そして魔女は塔を下りた

 王国でいちばん高い塔のてっぺんには魔女が住んでいる。

 瞬きの間に百の景色を視て、天を渡る風の歌声を聴き、鳥と獣が平伏す森の女王の言の葉を繰る。王の城よりも高い高い塔の影を見上げるたび、人びとはおそろしい怪物を目にしたように震えながら彼女を呼んだ。塔の魔女、と。

 塔の魔女と呼ばれる娘は人よりも長い命を持っていたが、不死ではなかった。母から子へと代替わりをくり返し、細々と魔女の技と血をつないできた。

 どのように子を得るのかといえば、実に単純だ。先代から跡目を継いだ魔女は密かに塔を下りて、人の娘と同じように恋をする。それだけのこと。

 当代の魔女は嘆息した。母から跡目を継いだものの、塔の下の世界を思うと憂鬱になる。

 賢しい彼女は、人の世から太古の闇が薄れはじめていることに気づいてしまった。神秘のヴェールは文明の火に焼き払われ、やがて断罪の名の下に煉獄を生み出すだろう。

 己が最後の塔の女主人であるという確信も、若き魔女は抱いていた。

 滅びを約された未来を次代に託して何になろう。処女たる胎を撫でさすり、娘はうなだれた。

(徒花を咲かすだけの恋など、なんの意味があるというの)

 その年、王国は厳しい冬に襲われた。

 雪の女王率いる軍勢が国じゅうを蹂躙し、病める者や貧しき者から命を刈り獲られていった。

 娘は下界の有り様に眉をひそめ、王国のかまどというかまど、暖炉という暖炉から火が絶えることのないよう厳重にまじないをかけた。

 魔女の技を以てしても掬いきれぬ命はいくらでも続いた。口減らしに捨てられた赤子が、翌朝には青白い天使の彫像のように凍りついている。人びとは塔を見上げては魔女に救いを求めた。

 娘は貝のように沈黙した。

 彼らの願いは、神にしか叶えられない奇跡だったから。

 雪嵐の咆哮が猛る夜のこと。寝台に横たわっていた娘は、塔の螺旋階段を上ってくる足音に気づいた。

 息を潜めて獲物に迫る狼のごとき気配は、塔の扉を固く閉ざす封じをこじ開けるほど苛烈な殺意に満ちていた。

 娘が気だるく身を起こしたとき、寝台を囲う紗の帳が揺らめいた。

 帳を掻き分けて飛びこんできた影は小さかった。泥まじりの雪の匂いが滴り落ちる。

 寝台に押し倒された娘は、暗殺者を凝視した。

 薄藍の闇に、ぶるぶると震える小刀ナイフの切っ先が危うげに光っている。娘の上にいるのは、幼い少年だった。

 縮れ髪が取り巻く顔には跳ねた泥がこびりつき、紫色のくちびるの奥で生え揃わぬ乳歯がかちかちと鳴っている。夢のように白い娘の手がそっと頬の汚れを拭うと、両目をこぼれんばかりに見開いた。

