真実の薬

 涼しさが増してきた秋。それでも太陽が照りつけている時は暑さを感じるものだから、避暑地を求めてくる人々は多い。そのなかで一等扱いやすく、新しいこの公民館の中は、休日であることも相まって小さい子も多くてとても賑やかだ。

 そんななかで、僕と彼女は椅子に座り、小さい子達が元気に足で走る代わりに、ずっとペンを走らせている。そして、目の前の紙の上には、線と線の集合体が出来上がっていっていた。それは、絵だった。そして絵の横にはスマートフォンが置かれて、全く同じような画像で、より高いクオリティのものを映し出していた。どこかの誰かが、必死に作り上げた絵だ。

「こんなもんかな」と目の前の彼女は言って、伸びをする。僕は自分の絵をそっちのけにして「先輩、その模写、みてもいいですか」と声をかけると、先輩は笑顔で応じて、そして絵を差し出してくれる。

 そうして僕が手に取った絵は、まるで本物のもののように思えた。それは、写実的だというわけではない。一部がデフォルメされていて、単純な線で表現されているだけだ。それでも、そこにキャラクターがいて、こちらを見つめてくれているかのようだった。僕は、ただ感嘆の声をあげながら、そのキャラクターだ、と漏らしていた。

「たった十五分で、こんなに模写ってできるんですね……」

 先輩は得意げに笑う。

「当然。これから私はアニメーターになるからね」

 そうでしたね、と僕は笑いながら、自分の絵を見つめる。そこには、まだまだ形を捉えきれていない模写が、たくさんの消しかすとともに残っている。僕はため息をつく。

「僕は……昨日からやっていたのに、結局できていません。先輩が来ている間にも、ほんの少ししか進みませんでした」

 先輩は微笑む。「まず、そうして作品に向き合えているだけ、零はすごいんだよ」

 零と呼ばれた僕は顔を上げる。「どうしてですか」

 先輩は、どこか遠くを見つめる。何かを思い出しているかのようだったけれど、おもむろに言葉が紡がれ始める。

「絵が好きだって人はいっぱいいる。でも、絵を描こうって人はほとんどいない。そして、もっとうまくなろうと本気になる人は、そして作品に対して向き合い続ける人は、いないに等しい」

 僕は考えを整理する。「つまり……明日香先輩のお友達には、本気の人はほとんどいないと……」

 明日香と呼ばれた先輩は首を横に振り、そして長くて綺麗な髪の毛先に触れる。「それどころじゃない、いないの」

 僕は不思議だと思えた。「なんで、美術コースのある高校なのに本気の人がいないんですか」

 そう、目の前の先輩は、絵をうまくするために美大に行くことをキャリアに選択し、そのために美術コースのある学校に進学した人だ。そんな先輩みたいな人たちばかりのはずの美術コースでは、本気じゃない人を探す方がずっと難しいように思えた。

 明日香先輩は毛先をいじりながら、笑って答える。「零も高専……とかいうところに通い始めたから、わかるかもしれない。零だって、機械が大好きだからその学校に入ったわけじゃないでしょ……」

 僕はその言葉が腑に落ちていて頷いていた。「ええ、僕の親父が高専生だから、行っただけでした」

 それと安定した就職率でしょ、と先輩は付け加えてくれて、僕は頷く。先輩の言いたかったことがようやくわかりました、と僕は続け、

「僕ができそうなことがそこにあったから、ただ通っている。僕は、学校の授業に本気にはとてもなれません。いいえ、クラスのほとんどの人がそうです」

 先輩が頷くのをみて、僕は言葉をゆっくりまとめる。

「それと同じように、美術コースの人たちもできそうなことがそこにあるからただ通っている。そういう人が多い。だから、そのままで絵にも、作品にも、本気にはとてもなれない……」

 そういうこと、と先輩は頷き、「みんな、成績を取りに来ているだけ。みんな将来のことなんて何にも考えてない。あっても、どこの大学に受験するかだけ。その先には、何もない……」

 先輩は暗い顔をしていた。だから僕は先輩に伝える。

「でも先輩は美大に行って、アニメーターになる。だから進めば進むほど、本気の人たちに会えるかもしれないですね」

 ありがとう、と先輩は僕のふるまいを見て笑って、「そうかもしれないけれど、今はこういうものもあるよ」

 先輩は端末を手に取って、そして何かのアプリケーションを開く。それを見た僕は頷く。「絵のSNS、ですか?」

 そう、と先輩は言って、「ここには、学歴も、職場も関係なく、すごい人たちが集まっている。こういうところに作品を投稿するだけで、何千人にも見てもらえる。ほら、私の絵も、すでに3000人にいいねってしてもらっている」

