第142話 レッド・ノイズ


 彼方と此方に二頭の兎がピンとおっ立てているのは都合四本の耳たぶだった。砂漠に二本。営繕予備室に二本。そしてその二本づつは等しく塔とよぶに相応しかった。それぞれにただ一つの穴を底に穿たれた巨大な一対の「引き裂かれ」が、音を、つまり光を捉えていた。

 パラボナ? それは光を影として捕らえようとするさかさまの感覚器だ。

 ボスと肌瑪兎の感覚器は音を光として捉え、音を視る器官として伸張したのだといえる。その耳たぶの内皮には無数の襞が片時も休むことなく蠢いており、それは耳がキャッチした音=光を咀嚼しているかのようだった。

 咀嚼? だが耳は歯を持たない。だからこの咀嚼という比喩はたちどころに訂正されなければならない。それはヴァギナの蠢きと等しく、表面を伝わる振動に身悶える粘膜の官能そのものなのである。耳たぶは音に愛撫され、音は耳たぶに慰撫される。そのようにして襞の奥底へと送り込まれている振動は、その途上、増幅し減衰する。だが何かが失われるというわけではなく、この増減は、選別と統合によっておこるのである。耳たぶの襞が音を消化吸収しているかのように。

 イフガメに聳える赤の塔と、対を成す黒の塔。さらにそれらと等間隔にある白い塩の柱。

 赤の塔は人を飲み込み人をはき捨てる塔だ。

 黒の塔は人をこしらえ、人をすりつぶす塔だった。

 黒の塔? それは比喩だ。イフガメ砂漠に塔は赤い塔一本きりだったはずだ。そして白い柱は確かにある。では黒い塔は何を見誤ったものだったのか?

 無論、清掃部のプレハブ事務所に決まっている。あれは象徴的には塔とよんでまったく差し支えない働きを担っていたのだ。それは、ボスと肌瑪兎の耳たぶが、あたかも空間を切り裂いているかのように見えることと同じである。だから、この四つの「切り裂き」はそもそもが穴であり、穴に連なる穴であり、つまりは穴に落ち着く穴でしかないのである。

 それゆえ肌瑪兎はアナルプラグを装着していなければならなかった。

 ボスがアナルプラグ未装備のまま音に晒されたことは気の毒というよりほかなかった。肌瑪兎は綻びを補完的に塞ぐことによって肌瑪兎であり続けることができた。だが、ボスはただ、耳となるよりほかなかった。蛸の脳を貫いているのが食道であるように、現在、ボスを貫いているのは耳管だった。かつて脳と呼ばれた器官は、振動を選別処理する新たな鼓膜だった。いやそれは、膜などという薄片ではない。両手で抱えられるほどの容量を持つ、つまり深さを持つ鼓膜なのであった。

 世俗締とは、そのような音を発するものと、聞くものとに分別された世界である。それは何者かよって分別されたのではない。音による構造化が皮膜、境界を形成し、擬似的な内部と外部とに隔てられるとき、聞くことと発することとは、鼓膜と声帯とに分別された。つまりは形態学的問題なのであった。

 肌瑪兎は、その分別の狭間に存在する。

 タコフネモニータは、耳であった。鼓膜は声帯と同じであった。聞くことが話すことであるような世界で、光だけが沈黙していた。

 肌瑪兎は膜を破ったが脳は保全していた。アナルプラグがその役割を果たしている。肌瑪兎のアナルプラグは、商品名は「カムナビ」という三種の神器としては認められなかったとはいえ、それに匹敵するロストテクノロジーなのだ。その付け心地はまるでつけていないようであり、通常の出入りにはまったく支障を来たすことがないが、一切の洩れをシャットアウトできるという機密満載の一点モノなのである。

 メーカーは「イフガメサンガ」という、音響関係のイクイップメントを受注製作および販売を手がけていた企業で今もう存在しない。もちろん、この会社に工辞基我陣がかかわっていたことは疑いようもないことで、だからこそ、肌瑪兎はこのアナルプラグに護られているのである。

 一切衆生の声明が、耳を求め、耳が声明を求めた。それは、そこにボスが現れたから、ではなかった。

 ボスは弥勒として登場したが、それがボスではなかったとしても、そのときそのタイミングで現れた誰でもが、弥勒になりえたのである。だからこそ、それはボスだったのである、という議論は不毛だ。ボスはもはやボスではなくただ一対の耳であったのだから。

