初夏

第26話 青と白

 そんなに驚くことある? と青菊あおぎくは、目の前に座る父親に聞いた。

 えいから連絡があったのは午前十一時頃で、今は昼過ぎだ。夜まで待てばてんりょう号は鋭児の住む鴬台おうだいの空港に接岸するのに、その約八時間が待てなくて連絡船バスを乗り継いで来たという。


「だって父はびっくりしてしまったんですよ? 母は大笑いしていたけどね?」


 変に語尾の上がるガタピシした喋り方で鋭児は答えた。

 上七階、あけぼのドラッグの横道に入ってすぐの喫茶店はこれまでにも何度か使っている。この辺りなら芸能人がうろうしていてもネットワーク上に垂れ込まれたりしにくいし、毎回青菊の私室に行くのもなんだから、とここで待ち合わせることが多かった。

 あの雪閉せっぺいのクリスマスから半年が経っている。


「話は聞いてるよ。お姉ちゃんも変名で出すんでしょ。覆面作家でいいってことで出版社とも話ついてるって」


「いやいや待って。おまえらの間でももう話ついてんの?」


「ついてる。正確に言うと、鍵倉かぎくらはなサイドとあまゆきサイドとで話がついてる。私はもう見本も確認した」


「ビジネスかよ」


「そうですよ」


「冗談じゃねえ、とんびが鷹を生むとはこの事だよ……」


「いやそこは、蛙の子は蛙、にしときなよ」


「言うわね……」


 年配の店主がコーヒーを二つ黙って運んできて、また黙って去っていった。とにかく店主が喋らないことに定評のある店だった。

 鋭児は近頃珍しくなった角砂糖を砂糖壷から三つカップに落とし、かき回す前に飲んだ。動揺している。


「それにしてもおま……おまえらときたら、俺を驚かせてそんなに嬉しいのか……」


「割と嬉しい」


 娘の即答を受けて鋭児はため息をついた。




 なんか最終選考に初めて残ってた、としらがメッセージを送ってきたのが、遅れに遅れた桜の開花の頃だった。投稿していた小説の公募審査を一次二次と進んで、最終選考まで残ったという。様々な公募に投稿を始めてから二年あまり、これまでは一次に入ったことさえなかったというから、今回は明らかにいつもと違っていた。それまで純文学やミステリを書いていたが、今回だけはファンタジーで広義のSFなのだという。

 それから初夏の香りがし始めたつい数日前、今日の鋭児のように白音は急に天菱までやって来た。そしてこの同じ喫茶店の同じ席で、芝居でも見たことがないくらい深刻な顔をして言ったのだ。


――新人賞を獲ってしまった。


 すなわち、白音は受賞作著者の天樹雪として、写真家鍵倉花に作品の使用許可を求めに来たのだった。作品は長めの中編で、まずは小説雑誌に掲載される。天樹雪は覆面作家として運用しプロフィールはほとんど明かさないということも、作品のタイトルバックに鍵倉花の写真を使いたいということも、出版社側は了承したということだった。


――だから、そのうち担当編集者か誰かから鍵倉花に、作品の使用許可を求める連絡がいく。写真はもう決めてあるの。でもどの写真が希望か聞く前に、まず小説を読んでほしい。


 その場で白音は原稿ファイルを青菊に送り、青菊は携帯端末ワンドからファイルを開く。

 コーヒーを一口飲んでから読み始めた。

 その瞬間から読み終わるまで、コーヒーのことも目の前の白音のことも一切思い出さなかった。

 タイトルは『青と白』。スチームパンク系統の世界観をもつ魔術的サイエンスファンタジーでゴリゴリのノワールだった。




 鋭児はまだ作品を読んでいないというので、青菊は正直に、勿体なかったね、と言った。


「作者がお姉ちゃんだと知らないでフラットに出会って読んだ方が面白かったんじゃないかな。私もその点だけはちょっと残念だった。いっぺん記憶喪失になって何もかも忘れてからもう一度読みたい」


