きみかと言った。

 両親の好きな歌謡曲に『君香る、薔薇の園―――』というフレーズがあり、君香の名前はその歌詞から名付けられたという。智也、という僕のありきたりな名前とは違い、何と情緒豊かな名前だろうか。


 君香は、笑顔眩しい元気な女の子だった。親族の誰に似たのかとても勝気な性格をしていて、その男勝りな性格は周囲の男の子たちを圧倒していた。同年代の子たちと比べて背丈が大きかったのも影響していたと思う。徒競走をさせれば堂々一着、野球をさせれば必ず出塁し、サッカーをさせれば彼女の足元からボールが離れることはなかった。勉強だって出来た。幼少期からずっと公文に通っていたので、足し算や引き算はお手の物、掛け算だって九九くらいはもう幼稚園のころにはそらでとなえていた。漢字を書くのはそれほど得意ではなかったようだが、母が読書をするよう薦めると、君香は面白いほど本の世界にのめり込んだ。

 友達にも恵まれていて、彼女の周りはいつも誰かが囲っていた。キミちゃん、キミちゃん、と誰もが彼女を慕っていた。いつも笑顔の中心だった。


 しかし、彼女はわずか八歳という若さで、この世を去った。


 牽引式の輸送大型車に撥ねられた。全身を強く打ち、重さ一トンもあるタイヤの下敷きとなった。下校中、図書館通りの交差点。勢いよく車道に飛び出しところを撥ねられた、らしい。運転手によれば、彼女が急に飛び出してきたので、ブレーキをかける余裕がなかったという。両親は「そんなはずがない」と強く訴えた。あの交差点は保育園の時から歩いてきた、通い慣れた通学路だ。小学校に上がってから何度も同じ交差点を通って、ひとりで登下校を繰り返している。幼い娘とは言え、車道に飛び出すような真似はしないと訴えた。だが実況見分の結果、警察の下した判断は『子供の飛び出しによる事故』だった。また君香は当時八歳、事理を弁識する能力があったと見て、彼女に相当の過失割合が認定された。かくして運転手の罪は軽くなり、いまは残り少ない服役期間を過ごしている。


  

「ちょっと智也!」


 襖の向こうで母が僕を呼ぶ声がする。


「なに?」

「こっち来て、手伝ってな」

「なにを?」

「ええからちょっと手伝って」


 僕は重い腰を上げて、台所に立つ母の元へ向かう。

 母はアルミ鍋から味噌汁をよそう所だった。


「これ、ちょっと運んでくれへん?」


 母はそう言って漆塗りの汁椀を、お盆に乗せた。


「三つ?……今日、父さん組合で帰ってこれないんじゃなかったの?」

「ええのええの、ええから持ってって」


 僕は眉根をひそめて、お盆を持ち上げた。

 襖を足の指先で開け、居間に運んでそれを座卓の上に置いた。一つ、二つとそれを置いていくと、また母の声が聞こえた。


「アンタ、ランチョンマット持って行ってへんやろ!それ敷いてや!また机しろうしてまうんやから!」


 白い湯気をくゆらせる熱々の汁椀を見て、僕は慌ててそれをお盆に戻した。

 この机は表面にコーティング剤が塗られていて、熱を加えると白い跡が残ってしまうのだ。


「ほい、ランチョンマット」


 母は台所に戻ってくる僕を待ち構えて、巻物みたいにクルクルになった布切れを放り投げた。僕はそれを広げてシワを伸ばした。渡されたのは、だ。


「母さん、これ二枚しかないけど」


 母は僕に背を向けて、蛇口をひねった。


「母さん、聞いてる?」


 僕の声が水の音に掻き消される。母は、小さな手に余る量の水をすくって、入念にその手を洗う。


「……」


 母は水の音で聞こえないフリをしている。その下手な誤魔化しに、僕は胸が痛むような思いがした。母にそんなことをさせてまで鈍感を装う僕の行動が、とても極悪人のように思えてきた。


 分かっている―――、もう一つは君香の分だ。


 仏壇に供える、君香の分だ。母はいつも家族全員分の料理を作る。その中に、君香の分を欠かしたことはない。彼女が使っていた茶碗も汁椀もお箸もフォークもスプーンもコップも、彼女が亡くなるまでずっと使っていたものを使用している。


 思春期だった僕は、母の未練がましいその行動に癇癪かんしゃくを起こしたことがある。


 いなくなった人間をそこにいるかの如く、いつまでもその影を追う母の奇怪な行動に、僕は物悲しくなって、つい感情を爆発させてしまった。


 母はその時も同じように、僕の言葉を無視した。

 空を舞う蝶々を追いかけるように、虚ろな目がゆっくりと流れていた。



「ごめん、母さん」


 キュッと蛇口の水が切れる。


「え、何か言うた?」

「いや、何も」

「変な子」


 居間に戻ると、母は何事もなかったように、君香の仏壇に、彼女の分の夕飯を並べた。僕はそれに気づいていないフリをして、テレビの電源を入れた。適当にチャンネルを合わせて、箸に手を付けた。


「智也」


 母の短い呼び声に、僕は体が硬直する。


「なに……?」


「いただきます、せんと」


 母は振り返って、微笑んだ。


「あ、ごめん……、いただきます」


「ぎょうさん食べや」


 僕は白く濁ったサンマの目ん玉を見つめて、そのに箸を刺した。



 


 


 






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