第3話

 砂煙は生きていた。その様はあたかも天地の黄金律であるとさえ思われた。求めよさらば与えられんとは、偶然にも作用する如意の理法なのであろうか。血に飢えた狼は見たのである。茅の向こうの砂埃の原因を。のたうちまわる白鳥のすがたを!

 狼の世界は一変した。清明なる山河は一瞬にして夾雑物に成りさがり、己の胃袋と鳥とをつなぐ一筋の線、それを捕えるためにすすまねばならぬ最短の距離、それが狼の世界となったのである。十四、五間向こうにいる白鳥はその極点であり、たそがれに光る生の標的であった。

 狼は目をむいて茅の間に間に身をかくし、獲物を追いつめたときの興奮を押し殺しながら、猫のように地を這って目標との間合いを縮めていった。気配を悟られてはならぬ。物音一つ立ててはならない。もしもこの獲物をのがしたならば・・! おお、それは禁句である。

 それは過去のいかなる勝負よりも切迫した一大賭博であった。生か、死か、それはこれから数十秒の間に決するのである。この勝負には是が非でも勝たねばならぬ。そう念じて息を吐いた途端、うかつにも涎がこぼれ落ち雨垂れのごとく草にはじけた。その幽かな音がふいに一匹の野鼠を走らせた。静寂がやぶれた。

 狼は事態の急変をさとってしゃにむに白鳥目がけて突進し、勢いよく地を蹴って宙をとんだ・・けれども、時は二つの関係をねじれの位置においたのである。白鳥は純白の扇子を中天に投げつけたように舞いあがり、広大な青空の自由のなかへと溶けこんでいった。狼のジャンプはむなしく空を切り急カーブを描いて落下した。

 狼は空缶がつぶれるようにもんどり打った。骨と骨とは拍子木のごとく打ち鳴らされた。救いは砂の蒲団であったが、したたかぶつけた鼻孔にはうっすらと血がにじんだ。

 遅かった! 数秒前にここにいた白鳥は、すでに空のかなたである。時の悪戯は頼みの綱を切った。骨の音以外に何が実在していたというのだろうか。あるのは一面の砂ばかりではないか。ふくよかな白鳥は、元より実在しない幻にすぎなかったのだ。

 狼の体内には、空しさだけが黴の胞子のように瀰漫した。およそ感情というものを喪失した狼は、ただぐったりとして舌先で鼻血を嘗めずりまわした。倒錯はすでに起こり、狼は己を喰らおうとしてもがいたが、所詮無理な話である。節々の痛みだけがいかにも真実であった。


 井戸が干上がるような欠乏の状態が、狼の五臓六腑に浸透した。狼は横たわり、身動きも叶わぬまま腹をひくひくさせていた。息絶える前に今一度満腹を希うのは、強欲なのだろうか? そのような疑義は野獣の堕落にほかなるまい。生物界には弱肉強食以上の鉄則はない。強者たる狼が弱者たる兎を喰らうのは自然の理である。狼にとって本能がそれを欲しているという事実は、それだけで十分に正当なのであった。

 しかしながら、弱者たる狼という等式が成立する状況の下では、それは満たされぬままに滅んで然るべきものである。老いた狼、手負いの狼=強者たる力量を喪失した狼。それは蛙が蛇に呑まれるごとく時間という怪物に呑まれるべきものである。

 死はまさに老いてがたがたになった敗者の傍らにたたずんでいた。狼は飢えることに疲れはてて死神の青き腕にその身をゆだねかけていた。

 狼も死ねば単なる土塊である。骨に皮がへばりついているだけの脆い物体にすぎない。蛆虫は脳を食い荒らし、目からは風が忍びこむ。生ける狼は、からからの白骨を踏つけて歩き、頭蓋骨に尿を垂れるであろう。それがやがてたどる自らのすがたであることも知らずに。・・生きとし生ける命は種を残して土へかえり、腐食した死体に肥えた土は新たなる生きとし生ける命をはぐくむ。その回帰と新生こそが森羅万象の哲理なのである。

 一握の土にも幾千万年の歴史がある。過去、現在、未来へとつづく生命の系譜は、土を終点起点として尽きることなく連続している。その連続性の支柱である天地の悠久にめざめれば、風に舞う枯れ葉の微笑さえ見えるに違いない。だが、悠久を認めぬ個体に執着するならば、その心は悲哀の淵へと沈んでいかざるを得ないのである。

 狼は蛆虫の調べを待っていた。身体は疲労困憊して次第に冷えていった。それは彼が土に戻りかけている明かな証拠であった。

 ・・そんなわけで狼は、幽かな鳥のはばたきが耳に忍びこんで来たときも、それを事実として認識することができなかった。それは狡猾な死神の子守歌なのだろうと思っていた。それとも死体に唇をよせる蛆虫の愛の歌であろうか。狼は鉛のような頭をもたげてその方向を一瞥した。砂埃を見ても、狼にはその事態が呑みこめなかった。でも、もう一度という気になったのは、尻尾がうれしそうに大地をたたいたからである。


 狼は土塊に成りはててはいなかった。彼の体内には、血肉への飢渇がいまだ鮮烈に根をおろしていた。生の残り火の再燃には白鳥のかすかな艶姿があれば事足りたのである。

 狼は赤子が立ちあがるような格好で足を立て直した。身体はそれ自体が重りであるかのようである。足先はしびれて棒のようであった。

 それにしても期待というものは恐ろしいもので、四本の棒は動きはじめたのである。

 山風は剃刀のように身をよぎる。茅の原は嘲るかのように地の底からはやし立てる。二、三の雀が頭上をまわる。山容は十重二十重の剣のごとく山間の原を圧し、大地という巨人は連山の峯から天に向かって高らかに吠えていた。

 ああ・・光だけは味方であった。白鳥をくっきりと浮き立たせている夕映えの赤光だけは!