 僕はその言葉に、そして表示された数に驚いていた。「すごい、もう人気の絵描きさんなんですね……」

 先輩は笑う。「もうネット上で一緒に仕事してたりもするんだ」

 僕はまた驚くしかなかった。「すでに、プロなんですね……大変そう……」

 先輩はその反応に楽しげにしている。

「学校の授業より面白いし、難しくないよ。変な依頼は学校と違って仕組みを使えばほぼ来ないし、何よりもみんな将来に向かって頑張っているから、とても楽しいよ」

 それは明日香先輩だからですよ、と僕はため息をつくほかなかった。そして、自分のまだ終わらない絵を見つめる。「僕はそんなプレッシャーのなかでやっていくなんて、怖くてできません。先輩みたいに絵がうまくて、ちゃんと自信を持って仕事ができるなんて、想像もつかない……」

 そんなことないよ、と先輩は答えた。僕は顔を上げる。そこには、楽しそうな先輩がいる。

「零は、ちゃんと作品に向き合えている。その姿勢は、もう一緒に仕事をしている人たちと何も違わない。だから、きっとすぐにうまくなれるよ。一年前なんて、そこまで描くことも、模写すらもできなかったでしょ?」

 僕は頷く。そうしたら、先輩は笑う。

「きっとすぐ上手くなれる。だから安心して。アニメーターになるかどうかはわからないけれど、描けた方がたのしいでしょ?」

 また僕は頷く。そして、ふと疑問が出てきて、訊ねる。

「どうして先輩は、アニメーターになろうとしているんですか?」

 先輩は目を丸くしていた。唐突すぎたことを悟った。「ご、ごめんなさい。そういえばなんとなく、アニメーターになって何をするのかってことを聞いたことがなかったなって思って……」

 そういうことね、と先輩はひとりごちた後、上を見上げる。答えはおもむろに出てきた。

「自分の作品を、いろんな人の記憶に残したいのかもしれない。私がそこにいたんだよって、アニメでできたらいいなってだけなのかも」

 記憶に残す、ですか。僕はそう言ったあと、明日香先輩をじっと見つめる。「わかりました。僕が記憶する一人になります。インタビューされたらちゃんと答えますよ」

 先輩は笑う。「こんなに難しい質問ばかりして、こんなに褒めてくれて、安定した就職先に行きそうファンは、大変そう……」

 僕は安定した就職先、という言葉に顔をうつむけていたが、すぐにそのことではないと気づいて訊ねる。「そうなんですか?」

 その挙動不審さに先輩は首を傾げたが、先輩は真剣に語りかけてくれる。「零は他の人とは決定的に違うところがあるよね」

 なんですか、と訊ねると、明日香先輩は僕をじっと見つめ、こう答えた。

「その探究心」

 探究心、そうおうむ返しすると、先輩は頷く。

「疑問があれば地の果てにも、深海にも、月にだってたどり着いてみせる。そういう強烈な思いを、時々感じることがある。零は、教わったことの本質的な全てを取り込む力を備えている。それは、きっと零の頭の中で情報を探究して、ちゃんとつなぎ合わせているってことでしょ」

 そうなんですか、と僕は言ったものの、あまり理解ができていなかった。「なにかをやれるようにするためには、先輩の言ってることがわからないことのほうがずっと多いから聞くしかないだけです……そう、先輩は誰よりも特別ですから」

