そして魔女は塔を下りた

冬野 暉

魔女の塔

 その塔は、まるで世界から切り離されたようにひっそりと佇んでいた。

 風雨に晒され続けた石の外壁は黒ずみ、至るところに蔦が這っている。目に沁みるような青い空に浮かび上がる細長い影は、今にも崩れてしまいそうなほど危うかった。

「これが〈魔女の塔〉かい?」

 彼が塔を見上げながら尋ねてくる。わたしは目を細めて頷いた。

「そうよ」

「ずいぶん古いなぁ。つっついたら倒れてしまいそうだ」

「何百年も前からここに建っているんだもの。古くなって当たり前よ」

 わたしは蔦に覆われた外壁に近づくと、そっと手を伸ばした。掌を当てると脆くなった石の表面がぽろぽろと屑を落とす。彼が慌てたように「危ないよ」と声を上げた。

「大丈夫よ、触るだけだもの」

 わたしは平然と返した。本当は一瞬ひやりとしたけれど、わたしに瓦礫が降りかかることはないという妙な自信があった。

 外壁を撫でると、乾いた感触とともに不思議な懐かしさが伝わってくる。幼い頃に別れた親しい友人と再会したような、ずっと離れていた故郷の土をようやく踏んだような、胸を満たす静かな喜び。

 はじめて訪れる場所なのに、生まれる前から知っているような気がしてならなかった。

「……まるでおかえりって言われているみたいだわ」

 思わず呟くと、いつの間にか傍らへやってきた彼がおかしそうに笑った。

「おいおい。きみはここへ来たことがないんじゃなかったのか?」

「そうだけど。でも、なぜか懐かしいのよ」

 わたしに流れる血のせいだろうか。かつてわたしの祖先は、この塔とともに時を重ねてきた。

〈塔の魔女〉と呼ばれた女魔法使いたち。まだ世界中に魔法の息吹が満ちていた時代、優れた魔法使いを生む血統として名を馳せた一族。

 その末裔が、わたしだ。

 錬金術の研究が進み、蒸気機関が発明されたことをきっかけに、魔法文明は急速に衰退していった。わたしの一族も時代の流れに逆らえず、魔女の技とともに長く住処であった塔も捨てなければならなかった。

 わたしが母から受け継いだのは、子ども騙しのようなまじないと占術、薬草の知識だけだ。指一本動かさずに人を殺せる呪文も、遥か遠い未来さえ見通す目も、歴史の闇へ永遠に葬られてしまった。

 魔法を失った魔女の子孫であるわたしが錬金術師の彼ともうすぐ夫婦になるなんて、考えてみると皮肉なことだ。とはいえ、今さら魔女の名にしがみつくつもりはないし、錬金術を憎もうとは馬鹿馬鹿しくてとても思えないけれど。

「『こうして、赤毛の騎士によって邪悪な塔の魔女は追放され、王国は平和を取り戻したのです』――だっけ?」

「……『塔の魔女と赤毛の騎士』ね」

 それはこの地方に伝わるおとぎ話だ。王国を乗っ取ろうと企む魔女を、ある勇敢な騎士が退治するという英雄譚。

 わたしも幼い頃によく母から聞かされた。虚構の裏に隠された、密やかな真実とともに。

「本当にそうなのかい?」

 無邪気な子どものような彼の問いに、わたしは肩を竦めてみせた。

「さあ、どうかしら」

 魔法が廃れてゆくとともに、やがて魔法使いは疎まれるようになった。真理を探究する錬金術にかぶれた人々にとって、解き明すことのできない神秘を根底に孕んだ魔法は、いかがわしいペテンに成り下がってしまったのだ。

 わたしの一族も魔女狩りに遭い、慣れ親しんだ土地から逃げ出さなければならなかった。そして〈塔の魔女〉を追い立てたのが、〈赤毛の騎士〉と呼ばれたもののふであったことは事実だ。

「教えてくれないのかい?」

「『貝のごとく沈黙せよ。さればこそ秘め事は真珠となる』」

 わたしの答えに、彼は目を瞬かせた。

「……なんの呪文?」

「魔女の教えのひとつよ。秘密は秘密であってこそ、人を魅了する宝石だってこと」

 娘に本当の物語を教えるとき、母親は必ずこの言葉を口にする。

「なるほど。言い得て妙だなぁ」

 彼は完敗だというように苦笑した。

 わたしはもう一度塔を仰いだ。この塔も長い間、物言わぬ貝であり続けたに違いない。かつての女主人のために。

 けれど、もうその役目も終わりだ。

 近いうちに〈魔女の塔〉は取り壊される。跡地には新しい錬金術の研究所が建つと聞いた。

 だからこそ、わたしはここへやってきた。一族の住処であり、伴侶でもあった塔をひと目見るために。

「……今までありがとう」

 ささやくように語りかけると、ふわりとやわらかな風が頬をくすぐった。陽射しを浴びて、塔の外壁が仄白い輝きを帯びる。

「そろそろ行こうか」

 彼が遠慮がちに腰へ手を回してきた。名残惜しい思いがこみ上げてきたけれど、わたしは外壁から手を離した。

「そうね。……行きましょう」

 わたしは彼に向き直ると頷いてみせた。彼はホッとしたように笑った。

「よかった。――このままここに居着いてしまうかと思ったよ」

「そんなことあるわけないじゃない」

 思わず呆れると、そうだけど、と彼は困ったように表情を曇らせた。

「なんだかきみが塔の中へ消えてしまいそうで……怖かったんだ」

 呟く彼の瞳が本当に心細げで、わたしは一瞬どきりとした。

「ただの気のせいよ。わたしが感傷に浸りすぎちゃったのね。ほら、行くんでしょう?」

「……ああ」

 彼は小さく頷くと、静かに片手を差し出した。その手を取った瞬間、既視感が体を駆け抜けた。

 ――遠い昔、同じように塔から去った魔女がいた。

 わたしは塔を振り返った。

 長きに渡って魔女の血を守り続けてきた塔は、その最後のひとりであるわたしをじっと見つめているようだった。

 おとぎ話に秘められた真実。魔女は塔から追われたのではない。救い出されたのだ。

 魔女を助けたのは、魔女と恋仲だった騎士。彼は〈魔女の塔〉へ自ら攻め入り、混乱に乗じて密かに恋人を逃がしたのだ。

 騎士に手を引かれて遠ざかる魔女の背も、塔はこうして見送ったのだろうか。

「どうしたんだい?」

 気遣わしげな彼の声。わたしは塔から視線を戻し、小さく首を横に振った。

「なんでもないわ」

 それでもつないだ手に力をこめると、彼は何も言わずに同じ強さで握り返してくれた。

 おとぎ話のなかで、魔女と騎士のその後は語られていない。ふたりがどうなったのか、わたしだけが知っている。

 そう遠くはない未来、わたしはこの秘密を語るだろう。〈塔の魔女〉の血を引くわたしの娘に。

 だれも知らない恋物語は、固く閉ざされた貝の中、真珠となって眠り続ける。古の恋人たちが望んだとおりに。

 不意に、背後からどっと風が吹きつけた。遠い世の父から受け継いだ、燃えるようなわたしの赤い髪が踊る。

 まるで背中を押すような風が、耳元で優しく、悲しげに鳴った。

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