第4話

 茅の群を過ぎると、そこは広い河原であった。まばらに流木が点在し、ときおり水鳥の声があがる。無数の石はぜんぶ別個の顔をして四方八方を睨んでいた。当の川といえば、対岸まで三間程度の谷川で、水草が頼りなさそうにゆれていた。

 山と山とを裂くように下りくるこの川は、ここでゆるやかな面を見せ、川下に向かうにつれてふたたびくびれた急流となり欝蒼とした森の奥へと消えている。雑魚の腹までが見えるささやかな流れにそって、河原、砂洲、茅の原、山林、断崖をふくんだ急斜面の山腹などが天に向かって椀状の景観をなしている。川はその中央を貫くようにかすかに蛇行しながらながれていた。

 狼は神妙に川に入った。水は小さく逆巻き、川底の石はすべる。だが、水の冷たさは身にしみて運動の火照りを癒してくれた。狼は物体化した白鳥を川面において喉の渇きをうるおした。

 その時のことである。白鳥は水の感触に己を取りもどしたのであろうか。突然翼をはばたかすと狂ったように水にはじいて喧騒に暴れまわった。狼はその勢いに押されて呆然とした。けれどもそこは浅瀬であった。水流は夜叉のもとから獲物を奪い去ることができなかったのである。

 落陽の朱に大地が染まりゆくなかで、一点の純白であるこの鳥はまさに天使の模倣であった。腹部を鮮血で汚した清らかな精霊。けなげな生への意欲を失わずにいる銀の翼。せまる山膚は闇へと向かい、有形無形の西側だけが、葉叢も樹皮も岩群も、谷川も大気も断雲も、真紅に染まりゆく日没の光と陰との美学。そこに一点なる天使の舞踏!

 白鳥はもだえ苦しみ、純白の羽を花吹雪のごとく散らしながら飛べぬ身を嘆くように空しく翼を打ちふるっていた。水しぶきは足もとからルビーのごとく宙にとび、その羽は風にもまれ清流に舞いおりて笹舟のごとくゆらりゆられて下流の森の闇のなかへと呑みこまれていった。

 どこからともない光は、くっきりと白鳥を浮き立たせていた。その刹那、その鳥を中心に世界は動いているのではないか、という錯覚は完全に許された。その鳥の苦しみがこの世を浄化しているのである。その姿はそれ自体がかぐわしい光ではなかったか。陽光よりもやわらかい絹糸のような光が、その体内から放射されているのである。生きているものの肌をさするようなぬくもりと息吹。極限でふるえている生命の音楽。一瞬に接続した永遠の相貌。

 美を理解しない狼でさえ、その鳥を食ったなら何百年も生きれるかもしれぬという不合理な幻想に捕らわれなかったであろうか。・・だが、所詮狼は狼である。血に飢えた狼は白鳥を川底におさえつけていた。愛妾の殺害を意図するがごとき苛烈な独占欲をも行動に加味したかのような狼は、鼻先から尻尾の先までが衝動に押されて動いていた。そこにはいかなる遅疑も逡巡もなかったのである。

 目を苦しいくらいに見ひらいた白鳥は一声天に叫んだかと思うと、それきりすべてをあきらめた。繊細な首は噛みくだかれた。血しぶきは狼の顔面をそめた。足をするどく痙攣させて白鳥の息は途切れた。川のなかという食事に不都合な場所は狼をとまどわせたが、今食わなければ自分もまた息絶えてしまうことを狼は知っていたのである。

 清流は落日と鮮血との色彩で金色にキラキラとかがやいていた。そのなかで白鳥の内蔵は引きさかれた。風はないで山巓はしずかであった。鳶が中空に大きな輪を描いている。落ち葉がほろりと舞ってはとまった。三枚の楓が離れて寄って狼のかたわらを流れすぎていった。

 狼は味もなにも考えず、錆付いた顎の力を全部使って血をすすり肉を喰らった。そのとき赤茶けた牙の片方が骨にあたって折れたのにさえ気づかなかった。顔中を血まみれにした餓鬼の表情は自然であった。自然すぎてあまりにも異様であった。

 ・・食べることのうまさはしだいに感じられてきた。久しぶりで血に酔ったのである。ああ、なんと長い間、雑草を喰らって生きながらえていたことか! その狼らしからぬ行為のすべてが、今では一場の悪夢のごとく思い出されるのであった。

 だが、飢えが循環するのは明白である。狼は偶然の獲物に有りついているからこそ、それをきれいに忘却しているにすぎない。生きる資格を喪失した者が生きるには、どれだけ大きな自然の圧力に耐えて行かねばならぬか測りしれないのである。

 しかしながら、白鳥がいかに憐れであろうとも、狼の凡庸な幸福の表情をながめながらそれを語るのは、あまりに酷な話であるかもしれない。それにまた偶然が彼の味方ばかりをするとはかぎらないのである。


