第25話 クリスマスの朝に――8時26分、第九天菱号

 太陽は南中を目指して今まさに軌道の頂上に駆け上がるところだった。真っ白に輝く雲海はごくゆっくりと波立ち、空は宝石のように青く広い。

 相変わらずあまり人気のない客分船員専用の展望室では、テーブルの上でホールケーキ用の箱が開かれつつある。

 底紙を慎重に引き出すと、半透明の紙に包まれたパイが出てきた。フランス語で何か書いてある。


「一人一切れ、自分で選んでください。勢いよくかじらないでください。歯を痛めることがあります……?」


 フランス語が多少分かるしらが読み上げると、何で歯、とえいが呟く。シールを取って紙を開くと、中にあるのはやはりパイだ。あらかじめ六つに切り分けてある。


「わかった」


 青菊あおぎくは鋭児が外した金色のシールを指につけて頷いた。


「これ、ガレット・デ・ロワなんだ。お正月の。というか公現祭エピファニーの」


 くるりと手を返して見せた金色のシールには、王冠の模様と「galette des rois」の文字がある。


「そんじゃクリスマスケーキではないな?」


「まあいいんじゃない、何も絶対に一月六日の公現祭に食べなきゃいけないってものでもなし。少なくとも今日クリスマスで降誕節には入ったんだから」


「よし分けよう。あ、その前に飲み物おかわり何がいい」


「紅茶!」


「はい、白音は紅茶。青は」


「えーとじゃあ、珈琲ください」


「了解」


 展望室内の自動販売機に歩いていく鋭児を見てから、白音は窓の方を振り返った。


「しかし凄い眺めだよねえ……」


 白音が泊まった船室キャビンはインサイドで、本物の窓はなかった。今朝起きて、昨夜のうちに買い込んだパンとサラダを持ってこの展望室に来てみて初めて晴天の下の雲海を見たが、写真や映像で見るのとはまるで違う。現実は、あらゆる色が光を発するように輝く。

 世界は眩しい。まあ、この場合は多分に、一面の雲海が真っ白で遠慮なしに光を反射しているからだろうけれど。


「これが良くて空の上に住んだわけか」


 視線を受けた青菊は、素直に頷いてやはり天海を見ている。


「朝も夕方も、夜も最高」


「昨日みたいなことがあっても、やっぱりここがいいの」


「うん」


 迷いもせずに答えるのが面白くて、白音は笑う。

 人生は一度きりしかない。つまらない我慢なんかせずに好きなもの、好きな場所を求めて当然なのだろう。いつ何があるかわからないのだから。

 そしてこの一度きりの人生のなかで、この妹に会えるのはお互いが生きている間だけだ。どちらかが死ねばもう二度と出会えない。


「参っちゃうな……」


 白音は呟く。顔を両手で覆う。まぶたの上をちょっと押す。前髪をゆるくはねてよけ、手を顔から外す。

 青菊を見た。目が合う。青菊の意識がこちらにロックされたのが分かる。青菊を見た白音の目は、芝居の現場で身につけた、相手を掴まえる目だ。それがこんな時に出てしまう。

 全力を使わないと、言えない。


「青菊、今までごめん。あたし、いつまでもねた子供のままでいられるような気がしてた。あたしが青菊に嫉妬してることは、青菊が悪いわけじゃない。長い間、嫉妬やコンプレックスを飼い慣らせなかったあたしが悪い」


「コンプレックス?」


 本当に意外そうに、何となれば心外でさえあるかのように青菊は復唱した。


「パパに似たかったの。青菊の才能はパパに似てる。それが羨ましかった。ああもう分かってるの、顔かたちがママに似たのは嬉しいし普通それで十分なんだけど、あのねえ、つまり子供なんだよ。あたしが。一部じゃなく全部欲しかった。欲張りだった」


