あの夏から何年かたって、僕は街を離れて東京に住んでいた。だれも僕のことを知らない新しい職場で、僕はなんとか日々を過ごしていた。

 なにもかもが夢だった気もするし、なにもかもが現実だった感覚がある。なによりも、手許に残されたそれが、彼女がたしかに存在していたことを証明している。

 青空を羽ばたく、透明な羽根のブレスレット。

 新しい職場で、何人ものひとたちがこのブレスレットを褒めてくれた。「あら、きれいねえ」「見たことない材質」「どこに売ってるのかしら」「だれかからもらったの? とてもたいせつにしているようだけれど」

「ええ、まあ……」

 僕はあいまいに笑いながら答える。ブレスレットはいつまでたっても新品のように輝いていた。それもそうだ。まわりのすべてが真っ黒に焼けただれた事故現場で、ただひとつ光を失わなかったものなんだから。

 東京の冬は寒い。

 ここにはたくさんの人たちがいて、知らない顔であふれかえっていた。駅で乗り換えをするのもひと苦労。ただ歩けば着いていた以前のアパートとは大違いだ。でも楽しい場所もたくさんある。もう少し落ち着いて時間が取れるようになったら、ひさしぶりに萩と下松にでも連絡を取って、東京に誘ってみようか……。

 そんなことを考えながら会社帰りの道を歩いていると、向こうからきれいな色をしたコートを着た女性が歩いてくるのが見えた。青白い色のコートだ。うつむきがちに道を歩いてくる。東京に知り合いなんてほとんどいないし、こんな大勢のなかでその数少ない知り合いにばったり逢うなんてないだろうから、ふだんであればそれほど気にも留めずすれ違うだけのはずだった。

 でも、そのときはなにかが違っていた。僕はそのコートの女性から目が離せなかった。

 大人びた表情のなかにあどけない面影が残る。群青色の瞳がまっすぐ前を見据えている。そしてその首元には、ちいさな貝殻のチャームがついた、白銀色のネックレス。

「……っ!」

 僕はとっさに声をかけようとする。でも、どうしてか言葉が出てこなかった。そのあいだにも女性は歩を進め、やがて、東京の雑踏のなかに消えて見えなくなった。

 彼女の後ろ姿が消えたほうを見ながら、僕は溜息をつく。

 元気で暮らしているだろうか。困っていることはないだろうか。いまもまた、あの群青の瞳をきらめかせながら笑っているだろうか。

 彼女が幸福であればそれでいい。

 僕は自分のコートの襟を寄せてまた歩き出した。彼女とは反対方向だ。きょうは雪が降るかもしれない。夜は冷えるかもしれない。眠りに落ちて夢を見て、目を醒ませば朝が来る。その光のなかで、彼女が笑っていればそれでいい。迎える新しい日々のなかで、彼女が幸福であればそれでいい。



 いつか神話になるこの物語を、僕はまだ、だれにも語るつもりはない。

 その想いに応えるように、ぴちゃん、とどこかで音が響いたような気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

さよならの神話 音海佐弥 @saya_otm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る