 赤い耳と黒い耳だ。かつては食い散らかしたとうもろこしのような小窓から、多数の鳩が出入りし、その塔の底に溜まる鳩の糞を肥料として掘っていくうちに、塔の底はどんどん深くなっていくとともに、激しい日射と風と砂によって窓は摩滅した。

 だが、窓は決して失われることはなかった。摩滅する窓とは巨大化する窓であり統合せる窓であった。気がかりだったのは、窓がつながっていくことによる構造壁の減少が、塔の倒壊を招くのではないかということだが、砂漠による切磋琢磨は、塔のある角度のみを入念に摩滅させるとともに、その反対側を分厚い砂で固めていった。

 風だったのだろう。伝説の海からの湿った潮風が、統合される窓の反対側の壁面を強固な反響板へと変えていったのだ。

 砂漠はこうして、裂け目を育てていった。砂漠には砂の耳が必要だったのだ。なぜならば、砂男は目を奪われていたからである。


 「耳のある者は聞くがいい。目のある者は見るがいい。鼻のあるものは嗅ぐがいい。舌のあるものは味わうがいい。ほらほら、これが僕の骨。指のある者は突くがいい。坊主憎けりゃ今朝まで便秘。腸のあるものは脱糞するがいい。そして歯のある者は咀嚼するがいい。そして紙を欲するがいい。求めよ、そうすればあてがわれるであろう。爪のあるものはかきむしればいい。肛門を叩け。そうすれば緩められるであろう。膝のあるものは膝まづいて足をお舐め。パンがなければパンを食べたつもりになればいいじゃない。だがしかし、空想で腹が膨れますか? ここがベツレヘムになりますか? オブラディーゴルゴダ。ゴルゴゾーラはここいら辺りのチーズでしたか?ほら。オリーブの実が次々と落ちて、転がっていく。そこは地中海でしょうか? エーゲ海でしょうか? それとも瀬戸内海でしょうか? オリーブがとぷんと沈む海に浮かんだ奴隷船の甲板からは、船底4キロに及ぶ大脳辺縁系の深さを感じることはできないでしょう。突如として盛り上がる海綿体がマッコウクジラの御神体なら、イヨマンテの夜は北前船に乗って産卵する珊瑚の卵を鷲づかみ、丼にしてかっ食らった日の思い出が走馬灯のように浮かんでは消えて、浮かばれず出てきてしまうかもしれないのです。いえいえ。体育会系サーフィン倶楽部を罵倒しているわけでは決してなく、むしろ逆に! サーッと寄ってきてかと思えば身体にまとわりつき、サーッと後ろへ流れていく星屑のステージのような、羽虫のような、ケチャップ詐欺のような。そんなあなたに私はなりたいとは、これは口を滑らせてしまいましたね。滑る。滑れ。統べろ。べしゃれ。義経12歳のしゃれこうべが「あなめあなめ」と砂に歌う声を聞け。そして合いの手を入れろ。ノリが全てだこの世の中は。乗り遅れるな、乗り込むのよ! 砂漠を横切るキャラバンは運命共同体だし、定期的に人身御供を置き去りにして逃げろ、逃げろ。全てのオリーブから逃げ出せ。そして滑れ。目の前に道はない。僕の後ろにも明確な道はできない。がゆえに、追っ手を撒くには滑り続けるしかなかったのです。東へ行くのよ唇かみしめアナメアナメナイル? チグリスユーフラテス? インダス? 西遊記道中肌理庫裏摩。越すに越されぬ大井川。しかし、ヤジキタ三姉妹の逃避行はいつから、出エジプト記となったのだろうか。それともヘディン『さまよえる湖』探索デスマッチコンテスト第九番乾季のポイズン合唱隊の一員か、はたまた失われた砂絵曼荼羅プリーズカンバックトウーミー」