「お姉ちゃんにも欲しいものがあるんだ……」


「ある。百パー満足して生きてる人間なんていない」


「それはそっか。じゃあお姉ちゃん写真撮る?」


 まあ、写真も好きは好きだけど。

 ほんとはパパのオリガも借りて使ってみたいけど。

 でも、一番にやりたいことは。


「小説を書きたい」


「……ああ。パパの、そっちの成分」


「そう」


「その方向は、私にはないけど……」


「あるよ」


「だって写真だよ? 私のは」


「あんのよ。あんたっていつもそう。自分の持ってるものに無頓着なの、そういうところがねえ、あたしのガキな部分を逆撫ですんの」


「ごめん」


「謝らなくていい。さっき言った通りこれはあたしが悪い。……青菊、いいか。写真一枚でも物語を感じさせることはある。写真家なんだから、分かるでしょ。あたしは、パパの撮る絵にはそれがあると思うし、あんたの写真にもあると思う。それが羨ましいの。あたしは、自分も物語を生み出す側になりたい」


 創る側になりたい。


「才能あるかどうか分かんないし、あっても続けられる人ばかりじゃない世界なのは分かってるけど、頑張るから。いま頑張ってるから、もしもいつか、」


 もしもいつかあたしの小説が世に出ることがあったら、表紙に鍵倉かぎくらはなの写真を借りたい。


 そう告げると青菊は――鍵倉花は、いーよ、と言って微笑んだ。

 昨日から妹の、見たこともない顔ばかり見ている。自分が長い間見ようともせずに来た青菊がようやく見えている。

 多分これで良かったと思う。自分はようやく、子供っぽい嫉妬を手放す。


 話し声が近づいてきて、そちらを見やると、鋭児と一緒に本田かいとあと二人、知らない男がいる。作業服を着て腰に軍手やタオルを下げている中年の男と、くまの濃い目に眼鏡を掛けている若い男。

 ああ、と青菊が柔らかい声をあげた。手を振っている。知り合いか。

 視線を送ると、みんな天菱の住人、と言って青菊は彼らを紹介してくれた。作業服のほうが海里の父親で天菱号の技師。眼鏡のほうがラジオ天菱のパーソナリティ。昨夜放送から聞こえていた声の主だということは、喋り出してすぐに分かった。鋭児と青菊から聞いた限りでは、みんな今朝早く旧ジェット発着場へ駆けつけていたはずである。

 鋭児はたまたま見つけた彼らを、ガレット・デ・ロワの仲間に誘ったらしかった。

 この公現祭エピファニーのお菓子を青菊に持ってきたのは柴というあのパイロットだ。鋭児がこっそり教えてくれた話によると、旧ジェット発着場に帰ってきた柴からクリスマスプレゼントだと言われてこの箱を受け取った青菊は、見たこともないくらい嬉しそうだったという。

 そういえば、と白音は思う。実家に一緒に住んでいた頃、青菊が両親や祖父母以外の人からプレゼントをもらうということはほとんどなかった。時折家を訪ねてくる両親の友人知人が手土産をくれることはあったが、青菊が友達からプレゼントをもらったという話は聞いたことがない。聞いたことがないだけであったのかもしれないが、とにかく見たことはない。

 それに、両親からのプレゼントでも青菊は反応の薄い子だった。嬉しくないのだろうか生意気な、と思っていたこともあった。でもそれはもしかすると、子供の青菊が遠慮を前面に出した結果だったのかもしれない。



 おうぎやまに家出するまで青菊は、自分はこの家の子ではないに違いない、と思っていたという。パパにもママにも似ていなくて、お姉ちゃんと比べてもあまりに平凡で何にも出来ないから、と。

 その晩、夜の空港を眺めながら鋭児は、青菊が生まれたときのこと、どんなところが両親や祖父母に似ているか、ひとつひとつ話した。それから、目立って優れたところがなければうちに相応しくないなんてことはない、と話し、それはそれとして青菊にはちゃんと優れたところがある、と話した。朝までかかって。


