第143話 地媚真巳瑠

 わたしのターンです。耳のある者は聞きなさい。耳のないものは、字幕を出しておきますので読みなさい。

 

 幼いころ、ずっとイライラしていた。「簿記」なんて言葉を知るずっと以前から、その概念を、わたしは感じていたのだと今は思っている。幼稚園バスの乗降確認や、登園の際の体温申告や、お弁当の決まりごとや、遊具を使う順番や、うさぎ当番のローテーションや、お昼寝までのプロセスや、「母の会」の議事進行や、そういったあらゆるシステムに組み込まれている不等号にさらされるたびに、わたしは猛烈な不快感におそわれ、体中に鳥肌を立て、嘔吐を我慢しつづけなければならなかった。用途が変わったのに以前のままの勘定項目を用いていたり、そもそも無意味な勘定項目だったり、絶対に確認することのない諸口に架空の領収書を添付する慣習がまかり通っていたり、とにかく「実情」に対応できないままレガシーを引きずり続けていく"winbose"みたいな体制が、至る所で腐臭を発していた。わたしの産声は、つまりはこの臭いがもたらした絶望感の表出に他ならなかったのだと、今も信じている。

 今更ですが、地媚真巳瑠です。経理課勤務であり、勤怠管理部のコンパニオン地媚型端末であり、課長の女であり、あなた(課長代理)の代理女であり、元室田室長の元秘書であり、営業二課付きの進行担当でもありました。異論は認めません。

 そういった性格上、わたしは小学生の頃より、「複式簿記」などという言葉を知るより早く、概念として「仕訳」を司る仕事以外に世界とかかわるのは御免だと考えていた節があります。

 もうお分かりでしょうが、この性格からして事前通告のない変動に対してわたしは大変に混乱します。

「その混乱に秩序を取り戻すのがまさにこのわたしの仕事ではないか」とあなた(課長代理)はわたしの鎖骨が好きだと言いながら耳元で囁いたりなさいました。それはそうです。耳も鎖骨も性感帯であることをわたしは否定しませんし、普段の業務ではどちらも露出させることはありませんが、ラブホテルという場所においては無論、そういった場所の露出こそが目的なのだということは当然でしたので、あなた(課長代理)のズボンのジッパーも当然開いているのが普通だと言えます。とはいえ、TPOに合わせた露出であったとしても、それを非日常性と感じられなければ、性的興奮は高められないものです。

 不思議ですが、営業回りに同行する役割をもって社用バンの助手席の乗り込んだ瞬間から、その社内にはそこはかとなくこのラブホテルの風情が匂っていました。それは、勤怠管理グリッドに触れない程度に吹いた香水がにわかに蒸発量を増したためで、きっとわたしの心拍や脈拍と体温の上昇と関係があり、またそうやって高めていくことは合理だと思うのです。もちろん、運転に支障がない程度に課長代理の下半身を撫でさすったり、ブラウスのボタンをはだけて鎖骨の一部をさらしてみたりといういわゆる予備的前戯程度は、実技の効率を上げる意味で、推奨されるべきです。

 そのように綿密な段取りをこなしているのに、あなた(課長代理)が肝心なところで使用に耐えうる硬度と角度を備えていない場合、わたしは本当に吐き気がするほどイラつくのです。だって、わたしの「仕訳」が緩かったということになるのですから。あなた(課長代理)は照れ笑いを浮かべながら「口頭で」などとおっしゃいますが、それは奉仕とよぶべき作業であり、代理のわたしに無給で強制する範疇を越えていました。そもそも、こうしたラブホテルでの業務そのものが勤怠的にはアウトなのですが、営業中の口頭による打ち合わせという意味でありながら、実際は、長時間にわたってわたしの口を会話ができない状況におく行為は、もはや打ち合わせとは呼べないとわたしは思います。

 無論のこと、あなた(課長代理)ではなく課長であれば話は別です。代理するものと代理されるものとの区別はきちんとつけておかなければ秩序が乱れます。それに、あなた(課長代理)はわたしをあまりにも大切に扱いすぎていました。きっとどこかに「借り物」だという意識があったのでしょう。そのような心遣いは心外でした。わたしはプロとしてあなた(課長代理)をきちんと使い分けていたつもりでした。なので、わたしの知らないところで、知らない相手と、知らない打ち合わせを重ねていたことを知った今は、とても寂しい気持ちがします。そのような逢引を重ねていたと知ったのは、勤怠管理部のコンバニオン端末に転属された後のことでした。その際にはわたしは自分の感情を認知する機構を切断されていました。だから、知らない喫茶店で女に会ったり、イフガメみたいな僻地から隠し子ほども年の離れた女を連れ帰ったりするのをモニターしていても、少しも寒くありませんでした。寒く? 違いますね、悲しくありませんでした、と言いたかった。セックスは気持ちがいいものですが、それは身体がそういう構造になっているので、適切に操作すれば快感が得られるようになっているせいです。メンタルも重要とはいいますけれど、べつにレイプされているわけでもないので、気持ちがいいことは気持ちがいい。しかしだから何? というのが本音です。自分が気持ちよくなるより相手を気持ちよくするほうが断然気持ちがいいわたしでしたから。

