第24話 帰投――6時49分、第九天菱号
まだ暗い空の一点を、
最初に
明けの予兆を
「帰ってきた」
かつて抑制を常態としていた娘の、不意に解き放たれたような安堵の声色に鋭児は泣きたいような気持ちになった。これまで元気そうに振る舞ってはいたが、そこにはようやく循環を許された血潮のような、待ち焦がれた熱があった。
一言も言わなかったけれど、たぶん青菊は心配だったのだ。自分の怪我よりも、ひょっとすると母船よりも、あの古めかしい小さなシップとその主が。
青菊がモノや光景ではなくヒトを大切にしている。いや、本当は元々そうできる子だったのだろう。ただ、地上の家に住んでいた頃には様々な遠慮や思い込みから家族にすらそうした感情を表せずにいた。
ここにいるのはもう、あの頃の小さな青菊ではない。同じ心を持ち、同じ光を愛しながら、しかしもう遥かに成長していく。
しゃこん、と独特の重みを持ったシャッタ音が響いた。シャッタ幕が走りミラーアップする。気がつくと、青菊の片腕を吊っていたはずの三角巾が消えている。フルマニュアル銀塩一眼レフを両手で確かに構えて青菊は、近づいてくるシップを慎重に撮り始めている。じゃき、とフィルム巻き上げ音。しゃこん。じゃき。しゃこん。狙い済ました操作が音を立てる。
機影が肉眼でもはっきりと視認できるようになった。進入扉は集まった人々の手でなんとか開いている。扉に何か引っ掛かっているのか全開にならないと技師の本田は報告してきたが、柴はその程度なら入れると判断した。進入に備えて本田はすでに待合ロビー側に待避している。復電したら絶対エラーが出るからその前にさっさと入れ、と本田は無茶なことを言っていた。
人々がどっと笑うが、その笑いにも先程までとはまるで違う緊張感があった。扉は開いたが、これで入れなければ意味はない。風向きが悪くなって到着が予定より遅れていた。その分、燃料を食っている。しかも進入扉は全部開かず、開口幅が通常より合計で二メートル近く狭い。
オリオーザは小さな飛行機だし柴の腕なら心配はないようなものだが、特別な事故は特別なときに起こる可能性がある。例えば進入前、ジェットを切った後に強い横風が吹いたら。柴はそうしたマニュアルの姿勢制御に関して、ほとんど国内トップクラスといっていいほどの技術伝承者ではあるけれど。それでももし、昨日の昼前から飛び続けた疲労が今この時を選んで限界に達したら。
無事に着いてくれ、と誰もが祈るように、楕円形に開いた進入扉の向こうの空を見ていた。その空を真っ直ぐに進んでくるシップを。
そして鋭児にとっては、青菊と一眼レフが一体となって奏でるシャッタ音もまたひとつの祈りに聞こえる。
持ち寄られた明かりで薄暗く照らし出された待合ロビーには、
独特に緊迫したその場で鋭児は、もっと幼いような気がしていた自分の娘ではなく写真家
視野率九十七パーセントの光学ファインダ越しにシップを凝視するその眼差しは、人間から見ること以外の機能をあらかたこそぎ落としたかのように純度が高い。こんな目をした人間たちを鋭児は知っている。増岡。いつも映画で組むキャメラマン。尊敬する写真家の先人たち。
青菊の隣には汐がいて、耐圧ガラスに投影した正常進入時の映像を透かして実際のオリオーザを見ながら、設置されたレーダーガンの数値を操舵室と機中の柴に報告している。
「追い風みたい……」
青菊は誰にともなく呟き、手に馴染んだ様子でフィルムを巻き上げレンズのズームリングを回してはシャッタを切った。
汐には、そしてあのシップを飛ばす柴という人の目には、青菊はどのような娘に映っているのだろうか。鋭児はそんなことを思う。
空はじわりじわりと明るんでくる。シップは天菱号の手前で減速し、モードを航行に切り替えてやや時間をかけて接近した後、微速で進入した。浮いたままゆっくりゆっくり入ってきて、静かに駐機スペースに向かって進む。
やがて三つの車輪が床に降りると、待合ロビーからどっと歓声が上がった。
シップが近づいてくる中、進入路に引かれたラインを見ながら本田が指示をすると、ロビーの人々は再び手動で進入扉を操作し始めた。安全上、外との境を完全に閉めてからでないとシップの搭乗者を機外に降ろせない。
汐は進入確認の役目を終えて立ち上がった。シップの停止位置は本田が見ているし、ここはいつも通りの操縦だから柴一人でも構わない部分だ。
機体は駐機スペースのターンテーブル上まで進んで停止。主翼で強く輝いていたライトが消える。その後ろで進入扉が閉まって行く。
この酷い夜を駆け通した古いシップは、本格的な暁の光に掴まる前に帰還した。
汐の合図で待合ロビーの一部シールドが上げられ、ドアが開かれた。青菊は撮影していたカメラを再び斜め掛けに戻して、今度は
鋭児も追って待合ロビーに出る。青菊はロビーから更に駐機場に出て引き続き写真を撮っていた。
やがて、オリオーザの白い機体から浮き出すようにドアが開いて、それが床面まで回転するとタラップになった。大きなバッグを抱えた人々が次々飛び出してくる。