――それでもあいつの考えを根こそぎ変えるまではできなくて、たぶん中学生の間もかなり辛かったんだろうな。写真は旺盛に撮ってたけど、急に、フィルム代や現像代がかかるのが申し訳ないからバイトしたいとか言い出すし、やっぱりどっか自分を異物だと思ってたんだろう。それで受験の頃から高一の途中まで、本格的に参っちゃった。


 鋭児が言うように、青菊は中三から高一の夏まで、相当に調子が悪かったのだと思う。受験には行き合格もし、休みがちながらも高校には通ったが、ほかには何もできず一目散に帰宅しては倒れて寝てしまう日々が続いた。土日も何もできず、金曜の帰宅から月曜の朝に無理やりシャワーを浴びるまでずっと自分の部屋で寝ていた。食事もあまり摂れず青白い顔をして痩せた。

 そのとき白音がどうしていたかというと、見ない振りをして仕事に打ち込んでいた。苛々したからだ。そんな風にして心配させて、注目を集めたいのかと。

 実際のところ青菊は、頭では自分は異物であり邪魔物のはずだと思いながら、心では愛されたがっていたのかもしれない。そういう意識と感情のアンバランスが心身に症状を起こさせていたのかもしれない。

 あの頃、妹の状態を親の気を引くための仮病ではないかと思っていた自分を白音は苦々しく思う。幼児のようにまつわりついて親の気を引くような言動ができないからこそ青菊は苦しかったのだろうに。

 不調の中で、ネットに上げていた写真を見た出版社から写真集の話が舞い込んできた。青菊は熱を出したり吐いたりしながらその話を進め、少しずつ外にも出られるようになり、そしてある日、天菱号という巡航船の定住資格を取得してきて引っ越すと言い出した。

 噛み合わない妹が思いがけず家から消える。それが後ろめたくなかったと言えば嘘になる。自分から出ていくと言ったにせよ、まだ十六の子が家にいられなくなったかのようで。無言の圧力で追い出したかのようで。

 そして白音は夜空が見られなくなった。扇山で青菊が眺めていた、巡航船のいる夜空を。



 今はその空で、妹と一緒にいる。

 不思議だ。あの増岡の庭で撮られた写真を初めて見せられたとき、写真集が出るかもしれないと聞いたとき、はっきりと嫉妬したのに。自分が醜くなりそうなほど妬んだのに。

 今は、嫉妬が苦しくない。

 パイの一片を選ぶのに誰が一番年若いのかと話し合っている妹を見ても、ネガティヴな気持ちはなにも起こらない。


「カイくん二月生まれか」


「そう、こいつは二月十四日生まれ。チョコレートの日」


「じゃあ順番は、カイくん、青菊、白音、汐さん、本田さん、俺ね。嫌だわ、最年長だわ」


「じゃあ皆さん、選んだら齧るとき気をつけて。ちっちゃい陶器のフェーヴが入ってます。入ってたら当たり」


 あちらこちらから手が伸びて、おいしそうな焼き色のパイが次々持ち上げられていく。

 ツリーもキャンドルも、暖炉もご馳走もないクリスマスの朝だ。けれども恐らくご馳走とは家族や仲間と分け合える食べ物や記憶のことを指すのだろうし、キャンドルや暖炉の火は生きている者の命でもあろうと白音は思う。

 子供の頃から親しんできた様々なクリスマスの物語が思われる。白音はクリスチャンではないけれど、それでも食卓を共にするイヴェントには恐らく大きな意味がある。

 この寒い、雪の冬に、みんなで何かを分け合っていることにきっと、意味がある。


「じゃあ、多分いま熟睡してるであろうサンタの柴さんに乾杯」


「あと、天菱号に乾杯」


 グラスの代わりにめいめい手にしたガレット・デ・ロワを軽く掲げて、その角にゆっくり齧りつく。

 真っ青な空と真っ白な雲海を背景に。

 このクリスマスの朝に。


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