 先輩は顔を背ける。少し頰が赤かった。そして、ぶつぶつと呟く。

「零と話していると、その……なぜだかお父さんと話しているような気分になる……」

 そう言ったかと思うと、お手洗いにいってくる、と先輩はそそくさと席を立った。

 僕は首を傾げていたけれど、言葉を反芻することにした。「お父さんと話している気になるって、僕は老けてるってことなのかな……それはいやだな……」

 その時、後ろから女性の声がかかる。

「とっても鈍感なんだね君、いや、ドン・ファンなんだね君」

 振り返った先には、一人の女性がふたつに結んだ髪をなびかせて近づいてきていた。僕は彼女の名前を呼ぶ。「真里さん……いつのまに……」

 真里は得意げに笑い、「アオハルというやつを見ようとしていたんだ。大学はおろか、この世界ではあまりに希少だからね」

 ちゃんとわかる言葉で教えてください、と僕はため息をついて、「ちなみに、ドン・ファンってどういう意味なんですか」

「いずれ後ろから刺されるってことさ。いい死に方をしないよ……」

 なぜ……そう思って聞こうとしたと同時に、真里さんのマシンガントークが炸裂する。

「キアヌ・リーブスもかくやな顔なんだから、ほんとに彼みたいに徳を積んでおいた方がいいよ。ああ違うか、君は地で徳をばらまいて最後予期せぬところで回収する輩だから逆に徳だとか言うべきでもないのか……」

 難しい言葉の連続に、僕は曖昧な返事をするしかなかった。真里さんが放った言葉の意味を、特に徳という言葉を整理しようとしている時には、すでに当の真里さんは僕の絵をまじまじと眺めている。

「この絵、これからやるアニメのでしょ、ネット上で大騒ぎになっているやつ」

 そのことであれば、とりあえず答えられそうだ。「そうです。まだ始まる前ですけど面白そうだったので」

 手に取らせてもらってもいい?と聞かれたので、頷き、そして差し出す。真里さんはそれをじっと見たかと思うと、「もしかしてこの絵のスタイル、人生で使い続けるものにするの?」

 驚きの言葉に、僕は頷くしかなかった。「そ、そのつもりです。なんでそう思ったんですか」

「単純だよ、この絵、君はいつになく手直ししているじゃん。それでいながら、紙を丁寧に扱っている。こんなに消しゴムで紙が摩耗しているのに、シワひとつ作らずに手直しし続けているからね」

 この人は探偵もできそうなんだな、と感心していると、さらに質問を浴びせられる。

「君はこの絵を模倣できたとして、これからどうなるつもりなんだい」

 そう言われた時、唸るしかなかった。「……考えたことがなかったです」

 それもそうか、と真里さんは笑う。「逆に考えていたとしたら、多分君はドン・ファンじゃなくてThe ONEになるだろうからね」

 僕はまた首をかしげるしかなかった。それはどういうことですか、と言おうとした時、誰かがつかつかと近づいてくる足音がした。小さな子のものではないと気づいて振り返ると、明日香先輩が真里さんに質問を浴びせていた。

「何のご用でしょうか、真里さん」

「そんなに怖い顔をしないでほしい。いつも言っているが、零をいじめにきているわけじゃないんだよ」

「じゃあなんですか、早く要件を」

 怖いなあ、と言いながら真里さんは僕に訊ねてくる。

「そろそろどうするか決まったかい」

 僕が最も恐れていた質問だった。僕はおもむろに首を振る。「いいえ、まだ結論は出ません」

「そうかもしれないね、なにせ、君はすでに高等専門学校というキャリアを捨てるか否か選択しようとしているんだから」

 明日香先輩はその言葉に僕の肩をつかむ。「どういうこと、まだ入ってから半年しか経っていないでしょ」

 二人の先生に事実を突きつけられて、僕はどうすればいいかわからなくなった。でも、なんとかして先輩に伝える。

「高専は、二十年前から何もかも変わってしまいました。あそこにいたところで、安定した就職先は望めません」

 どういうこと、と先輩が促すので、説明を続ける。

「うちの学校で来ている求人票をすべて確認したんです。親父は、日本の大企業直結の採用がずっと多くて、簡単に大卒と同じ待遇で就職できたと言っていました。でも、二十年後の求人票に書かれていた企業名のなかに、親父の言っていた会社名のほとんどがありませんでした。あったのは、大卒より低賃金な子会社と、人材派遣型のIT企業とは名ばかりの何か、それだけでした」

 そんな、と明日香先輩は言って、「じゃあ、お父さんみたいに安定した就職先は……」

 僕は首を振った。「バブルの時の幻想です」

 先輩は励まそうと僕の顔を覗き込む。「で、でも、大学の編入もすれば……」

 その言葉に今度は真里さんが答える。

「残念ながら、私の大学で調査しても安定した場所はなかったよ。より正確にいうなら、今の超大手の理系は、国立系の大学院に行かなければ安定した部隊に入ることすら許されない。シリコンバレーでなくたって、みんなそういう感じさ。そうすると、零は理系の大学なのに営業に行く人間になりかねないし、もっと現実的なのはIT部隊の金融まわり、つまりITのなかでも特に厳しい場所で、永遠に働くしかない」