迎えの連絡船職員が交代要員のパイロットを見つけて声を上げ、カートが来てるから早く乗ってくれと呼ぶ。いつの間にか来ていた天菱クルーが、負傷者の家族を呼び集める。医療スタッフの中には天菱に通い慣れたものがいるらしく、仲間をに声をかけて集団で移動しようと言っている。場は一気に騒がしくなった。
カーキのキャンバス地のバッグを背負った
「なんだ、写真家。ラジオ屋まで来たのか」
「来たよ! 柴さん、お帰りなさい」
「そりゃ帰って来るよ、燃料切れ寸前だしな。……あれ? 本田は?」
青菊と汐がよくシンクロした動きでシップの向こうを指差した。柴もそちらを見やる。
派手な色の命綱を壁際に固定しながら、本田は再び進入扉の側まで行き閉鎖状態をチェックしていて、背中しか見えない。お帰りもなしにまず安全確認。技師らしい行動だ。
少し笑うと、柴はようやくタラップを降り始めた。青菊の話から予想出来たことだが、年の割に、そしてこの無茶苦茶の後である割には、動きが滑らかで安定していると鋭児は思った。多分、それなりに身体を鍛えている。飛ぶために? ならばやはり、職人だ。
タラップを降り切って柴が最初にしたことは、青菊の頭を撫でることだった。
「おい、怪我したんだってな」
「した」
「痛いか」
「今は、あんまり」
「そうか。入院するほどの怪我じゃなくて良かった。ゆっくりして早く治せよ。……空が嫌いになったか?」
答えなくてもいいよ、と柴は優しく言った。
「これが空の怖い所なんだ。いくら頑張っても、航空事故は起こり得る。俺達は、とても不自然な場所に住んでる。それを忘れたらいけない。慣れ過ぎてもいけない。
……しかし今回はさすがに疲れたな。ほとんど丸一日飛んだ」
これが個人の連絡船でなければ就業時間規則違反ですよね、と汐が苦笑し、お前こそ寝てないんじゃないかと言い返されている。
オリオーザ後部の荷物室から医療物資が降ろされつつあった。組み立てのカートに積んで紐をかけ、手分けして運ぼうというところだ。その向こうから本田が戻ってくるのが見える。待合ロビーからは作業を終えた人々が駐機場に流れ出してきて、医療スタッフの荷物を一緒に運ぼうかと申し出ている。
騒がしい中で柴は、みんな世話かけた、とよく通る声で言った。一瞬にして視線が柴に集まる。
「こんな朝早くに大勢集まってもらって、本当にありがとう。助かった。恩に着るよ、この通りだ」
頭を下げた柴に対して拍手が起こり、待合ロビー側の作業の音頭を取っていた唐沢が、そんなら飯おごってぇ、とおどけて返して、場は笑いに包まれた。
「まあ礼なら石塚さんとかに言って。ニュース中に人手集める放送したの、あの人よ。あと本田が手ぇ回して船内ネットワークに支援リクエスト流した。結果、事故翌日のこんな夜明け前に起きてた変態どもがこの数集まったんで」
「ああ、……本当に、みんなに助けられたな。どうしても今、天菱に戻りたかった。あのパイロットを届けたかった」
オリオーザに乗せてきた中年の連絡船パイロットが、
安全確認を終えて駆け戻ってきた本田が柴の近くまで来てヘルメットを脱ぐ。
「あとはあいつらに任せるしかないな。お産に間に合うといいけど」
「なんとか安全に飛ばすはずだよ。あいつは俺も知ってる
「うちの船につけてる
話し合う三人の周りに人々が寄ってきて、代わる代わる言葉をかけていく。青菊と汐の所には本田
「ラジオ局公式サイトの船内ニュース記事につける写真を、いつも提供してもらってるんです。青ちゃん、オリオーザも柴さんも好きだから、きっといいショットくれるんじゃないかな」
さらっと一番大事なことを言うのだな、と鋭児は感心して海里を見た。
「そうだねえ。あの子は小さいときから、空を飛ぶものが好きでね」
好きなものを見るとき、質的な解像度が上がる。ただ通りいっぺん見るだけでは感じ取れないものを、好きだからこそ感じて、見出して、それを残したいと欲求し、シャッタを押す。
自分の「好き」を写し止めて残してもいいのだ、こう見ているのはこの世にたった一人自分だけで、だから撮って残したいのだ、と信念を持ったとき、シャッタを切り現像し印画し人に見せることも可能になる。
それが今はもう、まるで変わった。
鍵倉花の写真集『36℃』を初めて見たときのことを思い出す。こうなることが分かっていた、とも思ったし、こんな風になるとは、とも思った。
誰だよ。
これ撮った奴、誰だよ。
……誰だじゃねえ、俺の娘だろうが。
それなのにこんなにも、知らなかったんだ。
そう言って妻のまどかに笑われたことを、鋭児は懐かしく思い出す。
青菊は自分の好きなものを掴んだ。自分の「好き」を明らかにする勇気を手に入れた。
「子供ってのは、あっという間にデカくなっちまうんだなあ……」
「大人はそう思うみたいですね。うちの親父もそう言いますよ。でもこっちにしてみりゃ、十七年も結構長かったですけどね」
感覚の違いか、と鋭児は笑い、少し海里と話したあと、柴に挨拶するために歩き出した。
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