「外は寒かっただろうに」

 あかぎれだらけの少年の手から小刀が落ちた。

 少年は、魂を吸い取られたかのような顔で娘を見ていた。夜着の薄い布地に悩ましい肢体を浮かび上がらせ、物憂く笑む妖精の乙女のごとき姿を。

「わたしを殺すために、よく来たね」

「あなたが――魔女なの?」

 戸惑いを隠さない質問に、娘は頷いた。少年の眸に憎悪の光が宿る。

「どうして、おれの妹を殺したの」

 少年は訴えた。

 幼い兄妹は、口減らしのために家を追い出された。その夜のうちに、妹は雪の女王の腕に攫われてしまった。

 大人たちは、塔の魔女こそ雪の女王の軍勢を呼び寄せたに違いないと噂していた。だから少年は、復讐を遂げるために塔のてっぺんまでやってきた。

 娘は首を横に振った。

「わたしは人より少し物知りで、人より少し長生きで、人より少しできることが多い、ただの魔女だよ。天候どころか時の移ろいに干渉するなんて、魔女には許されない領分だ」

「うそだ!」

「嘘ではないよ。神々と妖精が地上で遊んでいたころならば魔法使いにもできた芸当かもしれないけれど」

 少年の口がわなないた。

「なら、おれの妹は、どうして死んでしまったの」

「それが運命。理だからだよ」

「あなたは魔女なのに!」

 娘は笑った。

「だからこそ死を覆すことはできない。垣根の上に立つ魔女は、心して魔法を使わなければならない。なべて理は理のまま、灰と土に還るまま」

 獣の唸り声が上がった。

 少年は肉づきの薄い背を震わせ、娘の胸に突っ伏した。乳房の膨らみの谷間まで染み通る涙の冷たさに、言い様のない情愛が沸き起こった。

 泣きじゃくる少年を、娘は両腕で抱えこんだ。

「よくぞ、来てくれたね。生きて、来てくれたね」

 帰る家のない少年を、娘は弟子という名目で手元に置いた。

 丁寧に泥を洗い落とせば、少年は晩秋の森のように燃え立つ赤銅色の髪をしていた。見事な赤毛を撫でてやると、少年はうっすら眦を染めて「おれは仔犬ではありませんよ、お師匠さま」とつんとそっぽを向いた。

 弟子と言いながら、ただの人である少年が魔法使いになれるはずもない。幼くも意志が強く利発な少年はよくよく事実を理解しており、進んで娘の身の回りの世話を焼いた。

 三年、五年と過ぎるころには、少年は立派な魔女の従者に仕上がっていた。

「まったくあなたときたら、見た目は御伽噺に出てくる妖精のお姫様のくせに豚のようにだらしがない!」

(少々、口が悪いところが欠点だね)

 弟子の雑言を聞き流しながら、娘は若者らしくなった少年をとっくり見つめた。

 枯れ枝のようだった手足はすらりと伸びて、いつの間にか目線の高さが並ぶようなった。

 近ごろは修行の代わりとばかり、たびたび塔を下りてはどこぞで棒っきれを振り回しているらしい。塔の魔女のありもしない噂を言いふらしていた悪童を懲らしめてやったと傷だらけで胸を張られた日には、苛立ちのあまり骨まで染みる軟膏を傷口にたっぷり塗りこんでやった。

「聞いていますか、お師匠様」

 少年がむっつりと睨んでくる。娘は首を傾げて微笑んだ。

「聞こえているよ。かわいい仔犬がよく吠えるおかげで」

 途端に、少年は渋い木の実を噛んだような顔をした。

「……おれは、今でも気まぐれに拾った犬のままですか」

 火が点いたようなまなざしに晒され、娘はくちびるを引き結んだ。

 瑞々しく、しなやかな筋肉がついた腕が伸びて、少年の指が宙をさまよう。葛藤に揺れる眸を伏せ、彼は拳を握りこんだ。

「おれは、もう仔犬ではありませんよ」

 娘とて、まなざしの温度を、押し殺した声に滲む熱情を、察せられぬほど無知ではなかった。少年の耳の先が火傷したように紅潮している。困惑と、恥じらいと、期待と――それらを上回る後ろめたさに、娘の心は冷たく萎んだ。

(変わらないのは、わたしだけ)

 少年と出会ったころのまま、娘は年老いることなかった。

 魔女は不死ではないが不老の性を持つ。母も、そのまた母も、娘盛りの姿のまま寿命を迎えた。まるで石できた花が砂となって崩れ去るように、魔女の骸は瞬く間に灰土へと成り果てる。

(徒花を咲かすだけの恋に――滅びゆく魔女でしかないわたしに、なんの意味があるというの)

 娘は細い腕を伸ばし、少年の頬に触れた。

 びくりと肩を跳ね上げて振り向いた少年を抱き寄せる。堅い、男の躰だった。

「そうだね。おまえは、こんなに大きくなった」

 胸を焦がす想いが、鼓動になって心を打ち震わせる感情が、なんというのか娘には理解できなかった。名づけないままでいたかった。そうすれば、傷を舐め合うようなままごとを永遠に続けていけるような気がしたから。