 そう。ただわたしは、あなた(課長代理)にきちんと自己紹介をする機会が、今までなかったことが本当に腹立たしかったのです。名もなき端役であれば、ストーリー上煩雑になるだけなのはわかりますが、それにしてもわたしはずいぶんと、今回のメインストリームの座を占めていたと思いませんか?

 一時は生身の肉体を奪われたまで、わたしを便利に使うことしか能のない連中のために、リソースを費やしてきました。その過程で、無数の傍若無人なクラッカーからの求愛をのらりくらりとあしらい続けるというレクリエーションも用意されてはいましたが、わたしは本質的に孤独を好むものですから、それですべてを帳消しというわけにもいきませんし、いきなり生身に戻されてしまってからは、なんとも影が薄くなっているようで、「もう用済みの女」的な扱いに、怒りがフツフツと湧いてきていることを、まずはお伝えしておきたかったのです。

 幼少期からの性格。そんな自分を変えたくて、保育士を志したのが回り道だったとは言いません。しかし母性というものは結局、自分の生んだ子供に対してのみ発動する性質のようでした。計量不可能な「愛」を「偏りなく」注ぐなどという抽象的かつ不明瞭な態度を求められても、何をどの程度行えばよいのかを導き出すことは不可能です。わたしにとって保育士とは、品質管理業務以外の何物でもありませんでした。ですから、本来は、あらゆる数値を計測し、全てを基準値内に収めること。また、見込まれる成長率に応じた成果を引き出すべく、個体差に留意しながら適度な負荷を与えるとともに、適正な使用方法を見出すことこそが職能とされるべきだと。

 たしかに、わたしは命というものに敬意を表することができない側面をもっていたことを、告白しなければなりません。わたしが保育士をドロップアウトした理由は、測定すべき数値が測定されていない中で、経験則だけで製品を取り扱うという前時代的な風習がまかりとおっていたことに、嘔吐を禁じ得ないことでした。

 ? わたし今「製品」と言いましたか? 失礼。

 ですけど、わたしだってしばらくは、生命を奪われた「備品」という扱いを受けていたのですし、社会とは生命をキカイノカラダのように使役する機構ではないでしょうか。だから、おあいこだと思います。

 ともあれ、それ以降わたしは、経理的に生きてきましたし、恋愛もまた、貸借対照表と損益計算書で決算可能なものでなければなりませんでした。それは別に、デートの食事代は出してもらって当然だ、とか、プレゼントはブランド物でなければ認めない、というようなこととは違います。だいたいわたしには物欲はほとんどありませんでした。プラスマイナスゼロがもっともフラットで軽やかで気兼ねなく生きられます。だからわたしはヨガが好きなのです。ヨガは自らの身体をゼロにするための方法だからです。

 唐突だ、なんて思わないでください。今は、完全に、わたしのターンなのです。わたしがタイラカナル商事へ入社するきっかけとなったのが、このヨガだったと言えば、話を聞いてもらうことはできますか? だってわたしはこの後、メインストリームに返り咲くつもりでいますし、そうなればわたしとタイラカナル商事との関係性は、無視できなくなるはずです。きっかけは、イフガメでした。わたしは当時、夢を追い求め続けている無職の男と付き合っていました。保育士を辞めて、そこからへんの中小企業経理を掛け持ちでパートしていた時期です。なにしろ、この社会です。保育士として登録してしまった職歴をあっさりとドロップアウトしてしまったせいで、しばらくの間、住民番号がもらえなかったこともあって、正職に就くための運動すら制限されていたものですから。保育士を辞めたと告げた夜の、あいつの言い草が忘れられません。