「うわっ。期待できる言い方」


「まあ、読むときは私の言ったことなんかなるべく忘れて読んで」


「そうします」


 ようやくスプーンでカップの中身をかき混ぜながら、鋭児はやれやれといった調子で笑う。


「えらいもんを娘に持ってしまった。二人も」


「そんなの、私だって子供の頃から思ってたよ。とんでもない人たちの家に混ぜられてしまった、って思ってた」


 以前はそれが痛かったけれど、今はもう違う。

 自分が自分を認められるようになったと思う。好きなものを、これが好き、と言えるようになったと思う。居場所は自分で探すもので、だからこそ見つけたときは嬉しく、帰る場所があることも嬉しい。

 今は、自分が恵まれていると心から思う。



 夜から仕事があるという鋭児を連絡船バスターミナルで見送って、青菊は軽い足取りで天菱の船内を歩く。

 ポケットに携帯端末ワンドとポータブルラジオ。フィルムを詰めたオリガを長いストラップで斜めがけにして、耳にはワイヤレスヘッドホン。チューニングしたラジオ天菱からせきと猫のはやの声がする。スタジオにはかいもいるだろう。

 下七階の旧ジェット発着場に入ると、人も飛行機もいない。柴はまたどこかを飛んでいる。本田と名前の入ったヘルメットがベンチに置きっぱなしだ。あの二人と唐沢さんあたりでどこかに行ったのかもしれない。

 柴さんは結局まだお姉ちゃんに会ってないんだな、と青菊は気が付いた。あの雪閉の日にオリオーザに乗せはしたが、顔までは見ていないはず。


――姉は特別美しいのです。


 以前そう言った手前、ちょっとうちの最高に美人な姉を見てもらいたい気もするな、と思ったが、一秒で思い直した。

 白音を柴に紹介する日が来たら、こう言おう。


――姉は小説家で、あのとき柴さんがクリスマスプレゼントにくれたガレット・デ・ロワから小説を書いたことがあるんです。


 誰もいない待合ロビーのベンチに座って、携帯端末ワンドのディスプレイを広げ、『青と白』の原稿ファイルを開く。

 表紙をめくると、物語は、魂に空のキーをもつ妹と雪のキーをもつ姉の二人姉妹が、魔術工学で作られたスレイに乗って六ピースからなる機密文書『ガレット・デ・ロワ』を届けにいく雪の深夜のシーンで始まる。配管だらけであちこちから蒸気を噴くスレイが雲海の上に飛び出すと、姉と妹はこんな会話をする。



『確かに、夜空はきれい。これが良くてあんたは、空の上に住んだのね』


『そう。朝も夕方も夜も、雲の上は最高』


『昨日みたいな事件があっても、やっぱりここがいいの?』


『当然。私は空の娘だもの。ここが私の居場所なの』



 それはあのクリスマスの朝に、真っ白な雲海を見ながら青菊と白音が交わした会話そのものだった。


 原稿ファイルの上に重なって、不意にメッセージ受信の通知が現れる。鍵倉花の二冊目の写真集に関する出版社からの連絡だ。

 結局もうしばらくの間、青菊の身元は明かさずにやっていくことになった。だから、あのとき断られた白音の写真は当分、公開の予定がなくなっている。

 いつか公開する日も来るだろう。あの事故のあと白音は、必要なら考え直すからまた確認取って、と伝えてきた。

 いつになるだろうか。

 今はもう、恐れずに考えることができる。

 中原家の娘だと明かしても、自分は自分だという気持ちでやっていくことができるような気がする。両親にも白音にも迷惑になるのではないかと考えなくて済んでいる。


 ちいさな私。

 結構、無力な私。

 でも、きっと自分の感じた美しいものを、他の人に見せることができているはずの、私だ。


 青菊は出版社にメッセージの返信を済ませると、再び小説の世界に戻った。


――さあ、この広い空をめぐる冒険が始まる。







〈了〉


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青と白 ―巡航船第九天菱号のクリスマス― 鍋島小骨 @alphecca_

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