 時を止めることなど、ただの魔女にできるはずもないのに。

「だから、今日でおまえは卒業だ」

「え……?」

 唖然とする少年に、娘は寂しく笑いかけた。

「王に手紙を書いた。魔法の才はないが、剣の才がある子どもを預かっていると。おまえの剣の師である騎士殿に話をしたら、喜んで後見人になることを引き受けてくれたそうだ」

「何を――何を言っているんですか!」

 少年は激昂した。

「そんなこと、おれは頼んでいない!」

「ああ、そうだね。だっておまえはわたしの弟子だもの。弟子の身の振り方は、師匠が決めて当然だろう?」

 冷笑して突き放せば、少年の瞳が怒りと悲しみに波打った。どうしてと弱々しく問うくちびるに、娘はけして口づけなかった。

「わたしは魔女だ。おまえと同じものにはなれない。おまえは、おまえと同じもののなかで――人の理のなかで生きるべきだ」

「……お師匠様までおれを捨てるんですか」

 いいや、と娘は否定した。

「おまえは、今このときまで、けしてわたしのものではなかったよ。そうであったならどんなに幸せだろうかと、考えずにはいられぬほど」

 少年の、瞳が、揺れる。瞬きの間に、娘は少年を塔の外へ弾き出した。

 今ごろ、王の城の謁見の間で呆然としているだろう。王と後見人となる騎士から、輝かしい将来について説かれるだろう。

 脅迫まがいに王へ持ちこんだ話だったが、少年の才能を見こんだ騎士が賛同してくれたおかげで順調に事が運んだ。

(もう、何も憂えることはない)

 ずるずるとその場に崩れ落ち、娘は空の両腕を力なく投げ出した。

 少年とはじめて出会った夜の、魂が凍るような寒さを思い出す。

(もう、何も喜ぶことはない)

 その手で砕いた恋の破片を胸に突き立て、魔女は人の娘のように泣き叫んだ。

 それから幾度の朝と夜がめぐったか。

 魔女は確かに記憶しているし、忘れてもいる。凋れることなき石の花のごとく塔の上に座していた。瞬きの間に百の景色を視る瞳で、風の歌声を聴く耳で、少年を追い求めようとしては心を殺した。

