第6話 生業と命

 彼らは慶次郎とりんに詫びた。りんの噂を聞き、見に来たことを白状した。我らは高慢になり果てておりました。だが光悦も一人の婆沙羅だった。光悦は敢えて死を覚悟で言った。


「私の生業(なりわい)は、磨礪(とぎ)、浄拭(ぬぐい)、鑑定(めきき)の三事を業と致しますが、特に刀をお佩きになるお人に、その刀が相応しいか観ることで御座います。打ち、沸(にえ)、匂(におい)、瑕疵、姿の妙なども観ますが、戦場でそれがどのような働きをするかまでは分かりませぬ。よって今、ここで私の生業が卑しきことを知りました。」


 光悦は言葉を継ごうとした。次の言葉に慶次郎が共鳴せねば命はない。書で遊んだからといて相手は武士である。非礼を見抜かれてただで済むわけは無い。しかも、相手は音に聞こえたかぶき者である。世間体など意に介する筈もない。光悦は、若い素庵の命は自分の命に引き替えても守ろうと思った。

 だが、横の素庵の様子を見て目を丸くした。


 素庵は、真っ赤な顔をして鼻水が垂れているのも構わず、一心にりんを見ていた。風邪を引いていたのだ。次の瞬間、命が消え失せるかも知れぬのに、目を輝かせてりんの美しさを堪能していたのだ。その目は素直に見開かれており、好奇の色はなかった。りんは顔を少し赤らめていた。いやな気はしていなかった。

 光悦は素庵を見て驚いたが、この純真な若い友を愛おしく思った。光悦の素庵を見る目が細くなり、意を決すると大きく開き慶次郎を見た。そこにはいくさ人と同じ顔があった。


「この阿修羅様は私如きの見立てには過ぎております。だが、敢えて言えば、非のうちどころは御座りませぬ。いつでも我が家に来て頂き、床の間に座って頂きたい。」

 光悦は阿修羅を観賞に来たという態度をあくまで示した。死を賭した遊びなのである。かぶき者にはかぶいて通すのが遊びの法則であろう。


 慶次郎は頭をぺこりと下げて、私の家臣にもう一人、鬼の一本気がおります。我ら主従三人をよろしくお願い申す、と言った。


 芸術家とは卑しき稼業である。いや、そうあるべきである。人々に感じられて人々からその代償を初めて与えられる。だが、芸術を完成する為の特殊技能、技術のお陰で、財的に恵まれたり太鼓持ちに持ち上げられたりするのは、世間が迎合するからだ。幸運としか言いようがない。光悦は技術と芸術の区別をはっきり理解したに相違ない。


 光悦と素庵は後に古典文学の刊行に尽力した。現在、国立国会図書館に、その中の一つの挿し絵入りの「伊勢物語」が保存されている。「源氏物語」や「伊勢物語」は豪華な色刷りの本として、大名や豪商の娘の嫁入り道具などとして伝わっていた。それを彼等は一般に広めようとしたのである。調子に乗った慶次郎の講釈が、彼等に影響したと考えるのは行き過ぎであろうか。

 


平成三十年霜月吉日 「前田慶次郎異聞三巻より抜粋、推敲。

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光悦、素庵、りん、そして慶次郎 ~前田慶次郎異聞より 泊瀬光延(はつせ こうえん) @hatsusekouen

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