 という私の脳内名調子を遮り、群集は「ティモテを!」と叫んだ。中央の私の頭上には「空想の王」という札があり、いま一人は「ナボナ」だった。そして再び叫ぶサンドマン。

「助けるべきは誰か?!」

「ティモテを!」

 一つ一つの砂粒が声を上げる。サンドマンは能面をつけているのにもかかわらず、満面に笑みを称え、「今一度問う!」と叫ぶ。

「十字架から降ろすべきは誰だ!」

「ティモテを!」

 「ティモテ」は、マルチ和牛商法で数億円を集金した上、豪華客船をチャーターしてたまたまイフガメ観光に来ていた善良なるクレタ人であった。そして今一人の「ナボナ」。ああ、なんとかわいそうな「ナボナ」。彼は話題にされることもなくずっと涙目で、グリコのスタイルで磔られているのだが、正直、彼がどこの誰で何をして現在に至ったのか不明でありました。

 私は彼がなぜ、ここにいるのかについて、説明することはできる。だがそれが「ナボナ」でなければならなかった積極的理由は、残念かつ残酷なことに、何もなかった。

「ティモテ」は救われた。墨痕鮮やかな「無罪」の半紙を掲げて、焼けた砂の上を支援者の下へかけていく「ティモテ」の、トゥルントゥルンの金髪。両手を広げて「ティモテ」を待つ群衆。その道筋の途中には、実はでかい落とし穴が掘ってある。なるほど、それを掘った実行犯が「ナボナ」だということになれば、物語的にもつながりと広がりが生じる。駆けてゆく「ティモテ」を焼かれた瞼の隙間から凝視する「ナボナ」の眼。

 だが、「ティモテ」は直径30メートル深さ4キロに及ぶ落とし穴のあるはずの砂を軽やかに滑って超えた。「ナボナ」は凝然とうな垂れ、それから天を仰いで叫んだ。

「エリ・エリ・レマ・砂漠谷」

 とサンドマンは尻を掻きむしりながら尋ねてきた。能面の眼からボロボロと砂が落ちている。泣いているのだろうか? その空虚な内面は釜名見のヨリワラとなるであろう。

 

 お~~~~~~と。待った!!!


 ガクン、という衝撃があり、私は脇腹を左右から吊り下げられていた。

(『物語からは、作者は、常に排除され続けなければならない』 J・ジョイス(嘘))


 そのころ、工辞基は、勤怠管理部で、地媚と再会していた。かつて、恋仲であった、二人の、間には、熱く、だが、乾ききった、砂漠が、広がっていた。

 「君には感謝している」

 と工辞基はカウンターのあちら側に座っている地媚の元へ歩み寄ろうとした。だが地媚は一言も発しないまま、真っ赤な目で工辞基を視ていた。

 地媚は自分が、室田に対する工辞基の、そして工辞基に対しては課長の、ダブルスパイとして立ち回ってきた過去を高速度で回顧していた。

 始めは課長だった。地媚は有能な秘書として課長のスケジュールを完璧に切り盛りし、課長に相応しい立ち居振る舞いをマネージメントしていた。そこに、工辞基が現れた。課長はンリドルホスピタルへ入院する前に、地媚を営業二課へ転属させた。思えば地媚は男の都合で簡単に転属させれられる人生を送ってきたのだった。

 自嘲気味に笑う地媚。

 工辞基は、その笑みを楽観的に捉えられるほど自惚れてはいなかった。それに地媚の、赤裸々な回顧は、室内側面のスクリーンにくっきりと映写されていたのであった。

 工辞基は「地媚クン」ともう一度呼びかけ、そのスクリーンを指さした。そこには、工辞基と地媚との夜の営みが無音で映し出されていた。地媚その映像を見た。だがその赤い目には何の感情も現れなかった。

 乾いていた。

 地媚の真っ赤な双眼はあまりに乾いていて、鮮明な像を結びこそすれ、それが揺れることは一切なかった。涙とは像を揺らすために瞳を覆っているのだと、工辞基は思った。

 いまや、課長の母として、そしてこの世界のビッグマザーとしての風格をもたたえた地媚は、そのような赤裸々な状況にあってもうろたえることはなかった。

 室田の姑息な人事介入によって端末を経験したことは、怪我の功名だった。自分はタイラナカナル総合図案の核心を知る存在であり、一連の騒動の事実を誰よりも集積していた。その自信だった。

 「課長代理」

 と、地媚は口から光を発した。

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