 なべて理は理のまま、魔女は魔女の領分を過ってはならぬ。

 その年、王国は厳しい冬に襲われた。

 雪の女王率いる軍勢が国じゅうを蹂躙し、病める者や貧しき者から命を刈り獲られていった。

 娘はかつてのようにまじないを施してから、ふと考えた。

 かまどにも暖炉にも近寄れぬ者らは、どうすれば助けられるのか。

 理は変えられぬ。運命は書き替えられぬ。それでも、死へ抗うことは、希望に縋ることは許されるはずだ。

 娘は雪に埋もれゆく者たちの許へ、一本の燐寸マッチを送り届けた。

 たった一本、火を灯せばけして消えぬ魔法の燐寸を。

 結論を述べれば、雪の女王の呼び声から逃げられなかった者は数多くいた。しかし、魔法の燐寸の火によって生き延びた者もいた。

 彼らは口を揃えて言った。寒さに震えていると世にも美しい乙女が現れ、微笑んで燐寸を差し出したのだと。

 王国のあちこちで、燐寸売りの天使と呼ばれる乙女の噂がささやかれるようになった。吹雪が荒れ狂う夜毎、人びとは天使の名を唱えて祈りを捧げた。

 娘は塔の上から国じゅうを見渡し、凍える者を見つけては魔法の燐寸を与えた。すべての炉端から火が絶えぬよう呪文を詠いながら。

 長い長い冬が明け、道という道が泥濘に覆われたころ。都の広場で、ひとりの男が塔のてっぺんを指さして叫んだ。

「魔女を殺せ!」

「雪の女王のしもべ、悪しき塔の魔女を殺せ!」

「魔女を塔から引きずり下ろせ! 天使の火で焼き殺せ!」

 男の手には一本の燐寸が握られていた。

 人びとは顔を見合わせ、やがて口々に「殺せ!」「魔女を焼き殺せ!」 と声を張り上げた。

 彼らは忘れていなかった。救いを求めても応えてくれなかった、氷のごとき塔の魔女を。彼女こそが雪の女王を招いたのだという、おそろしい噂話を。

 群衆は王の城へ押し寄せ、魔女を火炙りにすることを要求した。

 暴動は国じゅうに広がり、王は慌てて魔女を裁判にかけた。法廷は幾度も開かれたが、魔女は塔を下りることなく姿を見せなかった。

 狂乱する民意こそを危惧した裁き司は、重々しく木槌を叩いた。

「塔の魔女を火刑に処す」

 塔の上で、娘はすべてを視て、聴いていた。雪泥にまみれた人びとの靴が地を揺らし、塔のてっぺんまで断罪の歌を響かせる。

 娘は面を伏せた。

 間もなく王は下知を下すだろう。王の城よりも高い塔をだれより忌まわしく思っているのは、この国で最も偉大であるべきはずの者なのだから。

 泥濘の上を隊列が進む。夜半、王の命を受けた騎士たちが塔を取り囲んだ。

 魔法の封じが打ち破られたとき、娘は己の運命を思い知った。

 塔の螺旋階段を軍靴が駆け上がる。

 死の運び手の足音は、ひとりぶん。その響きを、聞き間違えることなど娘にはできなかった。

「よく来たね」

 塔のてっぺんにたどり着いた騎士へ向かって、寝台に腰かけた娘はうっとりと微笑んだ。

 鮮やかな赤銅色の髪を靡かせ、銀の剣を手にした青年は、憎しみを青い炎のように燃え上がらせて娘を睨んだ。

「わたしを殺しに、来てくれたね」

「魔女め」

 青年は低く唸り、剣の切っ先を娘に向けた。娘が知らない、男の声だった。

「俺は、あなたに復讐するためにここへ来たのだ」

 娘は嬉しくて仕方なかった。己はなんと幸福な死を迎えられるのだろうと、ほろほろと落涙した。

「ずっと会いたかったよ、おまえに」

 青年へ両手を差しのべ、娘は誘った。

「さあ、おまえの手で散らしておくれ。摘まれることなき石の花を」

 銀の剣がゆらりと振り上げられる。娘は穏やかに目を閉じた。

 かすかな風圧を感じ――ぷつりと紗の帳を留める紐が切れる音。

 寝台に押し倒された娘は両目を見開いた。赫々と滾る炉のようなまなざしに息を呑む。

 薄い夜着の下で小鳩のごとく震えるまろい乳房を、無骨な男の手が捕らえた。

「あ――」

 許しを乞おうとほどかれた珊瑚色のくちびるに、青年が噛みついた。

 嵐の海に投げ出されたような接吻だった。

 かつて少年だった男が何度も洗った敷布に、娘の、女の豊かな髪がうねりながら広がる。布地越しに柔肌をまさぐられ、深く口腔を愛撫され、娘は未知の快感に溺れた。

 荒々しく夜着の胸元を引き裂かれると、白い膨らみがまろび出る。

 乳房の谷間、心臓の真上に青年がそっと口づけを落とした。生々しい交情が嘘のような、神聖なものに触れる仕草だった。

 娘はぼんやりと青年を見上げ、赤銅色の髪を撫でた。青年は薄目を開き、何かをねだるように娘の手に頬擦りした。

「どうして――」

 問いかけは形を成さなかった。