 狼にはしかし感動する余裕はなかった。狼は前のめりに歩いた。生の標的を目ざして一直線に歩いたのである。

 獲物は逃げない。砂埃のなかには白鳥がいる。それがたしかな事であるだけに狼は一足一足の努力に苦しんだ。時計の振り子よりどれほど早く歩けるか。・・時間との苛酷な闘争はつづいた。これから鳥は逃げ出すかもしれない。邪魔が入って驚いてまた飛び去るかもしれない。狼は、その激しい苛立ちのうちに己を発見した。


     殺せ、

     あの鳥を殺せ!

     殺して、

     生きるんだ!


 空虚でありながらも、心身を魅了するその衝動に押し流されて、歩調は奇跡的に早まった。

 

     殺すのだ!

     あの鳥を血祭にあげるのだ!


 狼は駆けた。

 そして渓谷を飛び越えんとする勢いで飛びかかった。・・生物の手応えがあった。純白の翼には飢えた爪先が食いこんだ。白鳥は足の下で悶えている。それはまさに生きて実在していた。つややかな翼は自由を求めて激しく砂埃を立てつづけていた。

 狼はあわただしくその喉笛を噛み切ろうとした。その刹那のことである。得体のしれない棒にぶつかって彼は後ろにのけぞった。それは雌鹿に蹴られた青痣のすぐ隣に命中したのである。失神するほどの衝撃はなかったものの腹を立てさせるには十分な痛みであった。此奴め、足が三本あるのか、と速断してよくよく見ると、豈図らんや、それは弓矢であった。流血は白い腹部に稲光の模様を描いている。狼は鳥が逃げずにいたそのわけを了解した。この鳥は、逃げようにも飛翔する力を持たなかったのである。

 白鳥は、清らかな湖が恋しいと告白しているかのように囚われの身をくねらせている。自由な空へ帰りたいと哀訴しているかのように遠くを見つめてはばたいている。

 狼は直線的な行為の挫折にはなはだしく気がくじかれた。そのほんの束の間に全身の疲労が、こわれた棚から荷物が落下するように全身にのしかかってきた。その重しに抗しかねて白鳥に覆いかぶさるように倒れて気を失いかけた。喉が渇き、身体は地底に沈むごとく感じられた。

 狼は獲物の温味だけに己が生きている確証を得ていた。それ以外の感覚は0に還元されて、その鳥を食う気力も失せていた。

 白鳥はぐったりとして動くことも叶わずにいた。その腹部は、右脇腹から深々と矢に貫かれ、血は悲しく流れている。狼が食わずともこの鳥に助かる望みはあるまい。狼は空ろにその鳥の目を見ていた。それは狼自身の瞳とどれほどよく似ていたことか。・・狼は左耳を食い取られ、雌鹿に蹴とばされ、もうすっかり年老いている。だがこの鳥はまだ若いのに、おそらくもっとも元気溌刺としているべき時期なのに、若さの享楽さえも味わえぬ間に矢で打ち貫かれ、最後の飛翔で狩人の手を逃れて来たあげくのはてに狼の餌食になろうとしているのである。なんと奇態なめぐり合わせであることか。飢えの地獄に耐えてきた狼であれば、その悲惨に共感を覚えぬわけでもなかった。だが、狼が白鳥に憐憫をもよおしたと考えるのはあまりに思弁的な解釈である。そのとき狼は、その状況が充分に把握できなかったのである。夢と現とのさまよいに心底疲労した狼は、実際に獲物を手にしたことが信じられなくて、かえって夢のなかにいるような非現実的な気分にひたっていた。ある意味で掌中の獲物は、犯しがたい神聖な供物としてその目に映ったのである。狼は、それが疑うべからざる事実として認識されるときを茫然自失の境で待っていた。その焼けつくような焦燥の間に悲喜交々到る感情がめまぐるしく揺曳した。だが、狼は狼である。今にも狼は、その本性を露にせずにはいないであろう。

 そのとき休息のなかで己を忘れていた獣の耳には、清らかな渓流の音律が筋の痛みをほぐすもみ療治であるかのようにひびいてきた。ここは砂地である。川は近い。狼は激しい渇きに喉をひくつかせた。水音にさそわれるように脚を立てようとしていた。そのすがたには、夢から覚める最後の努力を試みているかのような本能が働いていた。

 狼は白鳥の首根をくわえ、引きずるようにしながら川へと向かった。かっくりかっくりする骨は、心なしか狩猟の凱歌のようにも思われた。この獲物はどこかに連れ去らねばならぬのだ。狼は獲物を捕らえた獣がそれを安全な場所に運び去るような習性をもかねてその行動に耐えていた。それは獲物をゆっくりと楽しみたいという強欲のなせる業であったのかもしれない。

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