 うそでしょ、と明日香先輩は真里さんではなく僕を見て聞く。だけど僕は、真里さんの言っていることが真実です、と伝えるほかなかった。

 明日香先輩はぼぞりと呟く。「そしたら、アニメも見れなくなるかもね……」

 僕は何も言い返せなかった。でも、真里さんは答える。「このまま進めばね」

 その言葉に先輩は振り返り、「それが高専をやめるってことですか」

「そういうこと。でも、ここまで言っておいてなんだけど、高専ほど確実にスキルを認めてくれるのは、この世界じゃほとんどない。今じゃ大卒より、院卒より、高専卒の方が希少価値が高い。この希少さと専門性は、医者の領域に限りなく近い。特に情報部門は患者が多すぎて慢性的な医者不足だから、ますます零くんのような人材に手を伸ばそうとする」

 おまけに、と真里さんは続け、「情報の医者に、免許も学歴も必要ない」

 その言葉は、僕にとって強烈だった。紛れもない真実だったからだ。高専の中で、国家資格は推奨されているだけであって、必須ではない。

 真里さんは結論を語る。「つまり、零くんがいかに文系の大学に行こうが、別の生き方を追い求めようが、優秀であると判断されればされるほど、頭が良ければ良いほど、いずれ情報の医者になるしかなくなる。零くんは、高専を一度選択している時点で、この運命から逃げられなくなった」

 先輩はそんなはずない、と言って、「零は、自分で情報の医者を選ばない自由がある」

 違いますよ先輩、僕はそう言って、語りかける。

「たしかに高校に行っていたら、知ることもなかった。でも、その先は不安定で、生きるか死ぬかの世界だった。僕はそれを知って、高専に行くことで否定しようとしました。しかし僕は、高専で安定できる現在の理由を、その真実を知ってしまった。ですが知ってしまったとしても、もう生きるか死ぬかの世界には戻れません」

 そんな、と明日香先輩は言って、そして黙り込んでしまう。真里さんは訊ねる。

「で、どうするつもり、零くん。君はすでに真実の薬に手を出してしまっている。すべてをゼロにして、裏切りの道を駆け抜けるのかな」

 僕もまた、黙り込むしかなかった。だが、その様子を見た真里さんはとてもうれしそうだった。

「それでいいんだよ、零くん。君は、他の誰にもかんたんにできない、この葛藤の場に立つことができた。それだけでも、君は運命を否定する可能性を手にしている」

 僕は呆然としていた。だが、真里さんは告げた。「君が模写していたその作品が、ドンファンではなくONEに導くものに……つまり、君の運命を否定するものになるかもしれないね」

 僕はそう言われて、自分の模写をしていた作品を見つめた。人生で使い続ける絵柄にする。そう決心したその作品のPVは、僕の頭の中で反芻し続けていた。はじまってもいないこのアニメがもたらす力が、本当に自分の運命を、情報の医者になるという運命を否定できるとは、にわかに信じられなかった。

「ヒントをあげよう、汝自身を知れ」

 そう真里さんが言ったかと思うと、真里さんは手を振って公民館の外へと出て行った。すると、小さい子たちの楽しそうな声が帰ってきた。ここが普通の公民館に戻ったような気がした。

 明日香先輩は、しごく単純に感想を述べた。

「真里さん、結局は零をいじめにきただけじゃん……」

 そんなことはありませんよ、と僕は言って、「僕に、重大なヒントをくれました。僕は、その真意を見定める必要がある」

「真里さんが学生のうちに起業できた人だから?」

 それもありますが、と続けて「あの人は、僕と真剣に向き合おうとしてくれている。あの人も、何か僕に求めているのかもしれない……どのみち、このアニメを見ることでどこかでわかるかもしれない……」

 僕が模写の絵を手に取っている時、明日香先輩はため息をついて笑い、「零にとってのアニメは、もうすでに楽しむためのものじゃないのかもしれないね……」

 僕は先輩に振り返ると、先輩は笑う。「そのアニメのこと、聞かせてね」

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VOID 倉部改作 @kurabe1224

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