 青年の眸にあるのは、魔女のまじないを凌駕したのは、殺意ではなく溢れるような情愛だった。それをなんと呼ぶのか、とっくに娘は知っていた。

「今更だろう」

 青年は、思いがけずやさしく笑った。

「あなたが俺を欲しがってくれないのなら、俺があなたを貰おうと思っただけだ」

「は……?」

「あなたは高慢ちきだから、塔の上から盗み出される姫君でないと気が済まないだろう」

 娘はひくりと頬を引きつらせた。

 ちょっと離れていた間に、かわいい弟子は実に小憎たらしい男になっていた。

「何を言っているの。立派な騎士になって、わたしを裁くためにやってきたのだろう?」

「確かに悪しき魔女を罰せよと命じられたが、俺の目の前にいるのは気まぐれで情け深い燐寸売りの天使だ」

 きょとんとする娘に、青年は大仰にため息を洩らした。

「俺があなたの魔法に気づかないとでも?」

 仮初めとはいえ、青年は名高き塔の魔女の弟子であった。

 凍死を免れた物乞いの老婆に見せてもらった燐寸の燃え滓から懐かしい魔法の残り香を嗅ぎ取り、現れた乙女の特徴を聞いて天使の正体を確信したという。

「それだけではない。どんな家の小さな炉端にも、あなたのぬくもりを感じた」

 青年は、途方もない愛しさを湛えて娘を見つめた。

「死んだ妹より小さな子どもが、あなたの火に守られて冬を越せた。幾人も、幾人も」

「わたしは、ただ、まじないをかけただけだよ」

 娘はゆるりと首を横に降った。

「あきらめず、生きてくれたのは、彼ら自身だ」

 長らく見つめてきた王国を、そこで生きる人びとを、娘は愛していた。

 遠く、手の届かない世界だけれど、確かにあすこは娘の命につながる故郷なのだから。

「塔の魔女に生まれた娘は塔から下りて恋をするの。幻のような、美しい、短い恋を。先代の母も、そうしてわたしを授かった」

「なぜ、あなたは塔を下りなかったんだ?」

 青年の問いに、娘は苦笑まじりに微笑んだ。

「御伽噺の時代はじきに終わる。塔の魔女は、わたしで最後だから」

「ひとりぼっちで死ぬつもりだったのか。こんな寂しい塔の上で」

 青年は苦しげに眉根を寄せた。

「許すものか」

 首筋に吹きかかる吐息の熱さに、娘はぶるりと身を震わせた。

「俺が奪ってやる。あなたを、この塔から。魔女の宿命から」

「それこそ、だれも許してくれないよ」

「あなたを踏みにじった連中など知ったことか。民をまとめきれぬ王のための生贄などにさせたりしない」

「どこへ逃げるというの」

「協力者がいる」

 驚いてみせる娘に、青年は悪童のように笑った。

「あなたがすばらしい後見人を見繕ってくれたおかげで、あなたを連れて雲隠れできるだけの伝手を作ることができた。あとは、あなたがおとなしく攫われてくれればいい」

「愚か者」

 娘はしゃくり上げ、青年の首にかじりついた。

「こんな女のために、名誉も故郷も捨てるというの?」

 力強い腕が娘を抱きしめた。

「あなたが俺のものになることに勝る幸いが、他にあるなら教えてくれ」

 心からの声だった。

「愛しているなら勝手にあきらめないで、俺とともに生きてくれ」

 娘は咽び泣いた。

 幻のように美しい、短い恋ではない。泥にまみれた石のように、汚れて歪んでいても、永遠だと信じられる愛が欲しかった。

「愛している」

 涙に溺れながら、魔女は願った。

「悲しみも喜びも、おまえと知りたい。おまえと生きたい」

 騎士は微笑んで、彼が守るべきひとへ恭しく口づけた。魔女の呪いに囚われた姫君を眠りから呼び覚ますように。

 己の内側で、何かが生まれ、何かが失われる予感に、娘はひと粒の涙を流した。

(わたしは娘を産むだろう。魔女を滅ぼす炎の色をした髪の、人の子の娘を)

 その赤は、闇を焼いて産声を上げる暁の火の色でもあった。

 目が眩むような光を感じ、娘は恋人を呼んだ。

 夏の雨のごとく降り注ぐ接吻の合間に、青年は、彼だけが知る魔女の秘密をささやいた。

 どんな魔法の呪文も退ける、愛の言葉を。




 王国でいちばん高い塔のてっぺんには魔女が住んでいた。今はもう、だれもいない。

 やがて王国が滅び、塔よりも高い建物が立ち並ぶようになると、魔女と騎士の御伽噺すら忘れ去られた。

 いつか朽ちる塔だけが、古い恋物語を風に歌っている。

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そして魔女は塔を下りた 冬野 暉 @mizuiromokuba

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