              〇


 熊笹の茂みで幽かな物音がした。と同時に身構えた狩人は、それが野鼠かなにかの遁走であることを察したのであろう。おおきな伸びをしながら麓の景色を眺望した。

 雄大な秋が視界にひらけていた。理解を越えた光に接続されているかのような紅葉の山野であった。

 大いなる落日の下、葉叢のさやぎは谷川の流れと共鳴し、偉大なる交響楽の主旋律を奏でている。幽玄なる力に満たされた命の響きが奇跡的な美の世界を構成し、母なる日輪を讃える山巓の咆哮が澄みきった大気に谺している。

 もしもそこに詩人が立っていたならば、彼はその光景の圧倒的な美の迫力に魂をおののかせたことであろう。だが、それを眺望しているのは詩人ではない。狩人である。

 腰に雉を結い弓を握って直立していた狩人は、太い眉に鋭い目をした恰幅のよい丈夫であった。洗いざらしの紺の衣をまとい、髷は結わずに長髪を後ろでたばね無造作に背中へとながしている。頬の傷痕は熊と格闘した印であろうか。髭面の膚は焼けて浅黒く、目だけが翡翠のごとくキラキラと浮きでている。その風貌を一見して得心のいくことではあるが、彼は長年にわたる自然との苦闘に鍛えぬかれた飛鳥を射落とすといわれる近郷一の射手であった。

 狩人の眼光に怖れをなしてか、紅葉がいっせいに騒ぎはじめた。背に負うた矢の羽は、風に吹かれてさびしい笛の音を奏でている。だが、彼の心は動じない。

 落日は雲間にかかり、山颪の冷たさは地を凍えさす。冬は近い。狩人は去り行く秋の中心に立っていた。

 突風がふいに幾万の木の葉を舞い散らせた。そのときの事である。彼は山麓をつたう谷川のなかに棒切れのような物を発見した。それに纏わりついている白衣は・・白鳥である。狩人はそれが狼であることを確認した。

「やつめ、儂の獲物をかすめたな」その直感はただちに肉体にくだり、それからの行動の早さは虎豹のごとし。風を突いて山裾へおり、茅の間に間に身を隠しつつ、弓の射程距離内に音もなく忍びよった。狼は白鳥を喰らうのに夢中で人の気配に気づく暇もない。そこで狩人はやすやすと狙うのに格好な木蔭を得たのである。

 松の古木は射手の姿をかき消した。狩人は、腰に吊るした山鳥をそろりと木の窪においた。川辺を横目に矢をつがい、足を踏んばりいっぱいに弓を張って狼に狙いを定めた。鏃の先だけが幹から抜けでて落日に赤く染まっている。山のごとき筋肉と鬼神の目。精神一統・・狩人は星を射んとする勢いで矢を放った。

 狼はふと岸辺を見あげた。その右目を矢は貫いた。最後の一声はしずかであった。

 獣は息もたえだえに岸にあがろうとしてもがいていた。そのすがたは死の淵から這いだそうとする動物のあがきであった。

 狩人は短剣を構えながら狼ににじり寄った。そいつは岸の近くで水を掻いて引きつっている。狩人は川に踏みこんでその脇腹を思いきり蹴とばした。狼は岸にもどる望みを絶たれて白鳥に覆いかぶさった。そして水中に頭部を漬けたまま動かなくなった。

 狼と白鳥のまわりには、落陽にかがやく細波だけが無限にゆらゆらと揺らめいていた。その上をさり気なく夕風がすぎていく。

 狩人は生活者の目で、それらがもはや食糧にはならぬことを見定めた。そこで川に入り、狼の右目から矢を引きぬいた。首は石塊のごとく水中に没し、血は泥のごとく清流を濁した。

 狩人は矢をすすいで筒に入れ、もう一本の矢も探したが、すでに流れてしまったらしくそれはどこにも見当たらなかった。

 そのようなときに一枚の枯葉が狼の背につかえた。狩人は岸に上がると小石を拾ってそれを沈めようとした。石は二度とも命中したが、枯葉は浮いてそこにとどまっていた。彼は残りの石を対岸の岩膚に投げつけた。それは四方にはじけてカラランコロロンと谺した。話はそれだけの事であった。

 狩人は夕飯時を思って踵を返した。木の下の雉を肩に掛け遠のいていくその影は、後ろを振り返ることもなく山間の森のなかへ力強く消えていった。

 残された悲劇の上空には、断雲が狼や白鳥の血を吸い取った脱脂綿であるかのように赤くぽつんとふくれていた。五、六羽の烏が落日に向かって鳴きながら飛んでゆく。山陰には夜が忍びよっていた。

 死せる二つの魂はどこに消えたのであろうか。それは空しい詮索であろう。ただ小さな悲劇の跡には、狼と白鳥との哀話を物語るように岸辺に咲いていた野菊が、鮮血で花びらの色を変えたまま夕風にそよいでいたのである。

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孤狼(ころう) 日野 哲太郎 @3126

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