「どうすんだよ。給料減るじゃんか」


 そして、あてつけのようにフォークソングばかり立て続けに歌うのです。まったく、そういう子供っぽいところがかわいいと思った時期はとっくに終わり、ただ情けないだけの男だったのですが、それでも愛玩犬程度に手のかかる何かの世話を焼くという行為には、ある種の癒し効果がありましたし、絶倫でうまかったものですから、そういう意味でも重宝していたところはあります。いわば、バイブレーターのようなもので。愛ってよくわかりませんでしたけど、身体の快楽はわかりやすいので、それはそれとしてほしくなることはあるわけで。そういうとき、バーカウンターに座って品定めしたりされたりするプロセスが面倒だったので、一時はロータリの何番目かの出口近くから何ブロックかにある白いビルの角に立って、趣味と実益を兼ねる交渉をしていたこともありましたけれど、それはそれで面倒臭い。わたしはプロセスを楽しみたいわけでなく、単に快楽が欲しいだけでしたし、そのために対価を支払うというのも不経済でしたので、と、まあその程度の頻度で求めてしまうところがあって、このあたりは、愛情の薄さをわたしの身体が察して、その分頻度を増すかのような調整がなされていたのではないかと考えています。つまり子孫を生産するための機関だったということです。糞くらえです。セックスはご褒美でいいし、ご褒美以外のセックスなんて不要です。ましては、セックスを何かの道具にしたり、通過点にしたり、手段にするなんて、考えたくもありません。純粋な快楽。こういうわたしの主張に賛同してくれたのが課長でした。が、わたしはまだ、わたしがどうやってタイラカナル商事に入社することになったのかを話していませんでしたね。それでは、ヨガの下りからやり直します。


 唐突だ、なんて思わないでください。今は、完全にわたしのターンなのです。わたしがタイラカナル商事へ入社するきっかけとなったのが、このヨガだったと言えば、話を聞いてもらうことはできますか? だってわたしはこの後、メインストリームに返り咲くつもりでいますし、そうなればわたしとタイラカナル商事との関係性は、無視できなくなるはずです。きっかけは、イフガメでした。わたしは当時、夢を追い続けている無職の男と付き合っていました。保育士を辞めてそこらへんの中小企業経理を掛け持ちでパートしていた時期です。なにしろ、この社会です。保育士として登録してしまった職歴をあっさりとドロップアウトしてしまったせいで、しばらくの間、住民番号がもらえなかったこともあって、正職につくための運動すら制限されていたものですから。で、その当時の男の話は割愛してと。

 「なら、ヨガがいいんじゃない?」

 と当時経理をみていた協同組合の理事長の奥様に紹介されたのが「ダンドウジヨガクラス」でした。そこはロータリーの何番目かの出口から数ブロック行ったところにある白い壁のビルの5階にあって、わたしと同じくらいの年齢の女性が多く通っているようでした。だけど理事長の奥様ご本人がこのヨガクラスに通っているというわけではなかったようでした。

「とにかく、インストラクチャーが素晴らしいそうで、本格的だって評判なのよ。入会金と半年分のお月謝は組合でみるから、どうかしら? そういう支出仕訳、できるでしょ? なにしろ有名な美術雑誌でも紹介されているみたいだし、もしよさそうなら、組合員になってもらいたくってね。ヨガって文化的だしそそられるでしょ? これからは、そっちの方面にも明るくないとっていうのが理事会の以降なの。みんなレオタード大好きだしね」

 インストラクチャー はともかく、わたしはヨガスタジオの覆面調査を依頼されたわけです。わたしも自分の肉体のバランスシートが不安な時期でもあり、実質無料で半年は通えるというのなら暇つぶしにもなるし、快楽が不要な夜に、あんな夢追い糞野郎といるのは精神衛生上よろしくないからと、いわば利害関係が一致したというわけです。

 それで、入会申込にいった夜に、そこのヨガマスターとセックスをして、悠久なるイフガメ砂漠を横断するガチンフラジーテス河を彷彿とさせるかのようなスローセックスに目覚めたり目覚めなかったりして、そのヨガクラスの経理も任されるようになったのでした。

 イフガメ砂漠のガチンフレジーテス河? その河については、あなた(課長代理)の寝言を思い起こさせます。


 「赤い赤い赤い螺髪のV3インビジブルタイクーン三角木馬」フフ。かわいい♡


 あ、そういえば、順番的にまず、わたしが複式簿記命の女学生からなぜ、保育士なんていう趣味嗜好に合わない道を選択したのか、から離さないと駄目でしたよね。今からでも軌道修正しても? 駄目? またの機会を? 展開が一段落したらまた、お座敷がかかるということで? 

 でも、いいです。わたしとしては、言いたいことはだいたい言えましたし、言ってはいけないことはほとんど漏らしていないと思うので。

 そうそう。ガチンフラジーテス河は、さ迷える大河と言われていた幻の河で、今はもないそうです。懐かしいな、課長。

 さよなら。もう誰のものでもないわたし。さようなら。赤い塔の砂漠の使者よ。

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空想技師集団 新出既出 @shinnsyutukisyutu

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